第3話 お別れ

 妻と出会ったころ、彼女は薬剤師として働いていた。


当時の妻は明るく、エネルギッシュな印象の女性だった。


 初めて妻の家に泊まったとき、一人暮らしの妻が住んでいたのは、一風変わったマンションだった。

 

 日が暮れていたにもかかわらず、マンションの一室からくぐもったラッパの音が聞こえてきた。



 「音大生のためのマンションなの。みんな楽器をやるから夜に音をだしてもオッケーなわけ」



 妻がそんなマンションに住んでいる理由はすぐにわかった。


部屋の奥に珍しい、赤いアップライトピアノが置かれていた。



 「小学校のとき、お父さんに買ってもらったピアノなの。絵本で読んだ赤いピアノが欲しいって言って、色を塗りなおしてもらったのよ」



 そう言って妻はピアノの鍵盤を愛おしそうになでた。


 その夜、私たちは他愛(たわい)もない話で盛り上がった。


 妻は壁のむこうから聞こえてくるシロフォンの音色にあわせてころころとよく笑い、私の話におおげさに反応してみせた。


 私たちは誰かが演奏する情熱的なサックスの音色に酔いしれて夜をすごした。



 妻と私は出会って一年もたたないうちに結婚した。


お互いがお互いのことをベストパートナーだと思っていた。


 妻の借りていた部屋は二人で住むには狭かったので、ピアノをおいてもよい物件をさがし、ふたりでそこに移り住んだ。



 幸せな結婚生活に暗雲が立ちこめたのは引っ越してからまもなくのことだった。


ある日、妻のもとに一本の電話が舞い込んだ。


 母が急病で倒れたというしらせだった。



 父が中学生のときに離婚し、思春期を女手一つで育てられた、という話は以前に妻から聞いていた。


妻にとって母はなによりも大事なのだろうと私は思っていた。


 妻はすぐに病院に連絡をとり、母のもとへ向かった。


妻の母は末期の大腸がんだった。


 妻の母は保険に入っておらず、医療費は高額になった。


妻の貯金と収入はそこそこあったので、はじめはなんとかやりくりできていた。


 しかしだんだん医療費の支払いがきびしくなり、妻は休みの日でもアルバイトを探して働くようになった。


 それでも医療費の支払いは追いつかなかった。



 ある日、仕事から帰ってきたら、妻の大切にしていたピアノがなくなっていた。


まさかと思い妻にたずねると、



「売った」



という答えが返ってきた。




それからまもなくして、妻の母は亡くなった。

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