ほたる
川谷パルテノン
真実
一、
十年前に失踪した友人の言葉が今日の今日も染みついたように頭の中で響き続ける。彼は自分なりに身に降りかかるなんらかについて悟っていた節があり、それであのような言葉を僕に残したのかもしれない。当時、まだ一〇代の学生だった僕にとって彼ほど親しくしていた人間は他にいなかった。いま思えばくだらない話も夜を明かすほどに飽きなかったし、彼といる時だけは忌まわしい家柄のことも忘れることができた。
僕の生まれた楠条の家は地元の名家として通っており、旧い為来りに慣らされた小さな町の長としての立場があった。町には同じ年頃の子供もいたけれど、生まれながらに特別視されてきた僕が彼らと交友を持ったことはない。父や母からは、だだっ広いだけの部屋から外には出るなと言い聞かせられ、当時の愚かな僕はその言いつけを律儀に守っていた。そんな僕の唯一の遊び相手が彼だった。
厳格だった両親がなぜ北見さんとだけ遊ぶことを許してくれたのかは幼ながらに察した。彼はとにかく清廉で、町でも飛び抜けて賢しい子供だったからだ。それがかえって両親の低俗ぶりを思わせたが、けれども北見さんと出会えたことについては二人にも感謝している。彼と居ると自分までなんだか頭が良くなった気分になって、勉強を教わるにしても遊びを覚えるにしても、その憧れから心が浮つくのを実感していた。北見さんがある時こう言った。「あきらちゃん、蛍を見に行こう」僕は無理だと言った。夜中に家を抜け出すなんて家族が許してくれるはずもないと。すると北見さんは意地悪に笑って「お姉さんに協力してもらおう」と言った。姉は北見さんの二つ下で、僕にとっては気の強い嫌な女だったが、そんな姉も北見さんにはすっかり惚れ込んでいた。その日も我が家の庭で北見さんが姉とふたり、何かを話し込んでいるのを僕は陰から見ていた。姉の顔はすっかり赤らんでいてなんだか間抜けに見えたけれど無理もない。北見さんは女の姉よりもずっと綺麗な顔立ちなのだ。同情さえ覚える。北見さんが徐に姉の顔に唇を寄せるので僕は随分と興奮した。何がなんだか分からないのはまだまだ僕も未熟で、けれどそのおかげか僕と北見さんは町の裏手にある山を少し分け入った谷間にある水辺まで出かけることが出来た。実際に蛍が光を帯びてふわふわと飛んでいるのを目にした時の興奮は、北見さんと姉が口づけを交わした時に似ていてどうにも複雑な気持ちがあった。それからも何度か北見さんと二人で出かける機会があり、その度に僕は世の中というものの広さと楠条家に生まれた窮屈さを知っていった。
「せいちゃん、僕もそろそろ高校生なんだ。そろそろ"あきらちゃん"はやめてくれないか」
「あきらちゃんだって僕のことをずっとせいちゃんと呼ぶだろう」
「それはそうなんだけどさ」
「おめでとう」
両親からは是が非でも入学しろと言われていた第一志望校を落第して落ち込んでいた僕に北見さんだけは祝う言葉をかけてくれた。半ば勘当のような形で都心の私学に通うため町を出ることが決まっていた僕の心残りは、北見さんと離ればなれになることだった。当時の僕にとっては彼が全てといって間違いなかった。彼のおかげで窮屈な生活が幾分かでも華やいで、彼のおかげで今があった。僕は思わず涙をこぼす。すると北見さんはそれを親指で拭って肩を抱いてくれた。
「あきらちゃん、丁度よかったんだよ」
「なんのこと」
「君には言うまいか悩んだけれど」
「せいちゃん、急にあらたまっていったいなんだい」
「ごめんね。僕も近いうちにもうこの町から居なくなる」
「どういうこと」
「決まっていたことなんだ。でも君は何も知らないまま町を出たほうがいい。そして二度と戻らないでほしい。約束してくれないか」
「意味がわからないよ。たしかに僕は家が嫌いだ。でもここには思い出もたくさんある。二度と戻るなだなんてどういうわけだい」
「それが今日なのか、それとも明日なのか。とにかく僕はその日が来るのを怖いと思っている。どれだけ逃げようと思ったことか。でも良かった。君だけはここからさることか去ることができるんだ。それだけで救われる。ありがとう、あきらちゃん」
