第2話 ただで通れると思ったか~第一次モンゴル軍侵攻~
愛する
モンゴル帝国第三代皇帝グユク(1206~1248)の死後、3年間に渡る帝位継承争いの末、トゥルイ(チンギス
これが1251年ですから、丁度、国峻くんが
モンケは即位後、二人の弟フビライ(クビライ:1215~1294)とフラグ(フレグ:1218~1265)を、それぞれ東西遠征の総司令官に任じます。今回は東方面のフビライをメインに語っていくことになります。
東方面の最大の標的は
チンギス
日本では
香港の
まったくの余談ですが、
「なろう」でお馴染みの、これといって取柄もない少年がひょんなことからチート能力を手にして無双する展開。武侠小説ですから、武術の
もちろん(?)ハーレム展開の作品もありますが、このヒロインたちが、ツンデレ、クーデレ、ヤンデレ、性悪と、なんでもござれ。寝取られもあるよ。
あと、「
これらの作品が執筆されたのが1955年から1970年にかけての時代というのですから、恐れ入ります。
ご興味が湧いた方は是非ご一読を(ダイマ)。
雲南の複雑な地形や疫病に苦しめられながらも、大理国を征服したフビライ。
そこで戦後処理をウリヤンカダイに委ね、一旦本拠地の
そして次なる標的とされたのが
1257年、フビライから3万の軍勢を預かったウリヤンカダイは、
元々、陳朝大越の兵制は、普段は農耕に
太宗は諸将に各地の守りを固めさせ、陳興道も北方の守りにつくよう命じられます。
翌1258年1月、ウリヤンカダイは3万の軍勢を率いて大越に侵攻、
激しい戦闘の末、陳朝軍はモンゴル軍の猛攻を支えきれなくなり、太宗は撤退を決意。首都
ここでいささか弱気の虫に
太宗に意見を求められた彼は、こう答えます。
「
陳守度という人物、
首都
元々、南宋攻略のために道を借りるだけで、長期にわたって占領する気は薄かったわけですしね。
しかし、陳朝軍もあっさり撤退を許したりはしません。ここぞとばかりにモンゴル軍に襲い掛かります。
戦場になったのは、紅河沿岸の
さらに、各地の守りについていた陳興道らの諸将や、
かくして、一旦は首都を明け渡しながらも、見事モンゴル軍を撃退した陳朝軍。
その中で、軍功第一等とされたのは、陳興道――ではなく、
李朝に先立つ前
撤退戦で敵の追撃を食い止め、友軍を無事退却させてから、自らも敵を振り切り退却するという
日本史の例で言っても、浅井長政の離反により朝倉領内で窮地に立たされた織田信長の撤退戦、いわゆる「
それともう一つ。彼は昭聖公主という女性も賜り、妻とします。かつては昭皇帝・昭皇皇后と呼ばれていた女性。――そう、他でもない、李朝最後の女帝にして陳朝最初の皇后だったあの人です。
陳守度の策謀により、わずか七歳で皇帝にされ、翌年には太宗と結婚、その翌年には帝位と国を譲らされ、父をはじめ一族は姉以外殺され、さらには二十歳にもならぬうちに、子供が出来ないからという理不尽な理由で姉と
救国の功臣とはいえ、家臣に嫁がされるのは決して嬉しいことではなかったかもしれませんが、黎輔陳との間には一男一女をもうけることができたようで、その後1278年に六十年の生涯を閉じます。
一方、彼女の姉の順天公主も、最初陳興道の父・
太宗との間には陳朝第二代・
運命に――というか、権力闘争という名の魔物に、翻弄され通しの生涯を送った李家の姉妹。はたして彼女たちの人生の最期には、どのような想いが去来していたのでしょうね。
この昭聖公主の生涯を異世界恋愛物に脚色したのが、拙作『ベルトラム王国物語』です。よろ~(笑)。
あと、
さて、モンゴルの侵攻に対し勝利を収めた陳朝ではありますが、強大なモンゴル帝国を完全に敵に回してしまうのは無茶というもの。
紆余曲折ありつつも、モンゴルを
が、もちろん
日本に対する二度の
そして、陳興道さんは、総司令官としてこの戦いに臨むことになるのです。
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