第19話 酒造の月 ⑤
香織と涼介は、山田、佐々木、松井の証言をもとに、更に調査を進めることにした。涼介はタンクのサンプルを再度分析し、特定の菌が意図的に混入されたことを確信していた。彼は香織にその結果を伝える。
「香織、この菌は普通の発酵過程では使われないものだ。意図的に混入されたに違いない。」
香織はその言葉を聞いて、眉をひそめた。
「誰が、何のためにこんなことを…」
山田の証言によると、温度上昇が発生した時期には佐々木が菌のチェックをしていたという。佐々木も異常があった時期に松井が頻繁に訪れていたことを示唆していた。涼介はこれらの証言が何か重要な手がかりになると考えた。
松井の証言から、元従業員の佐藤正樹を酒造周辺で見かけたていた事を知った。
「佐藤正樹ね。」香織は小声で呟いた。
その夜、香織は一人で港町酒造の古い記録を調べていた。彼女は偶然にも、かつてこの酒蔵で働いていた佐藤正樹という名前を見つけた。彼は酒蔵を去った後も酒造りに情熱を燃やし続けていたが、成功を収めることはできなかった。
「佐藤正樹…彼は一体何を抱えていたのか。」
香織はその名前に引かれるようにして、さらに調査を続けた。彼女は佐藤が去った時期と、港町酒造が新たな経営方針を取り始めた時期が一致することに気づいた。
佐藤が去った後、彼はしばらく酒造りを続けていたが、最近になって港町酒造の近くで頻繁に目撃されていたことが分かった。松井の証言と合わせて、佐藤が再び酒蔵に関心を持っていたことが明らかになった。
「松井さんの証言から、佐藤さんが港町酒造に再び近づいていたことが分かるわ。彼が何をしていたのか、もっと詳しく調べる必要がある。」
香織はさらに深く調査を進めるため、佐藤の住む町へと向かう決意をした。
翌日、香織と涼介は佐藤正樹に会うため、彼の住む小さな町へと向かった。佐藤は年老いたが、瞳には未だに酒造りへの情熱が宿っていた。彼は二人を迎え入れ、静かに話し始めた。
「港町酒造の新作『月影』の異変について、お話を伺いたいのです。」
香織の言葉に、佐藤は苦笑いを浮かべた。
「月影か…あれは私の夢だった。私が果たせなかった夢を、川村家が実現したんだ。」
「どういうことですか?」
涼介が問いかけると、佐藤は深い溜息をついて語り始めた。
「私はかつて港町酒造で酒造りに全てを捧げていた。しかし、経営方針の違いから蔵を去ることになった。私は外の世界で自分の酒を作り続けたが、成功は収められなかった。」
佐藤の言葉は重く響いた。
「そんな時、『月影』の話を聞いた。私がかつて夢見た完璧な酒が、他の人の手で実現されたと知って、胸が痛んだ。私はその嫉妬と後悔に駆られて、港町酒造に戻り、あの菌を混入させたんだ。」
香織と涼介はその告白に驚きながらも、佐藤の深い悲しみと悔しさを感じ取った。
「しかし、それがどれほど愚かであったか、今はよく分かっている。私の行為は、私自身の夢をさらに遠ざけるだけだった。」
香織は静かに言葉を選びながら、佐藤に向き直った。
「佐藤さん、あなたの夢をもう一度追いかけてみませんか?川村信一さんと協力して、新たな酒を作ることができるはずです。」
涼介も続けた。
「酒造りには、愛情と情熱が必要です。それはあなたが最もよく知っているはずです。」
佐藤は涙を浮かべながら頷いた。
「ありがとう。もう一度、酒造りに挑戦してみるよ。」
香織と涼介は佐藤を連れて、再び港町酒造へ戻った。夕暮れ時、酒蔵の庭には柔らかな光が差し込み、静かな雰囲気が漂っていた。川村信一は最初こそ驚いていたが、香織と涼介の説明を聞くと、深く頷いた。
「佐藤さん、あなたがこの蔵にどれほどの情熱を注いでいたか、祖父から何度も聞いていました。あなたの技術と愛情があってこそ、今の港町酒造があるのです。」
川村の言葉に、佐藤の目には涙が浮かんだ。彼は深く頭を下げた。
「川村さん、私は自分の嫉妬と後悔に囚われ、愚かなことをしてしまいました。しかし、酒造りに対する情熱は今も変わっていません。もう一度、ここで酒を作りたいのです。」
川村は静かに歩み寄り、佐藤の肩に手を置いた。
「あなたの情熱と技術が必要です、佐藤さん。共に祖父の夢を継ぎ、新しい未来を築いていきましょう。」
佐藤は涙を拭い、川村と固く握手を交わした。
「ありがとうございます。これからは共に最高の酒を作りましょう。」
その瞬間、周囲にいたスタッフたちも拍手を送り、二人の和解を祝福した。蔵全体が一つの家族のように感じられ、温かな雰囲気に包まれた。
事件が解決し、「港町酒造」の評判は回復した。香織と涼介は、酒蔵の庭で夕陽を見ながら、静かに語り合った。
「酒造りには、たくさんの人々の思いが込められているんだね。」
香織は微笑みながら言った。
「そうだね。そして、それが新たな未来を作り出すんだ。」
涼介も微笑み返した。
その時、佐藤と川村が再び酒蔵に戻り、新たな酒造りの準備を始める姿が見えた。佐藤の背中には、新たな決意と希望が感じられた。
「これからは、私たちの手で最高の酒を作り続けるんだ。」
川村の声が、蔵の中に静かに響いた。
香織と涼介は、その光景を見つめながら、静かに手を取り合った。二人の探偵としての旅は続いていくが、その一歩一歩が新たな未来を切り開いていくのだった。
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