夏 残暑見舞い 非礼の念から言っただけ
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。
充実していた筈の彼女や親友達との関係も、留学や自身の受験失敗で、全てはご破算に。
同窓の浪人女子「ソウシ」と、ふとしたことで「年末まで」手をつなぐことになり、気も漫ろ。
こんなことで捲土重来は達成できるのか?
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夏休み期間も半ばを過ぎた頃、おケイさんから残暑見舞いの葉書が届いた。
夏らしい、深山幽谷の山水の描かれた絵葉書には、
其の後、目標に向かい、順調に頑張っておられることと思います。
私は大学で空手部に入りました。
旧帝大は、みな夏になると交流戦があって、京大にも友達が出来ました。
京大応援団の人とも親しくなりましたよ。
来春、京都の町をご案内戴くことを楽しみにしていますね。
かしこ
とあった。
おケイさんらしい、大和撫子そのものの文面だった。
何気なく読み流して了えばよかったのに、春の約束のことをこうして夏の便りに認めてきたことに少し動揺した。
少しだけ悩んだ後、返信には簡単な近況と、励ましに応えるべく頑張っているという事だけを書き、自作の花火の版画を押して投函した。
此の残暑見舞いが、単なる励ましなのか、それとも本意なのか。イチに聞けば、当然前者だと言われるだろう。聞くまでもないと思ったが、僕は何か勇気づけられる其の絵葉書を、ドイツ語の問題集の栞がわりにした。
* * *
時を少し経て、ソウシからも、講習が無くて会わない期間に残暑見舞いが来た。美術・書道系らしい力強い荒波と海辺を描いた手製の絵葉書に、
波を乗り切れ
と大きく自信に満ちた字が達筆で書かれていた。
僕は、ソウシにも同様に手製の版画の返信で、
気を抜かずに、呑まれずに行く可し
と書いて返信した。ソウシからの葉書は、代数学辞典の栞にした。
* * *
講習が再開し、ソウシと普段のようにあめりかまるで昼食をとっていたときだった。
「ギエンはさ、どうしてドイツ語で入試受けるの?」
「二つ上の先輩に、『其の方が簡単だから』って言われたから。」
「へぇ。でも、よく其処までドイツ語を勉強する気になったね? 私も仏語選択だけど、受験科目にまでするほど勉強しようとは思わなかった。」
「二年の時にさ、留学生のお世話役もしてたからドイツ語に免疫が出来た所為かも知れない。」
「あぁ、あのお姫様ね?」
「何だぁ? お姫様って?」
「
「ああ離校式のドレス姿か? あれだけでよく其処まで話を広げられるな。」
ソウシの口からエリーのことが出てきたのは初めてだった。フランス人留学生に対する僕の知識が限りなく白に近いのと同じくらい、彼女もエリーについては何も知らないだろうと思い込んでいた。まあ、今の口ぶりからすれば、口にした内容以上の印象も穿った見方もないのだろうということは推察できた。
しかし、僕自身エリーと何があった訳ではなくても、こうして言葉の端にでも彼女のことに触れられることは、精神的な動揺をもたらした。
彼女との一年間はベーデやシィちゃんに関することと同じくらい、あるいはそれ以上に、僕にとっては日常の生活に深く入り込んだものだったことを改めて思い知らされた。
とは言えど、動揺したところで、僕にはどうすることも出来なかった。そんな近しい存在だった三人の女の子達は、いずれも《手の届かない》存在になっている。
それは、とりもなおさず僕自身が抱える今の状況の不甲斐なさから来ているものであって、それを克服しない限り、復縁どころか、それこそ残暑見舞いすら交信することも出来ないことくらい、僕にも分かっていた。
「で、ギエンは、其の《爺や》をしていたからドイツ語に明るくなった訳だ?」
「《爺や》じゃないってば…。」
「ごめん、ごめん。ネ、ドイツ語の問題って何様なものが出るの?」
「見てみる? 書き込みいっぱいあって汚いけど、良いよ。」
問題集を手渡し、其の足で洗面所に立った僕は、手を洗っている最中に己の愚行に気づいて真っ青になった。
(気が付かなければ良いんだけれど…。)
出来るだけ平静を装って席に戻っても、それは空しい結果に終わっていた。目の前で、ソウシがおケイさんからの残暑見舞を見ている。
「あぁ…、同級生からの残暑見舞い…。」
ソウシは、もう既に全部読んで了ったらしく、丁寧に問題集を閉じた。
「はい、有り難う。」
どう言うべきか言葉が見付からなかった。
おケイさんとの間柄は、穿った見方をしたとしても『蜘蛛の糸』状態な訳で、決して付き合っているなんてことはない。
翻ってソウシはどうかといえば、手をつないではいるが、これは契約に基づくものだと言って了えば、これもそこまでだ。
一先ず、ソウシがどういう反応を見せるか、様子見の姿勢で構えた。
「佐多さんって、水泳部のエースだった人でしょ? 知ってるよ。慎ましやかで綺麗な人だよね。」
「そうだね、男子からの人気も高かったし、文化祭の演劇でもヒロインで、ある種の憧れだったかな。」
彼女はフーンといった顔で聞いた後、ズイと身体を乗り出してきた。
「私、回りくどい聞き方出来ないから単刀直入に聞くんだけどさ…。」
「うん…。」
「ギエンは、佐多さんと、どういうご関係な訳?」
「えっと、僕は、彼女の学校家庭教師…で…した。」
「何の?」
「数学とか。試験対策…。」
形勢は明らかに不利になっていた。周囲からみたら、どうみても浮気の現場を押さえられたか、二股を責められている光景だ。
しかし、手をつないでいるというだけ、然も自分から言い出した契約で、どうしてソウシは此処まで強気に聞いてくるのか。鳥渡戸惑ったけれども、最初に反撃に出られなかった時点で既に僕の負けだった。
「ほーっ、数学ねぇ。それだけ? 朝のプールでお二人だけのところを何度も見たという話とか、夕方にお二人だけで気持ち良さそうに歌を歌いながらお帰りになる姿を見られていたということが学年で有名だったというのは、貴男ご自身ではご存じ?」
《学年で有名》なほど知られていたということを自分の耳で聴いたのは初めてだった。多分、僕の方面からではなく、おケイさんのファン層から出た話だろう。だからといって、「えっと、それは初耳です。」などと理屈で答えようものなら、火に油を注ぐことくらい、分かっていた。僕だって少しは成長していた訳だ。
「そういう話は本当だけど、どちらも恋愛とは別の理屈があってしていたことで、決して付き合っていた訳じゃあないし…。」
少しは成長したとしても、まだ正解でもなければ不正解でもないことしか言えない。
「ふーん。じゃあ、こういうお葉書貰って大事に栞に使っていても、特別な感情はありません、付き合っていませんって、はっきり言えるんだ?」
「うん、言える。間違いない。」
蜘蛛の糸のことは分からないから、とりあえず定義上の事実をはっきりと伝えた。さらに、
「それに…。」
「それに何?」
彼女は乗り出していた身をソファに預けたけれども、半分納得がいかないような顔で僕を真っ正面から見据えていた。
此の娘、普段はそうでもないくせに、真顔になればきりりと整った顔なだけに、見据えられると可成り怖い。種類こそ違え、僕は怖い女性にしか縁がないらしい。
「それに、君から貰った残暑見舞いは、代数学辞典の栞にしてるから持ち運べない。間違っても失くし度くないし。」
「ふーん…。」
ソウシは少しだけ眉をあげ,声質がちょっぴり変わった。
代数学辞典は、僕にとって大学受験の聖書の内の一つで、其の大切さは彼女も知っていたからだ。
「有り難う。でも勘違いしないでね。私がギエンに今のことを尋ねたのは、佐多さんがギエンと付き合っているのなら、私は彼女に対してとんでもなく失礼なことをしているという非礼の念から言っただけであって、決して
フランス語の流暢な発音で返された此の物の言い様が一種の
だけど、此の事件があったからと言って、ソウシが友人以上の感情をもって僕に接しているとは考えられなかった。
当たり前だが、女の子というものは、天秤にかけられるのを非常に嫌う。(其のくせ、それまでの実例の如く、女の子は男を何度でも何人でも天秤にかける)。
だから、ソウシがもしおケイさんからの残暑見舞いに嫉妬心を持ったとしても、それは僕に対する感情の問題より、自分が天秤にかけられたのではないか、という自尊心から発したものとも考えられたからだ。
兎も角、今後は、持ち物に気をつけないと、余計な命の危険に曝されると実感した。
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