僕にはまるで意味がわからなかった。僕が進学のために町を出る前日、北見さんは姿を消した。町中探しても見当たらず、誰に聞いても素知らぬふりだった。そんな中で姉だけは北見さんの不在を嘆いてか朝からずっと涙していた。姉は知っていたのだと問いただしたものの、彼女は僕の体を突き飛ばして「とぼけないでよ! あんたのせいじゃない!」と怒鳴りつけた。僕には姉の言葉の意味がわからなかった。ただ確かに北見さんの言葉を聞いた僕なら彼を助けられたのかもしれなかった。結局僕だけが何も知らされないまま町を出て十年。かつて闇雲に外を歩くなとの言いつけを守ってきた子供が、今度は親友との約束を守って故郷を顧みることなく過ごしてきた。大学に進む時も、就職した時も一度も帰っていない。時々電話で連絡を取ることと定期的に送られてくる仕送りだけが実家の存在を示していたものの、都会に出てみて気付かされるのはそれがとても奇妙な境遇だということだ。それでも約束だから、誰よりも大切な北見さんの言葉だからと自分を騙し続けるのも遠に限界を迎えていた。
二、
「で?」
「だから一緒に帰郷してほしいんですよ」
「あのねぇ楠条さん、ウチはベビーシッターじゃないんですよ。坊ちゃんの子守りなんてごめんだね」
「僕はもう二十五です!」
「そういうこっちゃなくてね」
このいかにも陰険そうな男は
「あたしゃ面倒が一番嫌いでね」
「でもあなた霊能者なんでしょ。さっきの話を聞いて奮い立たないんですか」
「あのねぇ楠条さん、霊能者なんてのは箔を付ける名目の詐欺師みてえなもんですよ。それを真っ向からまともに捉えられちゃこっちが焦りまさあ」
「……痛たたたたたたた」
「なに!」
「昨日ぶん殴られた頬骨折れたかも」
「ば、莫迦! 俺より喧嘩が弱い奴なんて初めて会いましたよ! 弱いのが悪い! だいたいあんたからふっかけてきたんでしょうが」
「金ならあります」
僕は茶封筒を取り出すと中から一万円札を十枚覗かせて花屋の事務所の机に叩きつけた。素早く奴の手が伸びたがすかさず引っ込める。
「成功報酬ってご存知?」
ゴミがそのままになった狭くて汚い事務所の中に自棄糞気味の舌打ちが響いた。
「やりましょう!」
はじめての帰郷。随分と遠く感じる。離れる時には進学のことや新しい生活、また心に楔を打ち込むような北見さんの件もあってか距離のことなど二の次だったのだ。あらためてみるといろんな記憶が蘇るとともに僕自身があの頃に戻って行くような感じがした。横を見ると間抜けがいびきをかきながら涎を垂らしている。本当にこんなやつに頼んで正解だったのだろうかと一抹の不安がよぎるものの、そうは言っても誰にも相手にされなかった僕にとってはやっとの思いで掴み取れた藁。出来るだけ役に立ってくれよという思いで叩き起こした。
最寄りの駅に着く頃には日も暮れかけていた。当時の記憶と比べてみてもまるで変わらないプラットホームから見える町並みの前を懐かしい匂いとともに風が抜けていった。
「なんもねえとこですね。名物は?」
「何もないとこですかね」
「ハァ……美味え飯とか期待してたんですがね。どうにもババ引いちまったようです」
「まあまあそう言わずに。母にはよくもてなしてもらうよう頼んでますから。期待してください」
口から出た出任せだった。実家には帰ると連絡していない。僕は怖くなったのだ。いざ帰るとなればそれは北見さんとの約束を破ることになる。それは今なお心苦しいことだった。だから誰にもこのことは言わずにここまで来た。花屋は僕の嘘を信じたのか、発破をかけるために名家の跡取りであることも伝えていたのもあって期待が隠せない様子でスキップを始めた。その時だった。もう夏も近いというのに背筋を冷や汗が伝うほどの冷たい風が吹いたのは。僕は一瞬固まってしまった。気のせいでなければそう聞こえたのだ。
ドウシテ……
それは懐かしい声だった。十年前はよく耳にした。せいちゃん。そんな馬鹿なわけがない。これはきっと僕の後ろめたさからくるものだ。そう思って花屋のほうを見ると、彼は先ほどまでの浮かれきった態度とは打って変わり、僕以上に神妙な表情を見せた。
「楠条さん、俺になんか隠してませんか」
「隠すって、なにを」
「や、ないならいいです。行きましょう」
