第15話 迷子から事件開始
「いやああああ、は! とお! せい!」
帝都訓練場で早朝から鍛錬を続けるシルヴィアは、余計な雑念を振り払うために一心不乱に素振りを繰り返していた。
先日の茶会での一件。
自分が美しいだのと賞賛されたあの日から、シルヴィアの頭の中には常にフュンがいた。
寝ても覚めても、剣を振り下ろしても、剣を手入れしていても、彼の笑顔だけが浮かびあがる。
いつもの私だったなら、もっと集中できるはずなのに・・・。
フュンの笑顔。
それが彼女の雑念であった。
自分の事を褒める男性なんて、兄以外にいなかったために、余計に頭の中にこびりついてしまったのである。
彼の笑顔と褒め言葉が頭の中で反芻している。
これはゴシゴシと、油汚れを落とすために、たわしで強く擦ってもなかなか取れないだろう。
こんな風に阿保みたいなことを彼女は真顔で思っていた。
見た目は普通のように装っているが、彼女の思考能力は著しく低下していたのである。
「ふん! 駄目だ。私は、こんな考えに囚われているとは・・・・まさか、これが恋というものなのですか!?」
更に思考能力が低下している模様。
自分の気持ちすらよく分かっていない。
「…いや、世迷言でありますね。まさか、この私が年下の男の子に……ここここ恋をする? いえ、あ、ああ、ああ。あ。ありえませんね。それじゃあ、戦場の華。戦姫の名が廃りますよ。うんうん。勘違いです。勘違い。私は頑張らねばならないのですよ。帝国の為に。ダーレ家の為にです」
雑念を振り払いたい。
そのためだけに、もう一度素振りをはじめる。
だが、その剣筋がブレていた。
真っ直ぐに振り下ろすはずの剣が最初から斜めに動き出す。
シルヴィアは、これはいかんぞと休憩を入れた。
「ぶ、無様だ。この私が……なんとか次の戦までには元の私に戻らねば……どうしよう。このままだったら恥ずかしい。皆の顔をまともに見ることが出来なくなる……どうしよう」
武人であるシルヴィアは意外と乙女であったらしい。
この複雑怪奇な感情を今まで経験した事がなかったから、自分でも戸惑っていた。
度々悶々と悶えては、その都度休憩を取り入れる。
これを数十回繰り返したシルヴィアは、結局雑念を振り払う訓練を諦めた。
その後。
朝食を食べずにいたシルヴィアだったので、なにか軽いものでも食べようと、帝都の露店通りを目指して歩いた。
市場通りは帝都のど真ん中である。
彼女の居た訓練所は南西地区であるからにして、露店通りへと向かおうとすると、ちょうど雑貨屋通りを通って中央噴水広場を通らなくてはならない。
なので今の彼女は、雑貨屋通りにいた。
いつものように背筋がスッと伸びて、凛々しく歩いていた彼女の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
「この子のお母さん、いますか! ジーヴァ君です。ジーヴァ君のお母さん、いますか?」
ハッとするシルヴィアは物陰に隠れる。
やまびこをするように、口に手を添えて誰かのお母さんを呼ぶフュンがいた。
彼女にやましいことは何もない。
なのに彼女は何故か物陰に隠れた。
でも胸は高鳴り緊張している。
姿を見かけただけで、会ってもいない。
シルヴィアは、少々お馬鹿さんだった。
「すみません。どなたか。この子を知りませんか? もしくはこの子のお母さんを知りませんか?」
必死に声を出して呼びかける姿がとても素敵である。
誰かのために一生懸命になっている姿が素敵である。
そんな風に物陰から緊張して見つめていた。
会おうともしていないのに、緊張しているのである。
シルヴィアは、かなりのお馬鹿さんだった。
「お母さんいないね、ジーヴァ君」
「…うん」
返事に幼少期の元気さがない。
男の子は、フュンがそばにいるおかげで、泣き止んではいるものの心の中に不安がまだある様子だった。
「そうだ。ジーヴァ君もお母さんって呼んでみようか。僕が肩車するからね。一緒に呼び掛けようね! 僕、肩車を頑張るからさ! ジーヴァ君も一緒に声出しを頑張ろう!」
「うん!」
フュンは少しだけ元気になった男の子を一生懸命持ち上げて肩車した。
「お母さんいますか! ここにジーヴァ君いますよぉ。お母さんも心配してますよね。ジーヴァ君がここにいますよ」
「お母さん! お母さん! 僕ここにいるよ お母さん!」
二人で力を合わせて呼びかけていると、遠くの雑踏の中から女性の声が聞こえてきた。
「ジーヴァ。ジーヴァ」
「あ、お母さんの声だ」
「ほんと! やったね。ここですよ。ジーヴァ君のお母さん。ここです!」
フュンとジーヴァが二人で手を振ると、一目散にジーヴァの母親が駆けつけてきた。
涙と心配そうな声が混ざったお母さんがフュンの前に来た。
「ジーヴァ。よかった、無事なのね、ジーヴァ」
「うん! お母さん! 寂しかったぁ」
「ええ、ええ。とても・・・私もとても寂しかったわ。ジーヴァ」
お母さんに抱きしめられたジーヴァはとても嬉しそうである。
