夏 日比谷図書館 自分で身なりに気をつける

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。

 充実していた筈の彼女や親友達との関係も、留学や自身の受験失敗で、全てはご破算に。

 気になっていた同窓の浪人女子「ソウシ」と、ふとしたことで「年末まで」手をつなぐことになり、気も漫ろ。

 こんなことで捲土重来は達成できるのか?

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 翌日、初めて自分の意思で『坂を下った』。

 ウィニーは来なかった。研数で待っている間も緊張はしなかった。そう、《為すが儘に》任せていれば良いのだ。振り返ってみれば、今迄だって女の子たちの為すが儘に殆ど任せてきたではないか。それと同じだ。


「オス!」


 ソウシが現れた。梅雨が開ける前に心の中の雲の大半は吹き飛ばされていった。

 毎日予備校に通い、講義は好きな講師だけ選んで出席し、他の時間は食堂で自習をする。理科は生物と物理と地学を、社会は日本史と政経と倫理社会を、そして外国語は英語とドイツ語を、気の済むまで気持ち良くこなしつづけた。

 模試は英語で受けていたので、クラスはBからDの間を変動したが、午前部から追い出されるほどの非道い結果になることはなかった。

 模試では大抵、京大の理学部がB判定、農学部はA判定だった。時代は、重厚長大からミクロ、バイオの世界へと移りつつあった。

 目につくメディアの影響もあり、バイオテクノロジーにも興味が出てきた。物理学科でいくのか、生物系のどこかに変更するのか、少しの迷いはあったが、選択科目に大きな変更を及ぼすほどの問題でもなく、基礎の徹底と過去問の反復を続けた。他の数多くの受験生と同じように。


 *     *     *


《為すが儘に》という選択は、僕を様々な意味で安定させて呉れた。午前中は予備校で講義か自習、昼が来れば坂を下り、ソウシと待ち合わせて食事とお茶をしてから帰る。

 僕が安定した一方で、ウィニーは生活が変わった。僕は知らなかったが、彼はそれまで毎日坂を下っていた。つまり毎日ソウシと食事をしていたのだ。僕が彼女と手をつなぎ始めてから二日目を機に、彼はぱったりと僕の前にもソウシの前にも姿を見せなくなって了った。

 僕等に遠慮をしたのか、それとも彼はソウシに気があったのか、それは分からない。でも、大抵の男なら、三人で歩いていて、其のうちの二人が手をつないでいたら、もう、馬鹿々々しくて一緒には歩けないだろう。極めて当たり前の結論だ。


 夏休み前、最後の講義の日、ソウシと僕は神田白十字でランチをしていた。


「ギエンは此の夏、どうするの?」

「今年? 今年は何処も行かないだろうなぁ、後輩の合宿にも顔を出せないだろうし。」

「お馬鹿。誰も貴男の『お休み』の日程なんか聞いてないわよ。私は、平常通り、研数で夏期講習よ。貴男は何処で『お勉強』するの?」

「あぁ、そういうこと? 夏期講習はとらない。」

「とらない? それで大丈夫なの?」

「中途半端な設定だったり、分野が『講師の得意なところ』の押し売りをされるより、『自分の苦手なところ』を補強したり、必要なことの定着を図ることの方が大事だから。」


「そう、じゃあ、お家でお勉強ね…。」

「否、日比谷図書館に来る。」

「もっと家に近い処ですれば良いじゃないの?」

「生活のリズムは崩し度くないんだ。平常の時間に出て、平常のように車内と駅で勉強して、そして図書館で勉強して、公園をぶらついて、遅い昼を食べて帰る。」

「じゃあさ、昼だけでも一緒に食べない? 此処まで来るのが億劫でなければ。」

「神保町なら良いよ。日比谷公園から一本だし。」

「助かった。他に誰も食べる相手が居ないのも辛いから。」


 彼女は黒目勝ちな目を細め、安心したように微笑んでいた。


 *     *     *


 手をつなぎ始めてから、少し身なりに気を使うようになった。

 それは、自分自身を変えるというほどの大それた合わせ方じゃなく、手をつないでいる相手として、女の子に失礼じゃあない格好をする程度のものだったけれど、それまでの浪人生活の中では一番身だしなみの整った時期になった。

 ダンガリー許りだったシャツにはプルオーバーのボタンダウンが加わったし、ジーンズのヴァリエーションもコットンパンツも増えた。足下も裸足ではなく白いソックスになった。腕時計もきちんとするようにした。

 それまで近くに居た彼女達が知ったら、《女の子に言われる以前に自分で身なりに気をつける》なんていう変化は、それこそ驚天動地のものだったに違いない。

 ただ、自分の個性を越えたお洒落なんてことは出来ないことが分かっていたから、本当に、彼女に失礼ではない程度の格好に、何とか一生懸命合わせたに過ぎなかった。

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