春 続・浪人ということ 十時間も寝てるそうだ
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。
充実していた筈の彼女や親友達との関係も、留学や自身の受験失敗で、全てはご破算に。
再受験に向けた体をとりつつも、現在は同窓の浪人女子「ソウシ」に気も漫ろの駿河だが、こんなことで捲土重来は達成できるのか?
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現実の世界では、講義は休みがちになりながらも、一応毎日予備校に通っていた僕の生活に対して、ウィニーを通じたソウシの出現が少なからず動揺をもたらしていた。
それまでは持ち前の「人見知り」を活かし、誰とも交渉の無かった頃は、昼が過ぎれば家に帰り、それから他にすることもなく八時間~十時間は勉強してきたものが、彼女と食事をすると話が議論に発展することで四時間ほど割かれ、更に何だか自分の部屋でもモヤモヤと落ち着かず寝て了う日が多くなっていた。
それは彼女に対する気持ちがどうこうというより、寧ろ自分自身の時間の使い方に対する自己嫌悪から生じたものだった。
予備校生にとって恋愛が是なのか非なのか、其様な馬鹿馬鹿しい議論をしてもしようがない。恋愛をしたって、それがはっきりとしたものならば受験勉強の邪魔になるどころか、寧ろ励みになることは間違いない。
恋愛だけに限らず、何をするにしても『中途半端』にあれこれすることが最もいけない。そういう状態が続いていると、事の発端が何であれ『中途半端』なことは悩み事を惹起するに違い無い。
ソウシとのことだって、恋愛なのかそうではないのか、自分で認めるか否定するか、どちらかはっきりさせられれば其様なにモヤモヤとすることもなかっただろうに、先に進むでもなく、否定するでもなく、これまで同様に漫然と毎日を過ごしているから其様なふうに何も手が付かない状態が続く。
其様なある朝、予備校の入口でウィニーが待っていた。
「なんだ? 今日も坂を下るのか?」
「否、今日は副島さんから伝言があって、江別さんが昼飯奢って呉れるから一緒に連いて来いって。」
「副島さんが? そう…。分かった。」
何だか突然降って湧いた話に多少の胡散臭さを感じながらも、結局昼は、ウィニーと合流して坂を下っていた。
「なんだ、結局、坂を下るんじゃんか」
「ソウシも連れて来いって言われてんだよ」
更に彼女と合流して着いた水道橋駅には副島さんが居た。
「どうだ、駿河、頑張ってるか?」
「講師は取捨選択してますけど毎日行ってます。」
僕は
「
「僕は真面目ですよ。講義もテストもちゃんと受けてます。成績は下がってますけど。」
大きな体と若白髪を揺らしながら自分で笑っている。一体ウィニーの言動には裏表が無い。嘘も無い。無さすぎて一部の人には
「
「見て下さいよ、今日だってちゃんと来てるでしょ? 毎日出席なんて私くらいだって有名なんですから。」
「何とか元気みたいだな、じゃ行くか」
僕らは三崎神社の前を通り、東京大神宮の脇を抜けて、飯田橋駅へとやって来た。駅前のファスト・フード店の二階に上がると、呼び出した本人の江別さんが居た。
江別さんは
「おう、来たか。見た目は元気みたいだな。まあ座れ。」
一通り食事が済んだところで、厭な予感は的中した。
「どうだ。真面目に勉強してるか?」
「…。」
「副島は昨日総括したから今日はもう良いとして、佐原。」
「はい。」
「お前、毎日真面目に通ってる割には成績が下がっているそうじゃないか。大体お前は自分の力を過信し過すぎているきらいがある。復習もろくにしてないんだろう。」
「御気田。」
「うへぇ…。」
「うへぇじゃない、お前も毎日通ってるのに成績下げているそうじゃないか。復習をサボってる証拠だな。」
「そして、駿河。」
段々と声が大きくなってくる。僕は、(僕らのこと、売りましたね?)と副島さんの方をチラリと見遣ると、強面の顔も台無しで、(すまん)というように手を合わせて拝んでいた。
「
「自己の内面を検討することが必要なので一時的に睡眠時間を割いているためと、講師に魅力がないからです。」
「安埜先生に言うような屁理屈言うな! それなら成績を上げてから言え。大体、お前ら応援部は屁理屈ばっかり言っていかん。其様な理屈は大学に通ってから言え!」
此の分だと、副島さんは昨日、僕ら以上に大分やられたのだろう。
「お前ら三人が何で呼ばれたか分かるか? お前らは、推薦で夫々の予備校に入った。ということは、だ。其の成績が後輩に影響するんだ。現に副島は今回、千葉大には受かったが文二には落ちたから、駿台で午前部文科Ⅰ類の枠が一人減った。お前は、ちゃんと責任感じてんのか?」
「…はい、すみません…。」
応援部では強面でならしていた副島さんが借りてきた猫のように小さくなっている。
予備校の推薦生の成績は母校にも送付される。江別さんは、特に下級生の面倒見が良く、人望も厚い。また。同窓会委員の中でも母校とのパイプ役で足繁く母校にも顔を出している。
きっと其のときに、進路の先生からそれとなく様子を聞いてやって呉れと言われ、損な役回りを引き受けたのだろう。
「と・に・か・く・だ。お前らの進路はお前らの自由だ。だが学校の恩を受けていながら、後輩に迷惑をかけるのはいかん。違うか。」
「…はい…。」
「分かれば良い。良いか、自分で出来ることで最善を尽くせ。分かったな。」
江別さんは前のめりになって熱弁を振るっていた背中を漸く椅子の背につけた。
「…愚かなる者は思ふ事おほし、てね…。」
ボソッと、それでいてドスの利いた声で、今までアイスコーヒーを飲みながら黙っていた杉野さんが口を開いた。
杉野さんは休日に外出すれば街頭でタレント事務所から何件も声がかかるほどの美形。実際に一流写真家が撮ったグラビアが週刊誌に載ったこともあるくらいの人だった。看護学校に通うだけあって度胸も据わっていて、外見でも猫目と切れ長の口元が、見る者を一目で圧倒するほどの迫力のある美形だ。
同窓会の委員懇親会でやった質問ゲームでは「排泄物か吐瀉物、どちらなら食べられますか?」なんていう質問をもっと砕けた言葉で書いて了うほど、見た目と中身にギャップのある凄味のある人だった。
其の杉野さんの一言で、僕はギクリとして顔を上げた。杉野さんは猫か猛禽類かとでも言うような眼でこちらを睨み、ニヤリと笑っていた。
「愚者の一得、ていうのは有りませんか?」
ウィニーを置いて向こうに坐っているソウシが、心なしか挑戦的な口調を湛えてボソリと言った。
差し込んでくる日射しが紙コップのアイスティーの氷をどんどん溶かし、少し、気不可い沈黙の時間が流れた。
「…言葉遊びと恋愛はね…、…受験が終わってから…。ネッ?!」
杉野さんは、ストローで紙コップの中の氷をかき混ぜつつ、相変わらずの妖艶な笑みで僕たちを見回しながら、ゆっくりと言い、最後の「ネッ」のところで、ストローをグサッとコップに突き刺した。
僕らは、昼食の礼を江別さんと杉野さんに済ませて店を出た。
「済まなかったなぁ。」
店を後にして副島さんが口を開いた。
「仕方ないっすよ、本当だし。」
ソウシがボソリと言った。
少なくとも其の日だけは、(しっかりやらねばならんかなぁ)と、思いつつ、梅雨特有の鬱陶しい暑さの中を電車に揺られて帰宅した。
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