妻に「殺して」と頼まれた

黄金かむい

第1話 雷雨

 急に降りだした大雨の中、私は家に向かって車を走らせていた。


雨の勢いは激しく、ワイパーの速度を最大にしても視界が確保できないほどだった。


夕方のニュースを告げるラジオも、激しくうちつける雨の音にかき消されてほとんど聞こえなかった。


 対向車線を走る車が横を通過すると大きな水しぶきが車体にかかった。


 私は助手席のほうをちらりと振り返った。


助手席にはスーパーで買った弁当と総菜のサラダが置かれている。


 弁当が冷めないうちに家に帰りたい。


 そう思ったが、目の前には車の赤いランプの列が長く続いていて、家に着くにはまだ時間がかかりそうだった。

 



 ようやく混雑を抜け、自宅である六階建ての白いマンションの駐車場にたどりついた。


 車を降りようとして、傘を持っていないことに気がついた。


朝の天気予報を見ていなかったので、家において来てしまった。


折り畳み傘を持ち歩く習慣も持ち合わせてはいなかった。


 私はジャケットを頭の上に被って、雨にぬれないように急いで玄関を目指した。


 扉の前まで来て、私は被っていたジャケットを振って水滴を落とした。


すでにジャケットはびしょびしょにぬれていたので、この行為に大した意味はなかった。


私は諦めて、ジャケットを丸めてわきに抱えながら扉を開けた。


 「ただいま」


 私は家の中に向かって呼びかけた。


 しかし返事はない。


 私は靴を脱いで中にあがり、廊下にぬれた足跡を残しながら、リビングに続く扉を開けた。

 

 リビングはとても静かで、窓に打ちつける雨の音だけが聞こえていた。


明かりはついておらず、部屋は家具の輪郭(りんかく)もわからないほど真っ暗だった。


 そのとき大きな落雷があって、一瞬部屋が明るくなった。


 その光に反射してなにかがきらりと光った。


 私は壁にあるスイッチを手探りで探し、部屋の明かりをつけた。


 先ほど光ったのは、どうやらテーブルの上に置かれた包丁のようだった。


その向こうには、何も言わずにただじっと包丁を見つめる妻が座っていた。


 私は妻の向かいに座り、静かに包丁を手に取った。


そのとき妻が口を開いた。


 「わたしを殺して」


 私は包丁を持ったまま動かなかった。


雨の音が少し大きくなったような気がした。


 私は息を大きく吐き出し、肩の力を抜いて優しく妻に語りかけた。


 「一緒に死んでほしいとは言わないんだね。君はいつもそうだ」


 私は包丁をキッチンまで持っていって、シンクの上の包丁立てに戻した。


 電子レンジのとびらを開けて、すっかり冷めてしまった弁当を中にほうりこんだ。

手に提げたビニール袋にはサラダが残った。


 私は妻のところに戻り、テーブルの上にサラダをおいた。妻はサラダに視線を落とすと、目を閉じて首を横に振った。


 「ゼリー以外も食べないとダメだよ」


 私は少しの間妻の返答を待ったが、妻は何も言わなかった。


 私は体が冷えるのを感じて身震いし、ぬれた服を着替えるために寝室へと向かった。


 寝室から戻って妻の様子を見ると、妻はサラダには一切手をつけていないようだった。


 私は電子レンジから温めた弁当を取り出してテーブルの上に置き、妻の向かいに座った。


 「今日はチキン南蛮だ」


 そう言って弁当のふたをとると、南蛮ソースのおいしそうな香りがあたりにただよった。


私はビニール袋からプラスチックのフォークを取り出して、妻に渡した。


 「食べて。ほら」


 妻はあまり気が乗らなそうな顔をしてフォークを受け取った。


 私はとても腹が空いていたので、しばらく食べることに専念した。


一方妻は、サラダを食べる様子がなかった。


食事をはじめてしばらく経って、妻はようやくサラダのふたを取って、フォークをレタスにむかって突き刺した。


 結局、私がチキン南蛮弁当を食べ終えるまでに、妻はレタス一枚とコーンを数粒しか食べなかった。


 私は諦めてサラダの容器を受け取り、ふたをして冷蔵庫にしまっておくことにした。


 キッチンに弁当の容器を捨てにいったあと、私はお湯を沸かしてコーヒーをいれた。


 コーヒーのドリップを待つあいだ、私は妻にむかって話しかけた。


 「週末は晴れるみたいだから、奥多摩(おくたま)に紅葉を見に行かないか?滝を見に行ってもいいし、温泉につかってもいい」


 妻は黙ったままだった。


私は出来上がったコーヒーをふたつのマグカップに注ぎ、ひとつを妻に手渡した。


妻はコーヒーを受け取り、口をつけて飲んだ。


 私はテレビのリモコンをとって椅子に座り、適当にチャンネルをまわした。


「音大生が選ぶ世界の作曲家ベスト30」という番組があった。


私は妻の顔色をうかがった。


妻は表情を変えなかったが、テレビを見たくないといったそぶりも見せなかった。


私はこの番組を見ることにした。


「20位に選ばれたのは、ドビュッシーやラヴェルに影響を与えたフランスの作曲家、エリック・サティです」


 番組のナレーターがサティという名の作曲家について語り始めた。


妻と私は黙ってしばらく番組を見ていた。


ときおり妻が番組に反応を見せるそぶりがあったが、やはり何も言わなかった。


 21時頃になると番組が終わって、ニュースと天気予報に切り替わった。


妻は静かに椅子から立ち上がると、戸棚の方へ歩いて行って小さな紙の包みをとりだした。


 その中には睡眠薬が入っていた。


 妻は睡眠薬を手に取り、コーヒーと一緒に飲んだ。


 「それ、ほんとは水で飲まなきゃいけないんじゃないのか」


 「いいのよ、別に」


 妻はしばらくぶりに口をきいた。


妻は空になったマグカップをシンクに置き、そのまま寝室へむかった。


「風呂は入らないのか」


「おやすみ」


 妻は私の言葉を無視して、ふらふらとした足取りで部屋をあとにした。

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