しばらく抱き合って落ち着いた頃にジーヴァの母がフュンにお礼を言う。
「ありがとうございます。ありがとうございます! あなた様のおかげです。ありがとうございます。この子がいなくなって生きた心地がしませんでした。あなた様のおかげです。この御恩、一生忘れません」
ジーヴァのお母さんはまくしたてるように感謝した。
「いえいえ。何もそんなに感謝しなくても……僕は何もしてないんですよ。お母さんが一生懸命探してくれていたから、息子さんは見つかったのですよ。あははは」
「いえ。あなた様がジーヴァを助けて下さり・・・あ、そうだ。ほら、ジーヴァもお礼をしなさい」
「お兄ちゃん、ありがとう!」
「はい。どういたしまして。偉いですよ。泣かなかったのは、立派な男の子だよ」
「へへへへ」
フュンはジーヴァに目線を合わせてから頭を撫でて、次にお母さんの為に顔をあげる。
「偉かったですよ。僕と一緒にいる時は一回も泣いてないですからね」
「本当ですか。それはよかった。ずっと泣いていたら、あなた様のご迷惑になる所でしたから……ああ、あなた様に感謝します。本当に。本当に。ありがとうございます」
「あははは。そんなに頭を下げなくてもいいんですよ」
何度も頭を下げて謝る母親にフュンは笑顔でいる。
少しの談笑をしてリラックスさせた後、フュンはジーヴァの母親に自分の願いを言った。
「では一ついいですか」
「は、はい」
「今はお母さんがこの子を守ってあげてくださいね。そしたら、きっとこの子は一生お母さんのことを覚えていますよ。お母さんの優しさと強さをです。よいですか。今のうちに目一杯愛してあげてください。この子が愛を忘れないようにですよ」
「わ、わかりました。必ず愛を与え続けます。ありがとうございます」
「はい。では最後に、ジーヴァ君!」
フュンはジーヴァの目に合わせてしゃがんだ。
「なぁに? お兄ちゃん?」
「僕と約束しましょう。今はお母さんに守られていますが、大きくなったらお母さんを守ってあげてくださいね。君は僕には出来ないことを……立派な男の子になるのです。僕と約束ですよ」
自分には母はいない。
けど君にはいる。
だから大切にして欲しいとフュンは願ったのだ。
「うん! 約束!」
「はい。いい子ですね。また会いましょうね」
「うん! またね。お兄ちゃん。ばいばい~」
「ありがとうございました。ご恩は忘れません。失礼します」
「いえいえ、また会いましょうねぇ!」
フュンの別れの言葉はまた会いましょうなのだ。
さよならとは決して言わない。
誰かとそういう別れ方が嫌いな人である。
一連の出来事を遠巻きで見ていたシルヴィアは、目に涙をためてフュンの優しさに感動していた。
親子の絆を繋ぐ。
人と人の絆を繋ぐような会話を、あの子とあの母親はきっと忘れないだろう。
これがボンクラ王子? 平凡で駄目な王子?
このような噂が、城内でも帝都内でもあったのだが、これらは一体どこからやって来たのだ。
もしサナリア王国からだとしたら、その国は大丈夫なのか。
このような人物の心の内を見抜けぬとはどこに目が付いているのだろう。
頭の後ろにでも目がついているのか?
そして、これほどの王子を人質に出す国とはどんな国であるのだろう。
シルヴィアは、戦場で敵の考えが読めない事態に陥ったことがない。
戦争の押し引きだって簡単に読めるのに、サナリア王国の考えだけは読めなかった。
この人は第一王子として立派な人物なのに・・・。
この人物をいらないと言い切れるこの子の父親は、一体この子の何を見てきたのだろう。
第二王子がよほど優秀であるのか。
にしてもこの子を二つ返事で人質に出来るとは、その王は間抜けだ。
この子とは違い、きっと馬鹿なのだ。
そう勝手にシルヴィアは結論付けていた。
ぼんやり店の隅でシルヴィアが考えていると、フュンは次の行動に移ろうとしていた。
「あれ!? そういえば・・・僕って今、どこにいるんだ!? あれ、ゼファー殿とジーク様は! あ! はぐれてる。僕って今、二人からはぐれているんだ。今、気が付いた!」
フュンは間抜けな王子であった。
彼の言動が聞こえていたシルヴィアは、ガクッと腰が抜けて気が抜けた。
仕方ないので兄様と会うまで私が案内してあげようと、シルヴィアが動き出す。
「あのっ」と少し離れた位置から呼びかける寸前に黒い影が四つフュンに近づいていることに気づいた。
通りの人の群れを高速ですり抜けて、最後にフュンをかっさらっていった。
「あ、あれらはなんです? フュン殿!」
体が急に持ち上がり驚くフュンは、走ってきた黒い影の一つに担がれていった。
「な!? い、いや、疑問に思う時間が惜しい、私が王子を助けねば!」
シルヴィアは、黒い影とフュンを追いかける。
こうして起きたのが、間抜け王子の誘拐事件である。
帝国に来て数日、人質生活も始まったばかりで事件に巻き込まれるフュンであった。
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