第3話 俺の首を刎ねて行け~第二次モンゴル軍侵攻~
モンゴル帝国の第一次侵攻を苦戦の末撃退するも、その勢威の前には膝を屈するしかなく、
その一方で、
しかし、モンゴル軍の猛攻の前に、南宋の命運は風前の
そもそも南宋とモンゴルの因縁は、1234年の
かつて
こうして見ると、最初に約束を破った南宋が悪い、ということになるのですが、南宋が協定を遵守し続けていたらモンゴルに攻め滅ぼされることもなかったのかというと……ねえ。
とは言え、モンゴル軍の猛攻によってじわじわと領土は
つまりこの時点で、形の上では南宋は滅亡したわけなのですが、その後もなお、一部の武将や官僚らが船で海に逃れ、抵抗を続けます。
しかし
それでもなお膝を屈しようとしなかったのが、
しかし彼も、大越の南のチャンパ王国に逃れて再起を図る途上、不運にも台風の直撃を受けてしまいます。
『
「
またその間、ユーラシアの東の端では、朝鮮半島の
これについても語り出すと、また文字数が膨らんでしまいますし、それに詳しくご存知の方も多いかと思いますので、ここでは詳述はしません。
南宋の滅亡により、かの国と同盟してモンゴルに対抗するという道を絶たれた
モンゴル帝国第五代
1.国王自ら来朝すること。
2.国王の子弟を人質に出すこと。
3.戸籍を提出すること。
4.軍役を負担すること。
5.租税を貢納すること。
6.元が派遣する
大越としては到底飲めるものではなく、さりとて「ふざけるな」と突っぱねることも出来ず、のらりくらりと
これに対しフビライは、使者を送って
これ以上
そこで我らが
聖宗は1278年に息子に譲位します。これが第三代皇帝・
翌1279年に南宋が完全に滅亡したのは先述の通りですが、この時、大越にもかなり数の亡命者がやって来たようです。
そして1281年には、日本に対する二度目の元寇、「
中国江南地方を手に入れ、さらに南海交易――いわゆる「海のシルクロード」の掌握を目論んだフビライ。大越を後回しにして、現在のベトナム中部から南部を治めていたチャンパ王国の征服に乗り出します。
フビライは十一男であるトガン(トゴン:?~1301)を
1283年、元将トアド率いる10万の軍勢がチャンパに侵攻、一時は首都ヴィジャヤ(現在のビンディン省)を占領しますが、その後もジャヤ・シンハヴァルマン王子(後のジャヤ・シンハヴァルマン三世:?~1307)はゲリラ戦で抵抗を続け、遠征軍は苦境に陥ります。
そこで元は大越に対し、今度はチャンパへの増援軍のために道を貸すよう要求してきます。大越がこれを拒むのも、前回の第一次侵攻と同様。そしてまた戦が始まります。
元軍を迎え撃つにあたり、
先述の通り、仁宗にとって陳興道は、父方で言えば父の従兄、母方で言えば母の兄。さらに、彼の妻である欽慈皇后は陳興道と
まさに、頼れる親戚の伯父さんです。
陳興道は将兵の士気を高めるため、「
一方、元は総大将トガンの
実はこの時すでに、チャンパの元軍は全て撤退してしまっているのですが、大越侵攻の方針は変わりません。
陳興道は北方国境で元軍を迎え撃ちますが、衆寡敵せず。首都・
そして、陳興道はさらに
この時、
トガンは、わずかばかりの兵を率いて勇戦した彼を惜しみ、元に降るよう説得します。元で領地を与え王にしてやろうとまで言ったようです。
しかし、陳平仲は首を縦に振りません。曰く、
「我、生きて北(元)の王たるより、死して南(大越)の鬼たらん」
ここで言う「鬼」とは、日本風の角の生えた魔人のことではなく、中国風の幽霊のことでしょう。
トガンは大いに怒り、彼を処刑してしまいました。
ちなみに、この陳平仲という人物、本来の姓は「
さて、陳平仲のように最後まで節を曲げない者がいる一方、元に降る者も出てきます。
もちろん、その人一人だけのことではなく配下の将兵の命も預かっているわけですから、降伏するという決断を安易に責めるべきではないのでしょう。
とは言え、総大将にとっては頭の痛い問題ですが、陳興道は決して諦めることなく、抵抗を続けます。
兵民の苦境に心を痛めた仁宗が、これ以上抵抗して
「陛下の仰せはもとより人道の
この言葉に突き動かされ、仁宗も徹底抗戦の決意を固めたのでした。
しかし、苦しい状況はなおも続きます。
さらには、トアドが50万の兵を率いて、雲南からラオスを経てチャンパに入り、そこから転進して大越を挟撃する構えを見せ、いよいよ大越滅亡の危機が迫ります。
が、ここに来て、元軍の大軍ならではのウィークポイントが表面化してきます。
大越の人々が食料を持って逃げてしまったこともあって、兵糧の確保が追い付かなくなってきたのです。
陳朝軍はゲリラ戦でじわじわと元軍を痛めつけ、次第に風向きが変わり始めます。
同年5月になると、陳興道率いる陳朝軍は
また、海から侵入してきた元の水軍も撃退し、ついに首都・昇龍を奪還。
この一連の戦いで、元の総管・張顕は降伏、トアドは戦死、ウマル将軍は敗走。総大将トガンは青銅製の棺の中に隠れて逃げ帰ったとかいう話も伝わっています。陳朝は元軍の捕虜5万を得ます(ただし、この数には誇張があるとの見方もあるようですが)。
仁宗は昇龍に帰還、翌年1286年には元軍の捕虜を国に還します。
将官は厳しく処罰するも、一般兵には危害を加えず送り返したというこのエピソードは、今なおベトナムの人たちが誇りとするところなのだとか。
かくして、モンゴル帝国の第二次侵攻も、陳朝大越の奮戦の前に、再び失敗に終わったのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます