夏 黒電話 オーバー・フローした
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。
充実していた筈の学生生活も自身の受験失敗等諸々で全てはご破算に。
今は「ソウシ」と、ふとしたことで「年末まで」手をつなぐことになり、気も漫ろ。
こんなことで捲土重来は達成できるのか?
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当時は、『携帯電話』なんて図鑑で眺める未来の話。
『ポケベル』なんてものも現れる前。
親子電話や留守番電話、プッシュホンだって、一般家庭ではまだ先の時代。
学生が連絡をとる手段は、自宅にある『黒電話』が当たり前だった。
其の黒電話は、大抵の家では居間か、其処を出た廊下にあって、話の内容は家族に筒抜けだった。自宅の電話で友人との話、ましてや恋人との話にプライバシーなどなかったから都会の学生は公衆電話を使った。
僕は田舎の在だから、外で公衆電話に辿り着くまでに十五分もかかる。テレホンカードなんてものもなければ,百円玉対応の電話だって田舎じゃ見かけないから、相応の小銭を用意していかなければいけない。それに照明の明るい公衆電話付近は、夏場なら蚊の餌食になることを覚悟しなければならなかったし、其様な処で長電話をしていれば不審者とも思われかねなかった。だから、話の内容を抽象化してでも自宅から電話しなければならなかった。それでも、僕は満足だった。
ソウシから電話番号を聞いたのは意外と遅くて、彼女の夏期講習が無い期間に入る直前だった。それまでは、「じゃ、また明日。」で済んでいたのが不思議だった。
彼女の家はご商売をしているので、電話番号が複数あった。其のうちの一つが彼女のおばあちゃんと彼女用に使われていた。おばあちゃんが出ると、ソウシに代わって貰うまでに鳥渡苦労したけれど、大抵は夜の九時以降(此の時間以降なら、普通のサラリーマン家庭である僕の家の電話なら、他所から電話がかかってくる心配が少なかったからだ)に決めていたから、第一声でソウシが出て呉れた。
昔も今も、学生の電話に、『内容』らしきものなんてない。其の場で思いついたことを延々と喋り続けるだけで安心なのだ。昨日電話をきってからあったこと、考えたこと、困ったこと、嬉しかったこと、何でも話した。電話をすることに『理由』など必要なかった。『声が聞き度い』、『話をし度い』其の単純な動機だけで充分だった。
ある日、彼女から先に、電話が架かってきた。
「どうしよう!」
「何だ? どうした?」
「基礎的なことが全然分からない…。」
「英語か? 国語か?」
「全部…。」
僕は、彼女がオーバー・フローしたと直感した。
自分にも、一度か二度経験があった。受験の準備を続けていると、必ず、スランプの一つでオーバー・フローがやってくる。頭の中がいっぱいになって了って出口が詰まり、
「落ち着いて。大丈夫だから。」
「大丈夫じゃないよ、全然解けないんだよ。」
「じゃあ、いっちばん基礎的な参考書の一番初めに戻ってご覧。問題集も、いっちばん基礎的な問題集の一番初めに戻って。出来るだけ薄いやつが良い。」
「
「それをしないと、もっと時間が掛かる。良いかい、明日僕が一緒に三省堂に行くから、今日は、もう何もしないで寝るの。分かった?」
「分かった。」
* * *
翌日、彼女を連れて三省堂に行き、其の実力なら三日もかからない基礎の復習問題集を夫々選んでみた。
「これ、大丈夫? 出来る?」
最初の一ページを開いて見せる。
「ん。大丈夫。」
小声で彼女が答える。其の繰り返しで、主要教科の問題集を買った。其の日の晩、電話が架かってきた。
「有り難う、調子が戻って来たよ。」
「良かったね。」
「なんだろう…焦ってたのかな。」
「みんなあることだよ。でも気付かないと傷口が大きくなる。」
「ギエンは、もう経験したの?」
「前に何度か。だから、焦らないのが一番良いと思った。」
「ごめん、其の時に力になれなくて…。」
「現役の時だったし、大丈夫。もう過去のことだから。」
「そう…。一人で乗り切ったんだ、偉いね。」
「でも、こうして相談出来ると、気分が楽だね。僕も、自分自身に言い聞かせることが出来るし。」
「有り難う、そう言って貰えると、私も少し気が済む…。」
「折角こうして知り合ったんだから、助け合いだって。」
「何か、あったら私に言ってね。力になるから。」
「ん。分かったよ。其の時はよろしく。」
* * *
今から思えば、全く会えない一週間は、矢張り、二人とも精神的に少しだけ、ほんの少しだけ、不安定だったのかも知れない。
ソウシと合わない一週間が終わり、再び神保町で食事をするようになった頃、手をつないで歩く習慣は、ごく自然になっていた。
そして四十日間の総括となる模試で、僕は京大理学部A判定、ソウシは早大一文A判定を得て、其の日は駿河台下の洋食店で、天王山を越えた安堵感をお互いに讃え合った。
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