夏 第二次攻撃 (1)私が戻って来るまでに食べておきなさいよ!

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。

 充実していた筈の彼女や親友達との関係も、留学や自身の受験失敗で、全てはご破算に。

 再受験に向けた体をとりつつも、現在は同窓の浪人女子「ソウシ」に気も漫ろの駿河だが、こんなことで捲土重来は達成できるのか?

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 梅雨なんぞどこに行ったのかと思うほどジリジリとした太陽が照りつけていたある日。ウィニーと僕は、また坂を下った。

 江別さんに叱られてから二、三日は考え込んでみたものの、受験の準備は準備、食事は食事で良いじゃないか、という結論だった。

 駿河台下、神保町、淡路町一帯は、ご存知の通り古くからの学生街、古書店街、オフィス街ということで、安く美味な食事が出来る洋食屋が沢山あった。駿河台下の様々なキッチン〇〇といった洋食店の数々。特に、駿河台下の某キッチンだけは、イチとの電話の一件ではないが『ベーデとの想い出』が正直なところ辛かったので、暗に避けるようにしていた。


 ウィニーは大柄な体の所為か、盛りのよいキッチンを好んだ。

 ソウシが入ると、どちらかと言えば喫茶店のランチが主流になった。

 神保町の路地にある老舗の三店などは、僕等予備校生など客としてはひよっこの部類だったけれど、薄暗い店内で静かに談笑出来る落ち着いた雰囲気は、受験というものを真っ正面から忘れさせまいとする予備校で疲れた頭を癒して呉れた。

 他にも数々の大小個性溢れる喫茶店、カフェにもよく足を運んだ。


 坂を下り、研数学館に着くと日陰で待っている間にソウシが出てきた。


「今日は何処にする?」


 腹を空かせたウィニーが待ちきれずに訊ねる。レディ・ファストが当然とされてきた一高こうこうでは、余程のことがない限り女子の意見が優先された。


「ごめん、今日は暑いけど淡路町まで良い? 久しぶりに晴れたから、鳥渡ちょっと歩き度いんだ」


 ソウシが拝むような仕草で言った。


「構わないよ。」


 江別さんが居たら「近くで食って直ぐに帰れ!」と一喝されるだろうなぁと考えつつも、最近の準備の仕上がり具合を考えて僕は返答した。

 神田カソリック教会、錦華公園、白水社と、僕らは日陰を選びながら、淡路町へ向かった。淡路町なら、喫茶店でのランチを指している。


「ゆっくりし度くなったんかい?」


 ソウシに訊ねてみる。


「ウーン、江別さんの言うことは分かるんだけどさ、私、研数の水が合わないって言うか。息が詰まりそうなんだわ。時々水面に浮上しないと。」

「ふーん、確かに駿台と研数じゃ同じ私大コースでも雰囲気違うよな。」


 ウィニーは汗を拭きつつ連いて来るのが矢渡という感じだ。


「駿台の午前文科の柄じゃないとか偉そうなこと言ったけどさ、他の理由もある訳で。ウチのクラスはさ、担任がカズちゃんじゃない? 担任陣の中でも若造だから力がない訳さ。なんか気がついたら予備校の推薦は研数しか残っていなくてさ。」


 一高こうこうじゃ、教員の異動なんてものは事実上なくて、東大出てから直ぐに教師になって勤続二十五年、三十年なんていう先生がゴロゴロしていた。

 カズちゃん、こと和野先生(年齢三十代)は、東大大学院の数学研究科を出て直ぐに、一高出身ということもあって運良く空いていた数学科の教師に転がり込んだラッキーな口だった。


「でも男にとっては、目の癒し所のある予備校っていうのも悪くはないがな、自分で勉強できれば。」


 ウィニーが珍しく色恋の話をする。一高こうこう時代には凡そ浮いた噂などなかったと、彼は自負していた。というか、人の好い人畜無害な印象があまりに強くて、本人が色恋について考えていても周りには分からなかったのかも知れない。

《顔のワイシャツ》で有名な小川町の交差点を渡り、漸く淡路町のビルの一階にある行きつけの喫茶店に入った。


 冷房の効いた店内で、先ず洗面所で顔を洗い、ランチを頼む。僕らが訪れる時間帯は丁度サラリーマンが昼休みを終えた頃で、店内もゆったりとしているのが普段の状態だった。

 チキン照り焼きステーキランチを食べ終えた僕は、ハンバーグステーキランチの大盛りライスを黙々と口に運んでいるウィニーを横目に、目の前でBLTサンドを食べ終えたソウシと話し始めようとした。

 其の瞬間、


「鳥渡待った。ギエン、其のサラダ食べないの?」

「食べる?」

「そうじゃなくて…、自分で食べないの?」

「あ、残そうかと…。」

「見ていると、ギエン、常時いつもお野菜残すでしょ!」


 横でウィニーがご飯を頬張りながら頷いている。


「お野菜は沢山食べてもウィニーみたいに太らないから大丈夫だよ。寧ろ食べないと身体に良くない。」

「そうだよねぇ…。」

「そうだよねぇ、って分かっているなら、早く食べなさいって。ウィニーは良いの、自分の食べてれば。」


 ウィニーが横からサラダを取る仕草を見せたのを一喝して、ソウシが腕組みをして此方を見ている。


「子供ってさぁ、何かご褒美がないと、中々苦手なことを克服出来ないんだよな。」


 ウィニーが完食して身体を揺すりながら、ペーパー・ナプキンで口を拭きながら言う。

 すると、ソウシは僕の横に立つと、


「まったく…。食べられたら、年末まで手をつないで歩いてあげるから。良い? 私が戻って来るまでに食べておきなさいよ!」


 深く一息ついた後で吐き捨てるように言い、其の儘出入口付近の公衆電話の方に歩いて行った。


「えーっと…。」


 僕は、春に遭った電車の中でのおケイさんとの一件の後のように狐につままれた状態になった。


(何かの聞き違いかな?)


