2-3.

「岩田、最近どうした? 細かいミスが多いらしいじゃないか」


「すいません」


 へらへらと下品な顔で笑い、反省の色などひとつも見えない男が俺に煙草を差し出していた。無機質な喫煙室の中で同じ空気を吸っているこの岩田という男は、新人だった頃によくしてやったが、今ではあの頃の面影などすっかり潜めて堕落した社会人生活を送っているようだった。


 あの頃の岩田は素直で、俺の言うことをよく聞いて戦力としての期待もできたし、気が利いて要領の良い、賢い男だった。十年経ってこんなことになるとは思ってもみなかった。溌溂としていた表情はすっかり鳴りを潜め、死んだような顔でへらへらと作り笑いを浮かべる腐った男になってしまった。


「部長は女の扱いがお上手ですもんね。俺もああいう遊び方ができる大人の男になりたいですよ」


 心にもないことを言っているのは明白だった。部下の風間から言われて渋々時間を取ったというのに、この男はその自覚がない。俺の貴重な時間を消費しているという自覚が。


「俺はな、岩田。今でもお前に期待してるんだ。大器晩成っていう言葉もある。同期が全員昇進したからって焦ることはないさ」


 俺がそう言った時の岩田の顔といったら。苦虫を噛み潰したような酷い顔だ。どうやら自覚はしているようだ。それならまだ救えないこともないが、俺がわざわざ手をかけてやるほどでもない。こいつの世話など、風間に任せておけばいい。


「まだ若いんだ。これからだ」


 この言葉にも嫌そうな顔をしていた。これで自分の立場を考えるといいが、あいつにそれができるだけのプライドが残っているだろうか。中堅クラスの年齢にもなって、そんなことがわからないようではあいつの先も明るくはないな。なんにせよ、もう俺の出る幕はないだろうが。


 ブーブーブー。


 胸ポケットで震えるスマホの振動で我に返った。途端に雑踏の音が耳に入り込んできた。


 スマホの画面には二十三時三十二分が表示されていた。昼と変わらない様子で、夜の街には人が大量に溢れている。俺のような仕事帰りの男達だけではない。そこには年端も行かないような若者たちも路上にたむろしている姿がある。まったく、世の中どうなってしまっているんだ。


 そう思いながらスマホの通知を開いてみた。


『キヨシさん、今日は久しぶりにお顔が見れてフウカ嬉しかった。色んなお客さんが来るけど、キヨシさんと一緒にいると落ち着くし、またすぐお話したくなっちゃうんだ。お仕事の苦労話、フウカがたくさん聞くから、またすぐに遊びに来てね。忘れちゃやだよ?』


 さっきまで居たキャバクラの女からだった。斜めに開いたドレスから覗く胸元が印象的に蘇ってくる。せっかく楽しく酒を飲みに行ったのに、つい仕事の、岩田の話をしてしまった。あんな岩田のことなんてどうだっていいのに。


「ちょ、おじさん! 気をつけてくれよ」


 ハッと気がつくと、目の前には女みたいに髪を伸ばしたいかにもホスト然とした男が俺を睨みつけていた。そいつの庇う腕の向こうには、若くて濃い化粧を施した……。


「お前、こんなとこで何してる」


 まじまじと見なければ気がつかなかったが、そこに居たのは俺の娘に違いなかった。


 見たこともない化粧をし、見たこともないふしだらな格好をしている。夜な夜などこかへ出かけていると美智子は言っていた。こんな場所に居るとは。


「何をしていると聞いているんだ!」


「ちょっと何おじさん。知り合い?」


「知らない。ねえ、もう行こうよ」


「私は父親だ、この娘の」


「あー、お父さんですか。お仕事お疲れ様です」


「ねえ! 行こうってば」


「おいなんだ、こんな女みたいな男は。こんな奴を連れて恥ずかしくないのか?」


「リュウキくんを悪く言わないで!」


「ホストなんぞに貢ぐ金がどこにあるんだ。誰の金だと思っているんだ!」


「うるさいうるさいうるさい! 関係ないでしょ!」


「こんな時間まで外出してるなんて恥ずかしい。帰るぞ」


「やだ、やめてよ!」


 こんな往来のど真ん中で、注目の的になることだけはなんとしても避けたかった。が、そんなことはお構いなしに、娘は金切り声のようなものを上げて俺を拒んだ。


「ちょっと待って待って」


「君は黙っていたまえ」


「いやいや。おじさん、ココネちゃんのお父さんなんでしょ?」


「娘を安全に連れて帰る義務が私にはある。君のような部外者はどいてくれ」


「ちょっとね、ココネちゃんとちょっとだけ話させてくださいよ」


「話す必要などない。おい、帰るぞ」


「離してよ! 帰らない! 帰らないんだから!!」


 やっと娘の腕を掴んだと思ったが、暴れて手が付けられない。


「落ち着いて落ち着いて。話したら帰しますから。それにこれじゃ注目の的ですよ?」


 ホストの言う通りだった。こんな光景、この場所では大して珍しくもないはずなのに、何人かの目が無遠慮にこちらを見つめている。


「ちょっとだけですから、ね」


「さっさとしろ」


 俺は声を押し殺して、ホストを睨みつけた。人の娘の肩を気安く抱き、何やら近い距離で話している。娘が時折、俺を見る。ホストもチラチラこちらを見ながら話している。娘は不服そうだが頷いている。しっかりと頭を撫でられ、こちらに戻ってきた。


 不愉快この上なかった。


「帰るぞ」


「……」


「お父さん、気をつけて帰ってくださいね」


 ホストはすんなりと娘を解放し、爽やかに手を振ってきた。その様子を見ても、遠巻きに眺めていた少数の野次馬は俺たちの行動を監視し続けていた。


 だいたい娘は、なんでこんなところにいるんだ。いつどうやってこんな遊びを覚えたんだ。外出禁止も言い渡さなければならないだろうか。なんにせよ世間体が悪いことは避けたい。


 娘がついてきているか何度も確認しながら、俺は帰路を急いだ。

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