第6話 焼身
奥多摩の温泉に置いてあったピアノは妻が使っていたものではなかった。
施設の館長が目立つシンボルが欲しいと思って特注で作らせたもので、妻が持っていたものに比べるとずっと新しかった。
しかし妻はそのピアノの前からなかなか離れようとしなかった。
館長も了承して、妻は2時間近くそのピアノを弾き続けた。
奥多摩旅行から帰ってくると、季節はいよいよ冬へと移り変わった。
朝晩の冷え込みが厳しくなり、妻だけでなく私も朝の布団から抜け出すのがつらくなった。
そろそろストーブが必要になると思い、私は灯油を買いに行った。
年の最後の出勤が終わった。
私は今日の弁当を買うためにコンビニへ向かっていた。
本当は近くのスーパーの方がおいしい弁当があるのだが、この時間ではすべて売り切れているだろうと思いコンビニに立ち寄った。
コンビニを出ると、肌を刺すように冷たい風が私の行く手をはばむように吹き抜けて、私は身震いした。
私はいそいそと車に乗り込んでエンジンをかけ、エアコンが吹き出した温風に指をさらして温めた。
コンビニで買ってきた熱いコーヒーを一口のみ、腕につけている時計の時刻を確認した。
残業があったのですっかり遅くなってしまった。
妻がお腹を空かせているかどうかはわからないが、早く帰ってやりたいと思った。
コンビニからまっすぐ家に帰り、弁当を手に提げて玄関の扉をあけると、私の嗅覚が異常なにおいを感じ取った。
それは本能的に危険だと感じるようにつけられた臭いだった。
私は靴を脱ぎ飛ばして家の中へ上がった。
リビングの扉の前に立って、次に目にするであろう光景に不安を覚えながら、ゆっくりと扉を開けた。
部屋の中は嵐でも吹き荒れたかのようにめちゃくちゃになっていた。
机や椅子は全てひっくり返されていた。床一面に本や書類が散乱していた。
その上に、なにか液体のようなものがあちこちにまかれているのがわかった。
部屋の隅に大きくへこんだ赤いポリタンクが転がっていた。
壁のほうになにかがうずくまっているように見えた。
妻が膝を抱えてすすり泣いていた。その手には安物のライターが握られていた。
私はゆっくりと妻に触れた。妻はふるえる声でこうつぶやいた。
「わたしを殺して」
「…………」
「……いま火をつければ、私も焼け死んでしまうね。やっと一緒に死んでくれる気になったのかい」
妻は嗚咽(おえつ)をもらし、床に手をついて声をあげて泣いた。
私は妻の手からライターを受け取り、妻の肩を抱いた。
妻が落ち着くまでしばらくの間そうしていた。
妻の肩を抱きながら、私も声を漏らして泣いた。
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