 それにしては身体が固まって、横のウィニーを見ることが出来ない。ウィニーは黙った儘ペーパータオルでいつまでも口を拭いているようだ。

 とりあえず、結果が真であろうと偽であろうと、それはそれとして、自分の身体の為にサラダを口に運び始めた。一口、二口、三口…。ソウシは戻って来ない。此方を見るか見ないかの姿勢で電話をしている。最後のプチトマトを口に運び、水を一口飲み、ペーパータオルで口を拭いた後、暫くボーッとしていると、彼女が戻って来た。


「食べられたんだぁ? エライエライ。」


 ソウシは、幼稚園か保育園の子どもをあやすような褒め方をした。僕は次の話題を出す勇気が無かった、というより、頭の中が真っ白に近かった。ウィニーは横でまだ口を拭いていた。


「ところで此の間のサ…。」


 普段の物理学と哲学の話題に入っていくソウシに


(何だ矢っ張り野菜を食わせるための冗談だよな)


 と、安堵とも落胆ともつかない気持ちで話に乗った。でも、実際、それですっかりホッとしていたのだ。ウィニーもナプキンを置き、普通に話に加わっている。


「江別さんもサ、損な役回りだって。」

「中間管理職みたいなもんだもんなぁ。」

「だってさ、現実問題として委員の進学が疎かになれば、『浪人生は委員になること罷りならん!』くらい言われちゃいそうじゃん。」


 事実、委員会組織は居心地もよく、大学という新しい場所を与えられた現役進学生より、浪人生が占める割合の方が多かった。


「でも阿曽さんなんて、此の間会った時、『拘り過ぎると落ちる。一旦、大学を頭の中から捨て去って、ゼロから始めてみろ。直ぐに受かる』なんて言ってたよ。」


 阿曽さんは、僕らより大分年上だ。理一志望で二浪した直後、数年間、山岳仏教の修行に入って了った。そして、山から下りて来たかと思ったら半年弱の勉強でサッサと合格した。


「あの人は頭の中がもう煮詰まっちゃったんだよね。だから一旦お鍋の中を空にしたら、全部綺麗に整理出来たって典型でしょう。」


 ソウシがアイス・ティーを飲みながら分析する。


「実際さ、予備校の授業て役に立つのかな。なんかカリスマ講師とか居るけど、分かってることしか言わないじゃん。」

「結局は『合格出来る』可能性っていうか要素を持った浪人生を、予備校がどれだけ確保して尻を叩けるかだろ。だから推薦制度がある訳だし。」


 ウィニーは食後のモンブランをフォークで突きながら、普段の《合格するか否かは予備校の力ではない》論を展開する。


「結局はチェスの駒なんだよ」


 僕は、先日の江別さんの一件以来、一般試験で予備校に入れば、取り替えや再出馬が可能な将棋の駒であり、推薦で予備校に入れば一度きりの再挑戦なしのチェスの駒だ、と思っていた。


「チェスの駒を動かしてるのは誰?」


 ソウシはアイスティーを飲みおわって、ポロシャツを着た上半身をソファに預けて、訊いてきた。


「自分、かな」

「普通に考えれば予備校じゃないの?」

「少なくとも俺は自分で駒を動かす。予備校を利用はするが、利用はされない。」

「じゃあ、他の駒は? それも自分、ていうか夫々自身?」

「それは夫々だよ、予備校に動かされているか自分で動いているか、それは分からないけど夫々だ。」

「じゃ、其様な誰が動かしているか分からない駒まで含めて総合的な戦略を立てられると、自分では思っている訳?」

「自分の駒を自分の頭で動かせる力があれば、それを中心に作戦は変わるさ。活路を切り拓くように動かせれば、他の駒もそれに従わざるを得なくなる。」

「合格するための努力で自然と周りを乗り越えて、予備校も利用し、自分の納得出来る合格を実現させられるっていうの?」

「んー、なんだか自分でも分からなくなってきたけど。まあ大体其様な感じかな。」

「ふーん…。」


 ソウシはアイスティーの氷をかき混ぜながら、じっと僕の目を見ていた。僕は不思議と其の視線をそらそうとは思わずに自然に見つめかえしていた。

 但し、其処には何の対人意識もなく、寧ろ話がこんがらかってしまって自分でもどう収集して良いか分からなくなっていただけだった。


「自我と他我を予備校の意志と一緒に議論しようとするからおかしくなるんだって。」


 ウィニーが漸くモンブランを突き終わって口を開いた。


「そうかもね、俺もよく分からん。」


 僕も自分のアイスティーを飲み干してソファに身を預けた。


「ほらほら、此様な処をまた副島さんか江別さんに見つかると厄介だからサ、そろそろ行こう。」


 ソウシの一言で、皆が腰を上げた。支払いを済ませて、外に出ると真夏のような太陽が少し傾きつつも、ジリジリと歩道を焼いていた。


「サァ、行こうか。」


 平常のようにソウシが帰途を促した。そう、全く平常と何も変わらない同じ口調だった。其の右手が僕に向かって差し出されていたことを除いては。

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