第6話

 それから数日の間、俺たちは最低限の会話を除いて言葉を交わせないでいた。

 一番傷付いているのは谷さんなのに、怒りのままに腹立ちをぶつけた自分のことが情けなかったし、谷さんは谷さんで俺をそんな風にさせてしまったことに対して責任を感じている。

 楽しみだったお昼の時間も狭い場所にふたりでいるのがいたたまれず、俺は事務所に戻って一人で食べていた。


 謝らないと。

 そう思うものの、どうしても俺の中で譲れないものがあった。


 ねぇ。

 そんな顔で笑わないでよ、谷さん。

 笑顔って、楽しい時や嬉しい時に自然に出るもんなんだよ。

 正反対の気持ちなのに笑っちゃダメだよ。


 8月もお盆を過ぎれば多少マシになるかと思ったが相変わらず文化ホールは盛況らしく、ホテルは忙しいままだった。

「陸、今日は連泊のお客様も多いから、お部屋に入る時は注意しなさいよ」

「りょ」

 いつものようにドリンク類をカートに補充して、最上階から順に下る流れでチェックを始める。

 2人で1フロアを回る時は、俺が部屋番号の小さい方から回り、谷さんは部屋番号の大きい方から確認していくことにしていた。

 1001、1002、1003……と流れ作業のようにこなしていた時、同じフロアの遠くの方で、男の人の叫び声のようなものが一瞬聞こえた気がした。


「……谷さん?」


 今、このフロアに男は僕と谷さんしかいない。段ボールでも落としたのだろうか。

 何となく気になって様子を見に行くと、カートを残したまま谷さんは消えていた。

「谷さん? どこ?」

 返事はない。

 別のフロアへ行ったのか?

 それなら俺に一声掛けるはず。

「谷さーん?」

 もう少し大きな声で名前を呼ぶ。

 その時、どこかの部屋から何かがドアにぶつかるような音がした。

 何か起きてるのか?

 僕はカートに積まれているバインダーを開き、フロアの稼働状況をチェックする。谷さんが担当している部屋番号には、そのほとんどに連泊の印が付いていた。

 宿泊客と何かトラブったんだろうか。あの物腰穏やかな谷さんが? 

「谷さん、何かあった? 返事して!」

 廊下には俺の声だけが響く。建物は古い癖に客室は無駄に防音性が高いのか、部屋の中の音は余程大きくなければ外には聞こえない。


 どうしよう、どうしたらいいんだ。

 誰かに連絡して来てもらう?

 いや、それよりも、もしかしたら。


 再びバインダーを開く。谷さんは確認が終わった客室にはその都度チェック済みの印を入れていた。ということは……。

 客室番号のリストを逆から辿る。

 1030、1029、1028、1027、1026。


 1025。


 まだ印が付いていない。

 ここか。

 僕は部屋の扉をノックする。


「お客様、そちらにホテルの従業員はおりませんか?」

 返事はない。耳を扉にぴたりとつけて、様子を伺う。

 ふたつの異なる声がうっすら聞こえる。

 部屋に人がいるのは間違いない。

 ここはシングルの客室だ。

 なのに、中にいるのはひとりじゃない。

 僕は扉を激しく叩く。

「谷さん! そこにいるんですか」

 誰かが扉に近付いてくるような気配もない。

 このまま俺がいなくなるまで待つつもりか。

 

 ふざけんな。

 

 俺はマスターキーを取り出すと鍵穴に差し込み、勢いよく扉を開けた。

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