越南元寇録~モンゴル軍を打ち負かした英雄は、バイバルスだけじゃない。陳興道(チャン・フン・ダオ)さんもお忘れなく~
平井敦史
第1話 きっと卒業的なサムシング~ベトナム史概説と陳興道の前半生~
「モンゴル軍の侵略を撃退したのは世界中で日本だけだ!」
「いやいや、全然そんなことないから!」
このような論争(?)をご覧になったことはおありでしょうか。
まず結論から言えば、モンゴル軍はロシアや東欧では向かうところ敵なしで暴れ回りましたが、それ以外の地域――日本も含め――では結構負けています。
奴隷王朝ことインドマムルーク朝においても、第九代スルタン・バルバン(?~1287)やその
そんな中でも、モンゴル軍撃退の英雄として名を良く知られているのが、タイトルに挙げた二人。エジプトマムルーク朝のバイバルス(1223または1228~1277)と、ベトナム
主要人名の後の数字〇○~〇○は、例によって生没年です。以下同じ。バイバルスの生年1228年説を
バイバルス君については、拙作『フリードリヒ二世の手紙』の終盤の主人公として十字軍相手に活躍してもらいましたが(笑)、本稿ではもう一人の英雄、
何でバイバルスは「君」で陳興道は「さん」なのかって? いえ、他意はないのですが……、強いて言うなら、対モンゴル戦で活躍した時の年齢でしょうか。
バイバルスはアイン・ジャールートの戦い(1260年)の時点で三十そこそこ、一方の陳興道は、第二次、第三次のモンゴル軍侵攻を総司令官として迎え撃った時は五十代なもんですから。
もっとも、バイバルスも、それ以降も生涯かけてモンゴル(イル
さて、皆様、ベトナムの歴史はどの程度ご存知ですか? 全然知らないわ、という方も多いことと思います。ベトナム戦争関連のあたりなら多少知っている、という方もいらっしゃるでしょう。
あと、最近では、
彼女たちの蜂起は当初幅広い支持を集め、六十五県もの地域の土豪たちが呼応しました。
一方、当時の漢の皇帝は、近年人気急上昇中の
馬援率いる漢軍はベトナムの風土や疫病に悩まされるのですが、徴姉妹の側でも、土豪たちが手のひらを返すのではないかという不安から、短期決戦を挑もうとし、結果、これが裏目に出ます。
武運
彼女たちについても、どなたか小説に書いていただけたら大変嬉しいのですが(他力本願)。できれば結末は、川に身を投げたが実は生き延びた、という方向性で。
少々脱線しましたが、まあそんなわけで、ベトナムの歴史は北方からの圧迫に対する、服従と抵抗の繰り返し。モンゴル帝国が台頭してくると、
これを迎え撃ち、見事撃退したのが、本稿の主人公、
ではまず、陳興道さんの生い立ちと、そこに至るまでのベトナムの歴史を見ていきましょう。
千年の長きにわたり中国の支配下に置かれていたベトナムも、874年から884年にかけての
そんな中、反中国派である群雄の一人・
しかし、彼が968年に建てた
が、この王朝もまたしても短命に終わり、1009年に成立した
李朝初代・
そうそう、ここまで「ベトナム」と書いてきましたが、実際には、現在のベトナム国の北部、トンキンデルタ(
北部の方が、現在ベトナム国の人口の85%以上を占めるキン族(ベト族)の国家なので、ベトナム史というとこちらを中心に語られることが多いようです。チャンパは、チャム族という、今日ではカンボジアやベトナムの中南部などに居住する民族を中心とする国家です。
本来ならば、「陳国峻」と呼ぶ方が正しいのでしょうが、「陳興道」の方が広く知られている(Wikiの記事もこれで立っています)ため、原則として「陳興道」と呼ぶことにします。と言いつつ、特に序盤は「国峻くん」などと呼んだりもしますが(笑)。
ちなみに、
陳興道の祖父の
正直このあたり、何故
一説には、兄弟の叔父にあたる
陳守度のWiki英語版記事には、彼を中国・
陳守度は、陳柳と太宗の兄弟に、李朝第八代皇帝・
ちなみに、次女・李昭皇(1218~1278)は、陳守度によってわずか七歳で第九代皇帝に擁立され、李朝最後の皇帝となりました。そしてその後、太宗に
彼女たち以外の李氏一族は、陳守度の手で
なお、陳柳に嫁いだ恵宗の長女・順天公主(1216~1248)ですが、陳興道の生母ではありません。
皇帝の兄として弟を補佐していた陳柳ですが、1236年、李朝の後宮にいた女性に手を付けたという嫌疑を掛けられ、失脚させられます。
さらにその翌年には、太宗に嫁いだ李昭皇に子供が生まれなかったことから、妻も取り上げられ弟の新たな皇后にされてしまうという屈辱を味わわされます。お腹に子供がいたにもかかわらずです(この子は長じて陳国康と名乗ります。陳興道の異母弟ですが、太宗の庶長子扱いとされたようです)。
堪忍袋の緒が切れた陳柳さん、怒りに任せて挙兵するも、これぞ陳守度の思う壺。あっさり鎮圧されて、
そんな
「大越史記全書」という史書によると、その翌年、皇族の一人・忠誠王と婚約が成立していた太宗の妹・
ちょ、ちょっと待って。それってつまり陳柳の妹でもあるわけで、国峻くんにとっては叔母さんってことだよね?
いえいえ、安心してください。
儒教的には同姓の従兄妹は本当は駄目?
それにしても、「大越史記全書」という書物、陳守度についても太宗の「従叔(親の従弟。実際には又従弟ですが)」という記述と「叔父(親の弟)」という記述が混在していたりと、若干混乱が見られるみたいなんですよね。
え。たとえ従妹でも、他人の婚約者を横取りしちゃ駄目だろうって?
いや、そこはそれ、元々従兄妹同士で幼馴染の二人ですから、以前から愛し合ってたんですよ、きっと。
でもって、天城公主の意に反した婚約を決められてしまったのを、国峻くんがダスティン=ホフマンばりに
陳興道のWiki中国語版記事には、この「桃色事件(!)」についてもう少し詳しい記述があります。
それによると、太宗が天城公主と忠誠王の結婚を決め、婚約者の父親の邸宅に預けていたところ、ある夜国峻くんが夜ば……忍んで行きます。
そのことが発覚し、騒動になるのですが、国峻くんの供述によると、「前々から彼女のことが好きだった」とのこと。よかった。
その後、陳柳・太宗兄弟の妹で陳興道の養母でもあった
天城公主本人の気持ちがどうだったのか、という点は想像するしかないのですが、「容姿優れ、学問を修め、文武に才あり」と史書にも記されたほどのスーパーお
婚約者を寝〇られた忠誠王くんがその後どうなったのかは気になるところですが、その後の消息は不明です。
あと、陳興道は叔母に養育されたとかさらりと書いてあるのですが、生母は早くに亡くなってしまったのでしょうか。そのあたりも詳しいところはわかりません。
さて、次話ではいよいよ、モンゴル帝国と陳朝大越との攻防戦が始まります。
陳興道さんは愛妻とのラブラブ結婚生活を守り抜くことができるのか? 乞うご期待!
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近況ノート(https://kakuyomu.jp/users/Hirai_Atsushi/news/16818093078619117439)に陳興道関連の系図をアップしています。ご参考になれば幸いです^^
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