心当たりがあった。北見さんが言い残した言葉には続きがある。彼は最後まで気丈に振る舞っていたわけではない。北見さんは別れ際、何かに取り憑かれたかのように突然狼狽し始めた。それまで彼のそんな姿を見たことがなかった。いつも落ち着いていて、何に対しても大人で、彼みたいになれたらどんなにいいだろうと羨んだりしたこともある。そんな北見さんが顔をくちゃくちゃにして子供みたいに泣き始め「助けて! 殺さないで! 嫌だ! 死にたくない!」と叫びだしたのだ。どう見ても異様な光景に僕は怖くなって、情けないことに僕はその場から逃げ去ってしまった。翌日にはすっかりいつもの北見さんで、昨夜の出来事は一体なんだったのか気にはなったものの、彼が失踪するまでついぞ聞けなかった。そして彼が居なくなった時、僕の中で一つの疑問が生まれた。北見さんは、誰かに殺されたんじゃないのかと。
三、
「ここですかい?」
「間違いないはずだけど」
「どうみても」
人の気配がしない。十年ぶりの故郷。建物は残っていたものの俄かに朽ちはじめている。そをなはずはない。なぜならつい最近まで電話越しとはいえ父や母とも言葉を交わしているのだ。それがどうして。姉の姿もない。それどころか誰一人見当たらないなんてそんなわけがあるものか。僕と花屋は手当たり次第家屋を訪ねてみたがやはり誰もおらず、生活の形跡も残っていなかった。
「楠条さん、俺はこの状況で冗談かませるほど暢気じゃないんでよく聞いてください」
「なんだよ」
「俺たち、死ぬかもしれません」
「何言ってんだよ! なんだよこれ!」
花屋はよく分からない経のようなものを唱え始めた。それから親指を噛み切り、ポケットから取り出した小さな紙片に自らの血で模様を書く。
「花屋さん、何やってんだよ」
彼は僕の言葉に応じず、しきりにぶつぶつと囁いていた。不安で堪らなかった。気持ちが悪い。吐き気が止まらないのをどうにか我慢しようとする。
「まずい 来る」
「え?」
「楠条ォ! 耳を塞げ!」
四、
「久しぶり、あきらちゃん」
「せい ちゃん?」
「おかえり」
「せいちゃん! これはどういうことなの? あの日、せいちゃんが急に 僕、怖くて……せいちゃんにいったい何があったんだよ!」
「何がって……そっか あきらちゃんはまた逃げるんだね」
「逃げる? 何を言ってるんだい せいちゃん?」
「僕は助けてほしかったのに 助けてって言ったのに 君のお父さんやお母さん 楠条の家に僕が殺されるところをずっと見てるだけだったじゃないか!」
なんのこと、そう言いたかったが全部思い出していた。僕が志望校に落ちたことで父母はおかしくなってしまった。世間から見れば狂った感覚かもしれないが彼らもまた閉ざされた空間で培った常識の異常性に気づけなかった愚か者だ。彼らは出来損ないの僕をずっと責め立てた。いよいよ耐えられなくなった僕はそれを口走ってしまった。
「せいちゃんの脳味噌があれば僕だって出来たんだ」
誰もそこからの両親を止められなかった。我が子に対するあまりに歪んだ愛情。二人は北見さんを捕まえてバラバラにした。そして僕がそう言ったから、北見さんの、僕の口に
「ボエエエエエ!」
「ひどいな あきらちゃん 僕だよ それ」
「ごめんなさいッ ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ」
「アアキラぢゃーンンンンン」
「んなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめん」
僕は我が身可愛さに都合よく全部をでっちあげて、目を逸らすうちにいつしかそれが真実だと思い込んできた。目の前で狼狽した北見さん。あれだけは焼きついて離れない。だから消せなかった。 助けて、殺さないで、嫌だ、死にたくない。彼が放った本当の声がずっと染みついている。綺麗だったせいちゃんの顔は醜く歪んで、今僕の目に映るのはかつて北見星一だったナニカで、それはゆっくりと僕のからだをバラバラにした。でも良かったとも感じる。これでようやく仲直りできるんだと思えば。今にも消え去りそうな意識の中で蛍がふわふわと飛んでいた。
ほたる 川谷パルテノン @pefnk
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