第2話 赤いピアノ

 雨雲はすっかり消え、週末は澄みわたるような快晴だった。


私は妻を説得して奥多摩へ連れていくことに成功した。


 多摩(たま)川(がわ)沿いの曲がりくねった道を車で快調にとばしていると、窓を開けて外の景色をながめていた妻が口を開いた。


 「昔ね、こういう峠の道を走っていて、目の前のガードレールをつきやぶって死にたいと思ったことがあるの。


 カーブを曲がるたびに何度もその考えが頭に浮かんできた。


まるで悪魔のささやきみたい。こわくて道の駅で数珠(じゅず)を買ったわ」


 そういえば、妻はよく数珠をつけていた。窓枠におかれた妻の腕には今も黒い数珠が光っている。


 「それいつ頃の話?」


 「母が病気になってしばらくたったころの話よ」


 私はふうん、とあいづちをうった。


カーナビが次の信号を曲がるように指示した。


 「目的地までまだ20分くらいある。少し寝ててもいいよ。昨日もあまり眠れなかったんだろう」


 「そうね」


 妻の目の下にはくまができていた。


妻は窓枠から手をおろすと、シートを倒し横になった。


 ナビは私たちを氷川(ひかわ)渓谷という場所に案内した。


観光者用の駐車場に車をとめると、私は助手席で寝ている妻を起こした。


「着いたよ」


 私はさきに車をおりて、反対側の妻のいる方のドアをあけて、妻がおりてくるのを待った。


 妻はゆっくりと体を起こし、目をこすりながら車をおりてきた。


 休日ということもあり、駐車場にはたくさんの車がとまっていた。


中には相当遠くからやってきたナンバーの車もあった。


私たちは渓谷を流れる多摩(たま)川(がわ)沿いの遊歩道の階段を下った。


岩が少し飛び出していて、そこから渓谷を一望できる場所があった。


あたりは紅葉真っ盛りで、赤や黄色の葉をつけた木々が風にそよいでいた。


もみじの葉が一枚、風にふかれて宙をただよい、激しく流れる川の流れに吸い込まれていった。


 私は澄んだ空気を胸いっぱいに吸いこんだ。


 「自然はいい。頭の中がすーっとする」


 そう言って妻を見ると、妻はもみじではなく、もみじが下っていった川のほうをじっと見つめていた。


 なんだか今にも飛び込みそうな様子だったので、私は妻の手を引いて、遊歩道を先へ進んでいった。


 遊歩道を進んだ先には「もえぎの湯」という温泉があった。


新しく建て替えたという建物の中に入ると、さわやかな新築の木の香りが私たちを出迎えた。


 温泉を出た人たちがくつろいでいるスペースがあって、その奥にかなり目立つ赤い色のアップライトピアノが置かれていた。


 妻は少し立ち止まって、そのピアノをじっと見ていた。


 私は温泉の入り口で妻とわかれて男湯に入り、服を脱いで裸になった。


中にいた客は半分が老人で、他には大学生くらいの歳のグループと、ちいさな子どもをふたり連れた父親が温泉に浸かっていた。


 私は体を洗い終えるとさっそく露天風呂に浸かった。


外の肌寒い風にあたって冷えた体にはちょうどいい湯加減だった。


 私は肩まで湯に浸かって冷えた体を温めた。


 気がつくと温泉に入ってから40分近く経っていたので、私は風呂を出て脱衣所に向かった。


 脱衣所で服を着替えていると、外の方からピアノを演奏する音が聞こえてきた。どこかで聞いたことのある曲だった。


どこで聞いたのかと少し考えて、靴下をはいているときにふと思い出した。


 私が学生のころ、当時付き合っていた恋人と別れて、雪の降る寒い日にひとりで商店の立ち並ぶアーケードを歩いていたことがあった。


 道の真ん中に自動演奏のピアノが置いてあって、そのピアノがこの曲を奏でていた。


 その曲は寂しさで満ちていた私の心にしみわたり、私はしばらく立ち止まって、その演奏に聞き入ったのだった。


 そんなことを思い出しながら、私は何となく、妻がさっきの赤いピアノを弾いているのだと思った。


 外に出ると、思ったとおり妻がピアノの前に座っていた。


 妻が私に気づいて演奏をやめたので、私は妻にむかって問いかけた。


「さっきのはなんていう曲だい?」


 「サティのジムノペディ第一番」


 そう言うと妻はピアノに向き直り、演奏を再開した。


妻はピアノの鍵盤を丁寧に、ゆっくりと叩いて情緒ある和音を響かせていた。


 私が演奏に聞き入っていると、妻が演奏をやめて私のほうをふり返った。


妻は真剣なまなざしで、こう言った。


 「このピアノ、わたしが前に持っていたピアノかもしれない」


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