最終話 腐血の救世主

僕と彼女が出会ったのは10年近く前……小学生の頃だった。

あの頃、僕は……母がまだ生きていたけれど、父は家に帰ってくる頻度が減っていた。

幼いながらにも、自分の家庭状況が良くない事は悟っていた。

幼い妹の手を引きながら、僕は『不幸』だと感じていた。



楠木 稚影、彼女を見つけたのは偶然だった。


いつの間にかクラスに居た。

顔も覚えてなかったけれど、確かに……そういえば、同級生だった。


話した事もなく、関わった事もない。

僕からすれば、その他大勢の人の一人だった。


だけど、その目を初めて観た時……僕は怯えた。

彼女の目は薄暗い、暗闇のような深さを秘めていた。


僕は、自分のことを『不幸』だと思っていた。

だけど、もっと『不幸』な人がいるなんて思ってもいなかったんだ。

そんな思い込み。

今考えれば、なんて自惚れていたんだと恥ずかしくなるほど幼稚な考え。


そんな、自分の中にある『不幸』であるという自己同一性が揺れる。


……最初は、そんな目をして欲しくなかったからだ。

僕の『不幸』を貶めないで欲しいと。

彼女よりも僕の方が『不幸』なのだと思いたかった。


だから、彼女の手を引いた。

幸せにしてやろうと、そう思った。

自惚れた。


だけど、触れても、関わっても、話しても……彼女は『不幸』なままだった。


それが変わったのは、いつだったか。

誰も気付いていなかったけれど、目が変わったのを僕は感じていた。


彼女の兄が助けてくれたのだと、僕は知った。



僕は恥じた。

自身の浅はかさを疎んだ。

自身の『不幸』を誇ろうとする自分が嫌になった。



僕は……僕も、誰かを助けられたら良いと思った。

せめて、身近な人間の『不幸』を取り除きたかった。



……彼女は僕の事を『優しい』と言ってくれた。

違う、違うんだ。


僕はただ……君を助けられるような人になりたかった。

出会った事もない、君のお兄さんのようになりたかったんだ。




……そんな、彼女の兄が死んだ。


今度こそ、僕は稚影を守ると決めた。

彼女の兄の代わりに、僕は……手の届く範囲から大切なものを取りこぼさないように、僕は──





そして。






今。




「…………」



大きな廃倉庫の中。

老朽化してパネルの割れた天井から、夜空が見えている。

月の光が、僕の足元を照らしている。


金属を叩く足音が聞こえた。


僕はそちらへ視線を向けた。



「……稚影」



ゆっくりと、階段から降りてくる稚影の姿があった。


先程と格好は一緒……だけど、服の袖には真っ赤な血が付いていた。


誰の、血だろうか。

言葉に出来ない不安に、心臓が跳ねた。



「こんばんは、和希。月が綺麗だね」



そう口にしながら、笑みを崩さず……僕と同じコンクリートで舗装された地面に立った。


稚影と向き合う。

月の光が僕達を照らしている。


彼女は普段通りの仕草で、普段通りの笑みで……だけど、場所も格好も普段通りなんかじゃない。


僕は眉を顰めて、口を開いた。



「希美は……どこに、居るんだ?」


「そんなに焦らなくても良いじゃん。少し、お話しようよ」



稚影の発した言葉、それは提案だった。

だけど、有無を言わなさない強要でもある。

彼女の機嫌を損ねれば、希美は傷付けられるかも知れない。


今、僕は彼女の精神状態が分からない。

ずっと友人……いいや、家族だと思っていた彼女が、何故、こんな事をしているのか分からない。

何を考えてるのかも……分からない。


壊れてしまいそうな僕の心を、辛うじて繋ぎ止めているのは……妹を助けなければならないという信念だ。



「私ね、和希」



毎朝、学校に向かいながら話す雑談のように、稚影は口を開いた。



「今までずっとね、羨ましかった」


「……羨ましい?」



思わず、訊き直した。



「うん。希美ちゃんとね、和希の事が羨ましかった」


「…………」



会話しながらも、彼女の隙を探る。


『剣』は握っていない。

僕も、稚影も。


僕は稚影を刺激しない為に。

稚影は……いや、何故だろうか?

争う意志はないのだろうか。



「私、兄さんが死んで……とても悲しかったんだ」


「……稚影」



やっぱり、彼女が『異能』に目覚めたのは……あの事故がキッカケなのだろう。



「だけどね、希美ちゃんや和希が優しくしてくれて、私──



あの時から……彼女は──



「嫉妬しちゃった」



おかしく、なってしまったのか。



「私の兄さんは居なくなったのに、どうして二人は欠けずに楽しく生きてるんだろう」


「それは……そんなの……」


「似たもの兄妹だったのにね。おかしいよね?二人に優しくされる度に……どうして、兄さんが死ななければならなかったのか、私は狂いそうだったよ」


「稚影……僕は、僕達は、そんなつもりで……」


「知ってるよ。和希も希美も凄く優しいから」



まるで欠けた月のように、稚影が頬を吊り上げた。



「だからね、これは私の問題。私が悪い。私がおかしいの」



自虐する彼女に、僕は……拳を握った。

気付かなかった自分を恥じて、そして決意をする。



「稚影、今なら間に合う」


「間に合う?」


「あぁ、そうだ。僕と希美と稚影の……三人で家に帰ろう」



僕は提案する。

潤む視界を耐えて、怯える心を奮い立たせる。


稚影は……僕にとっての家族だ。

希美だって、きっと分かってくれる。



「気付かなかったのは……ごめん、謝るから……頼む。僕は君を傷付けたくない」


「……へぇ、そっか。それは──



稚影が──



「残念だなぁ……」



呆れたような、悲しむような目で僕を見た。

笑みは崩れて、蔑むような表情をしている。


……僕は、息を呑んだ。



「稚影、嘘じゃない……!僕はっ──


「希美ちゃんも和希も、バカだよね」



言葉を、遮られた。



「自分達がどんな状況なのか分かってないよ。私がどれだけ悪い人間なのか分かってない」


「稚影……」


「そうやって私の善性に縋って、本当は善人なんじゃないかと期待してる」



稚影が指で、上を指した。

視線を……そちらに向ける。


ビニール製のゴミ袋が、錆び付いたクレーンに引っかかっている。

それは……赤く、濁っていた。



「ずっと、騙してきたんだよ?今更……何を期待してるんだろうね。そんなのだから──



稚影が右手に『剣』を出した。

僕は、それを眺めている事しか出来なかった。


赤く、黒く濁っているゴミ袋。

あれは……何だ?

どうして、赤いんだ?



「こうやって、バカみたいな死に方をするんだよ」



稚影が『剣』を振り上げた。

触手が彼女の影から飛び出して……僕は慌てて飛び退こうとして──


触手の伸びる先が、僕ではなく頭上のゴミ袋なのだと気付いた。


そして、触手は……ゴミ袋を引き裂いた。


僕と彼女が挟む場所に、中身が零れ落ちる。



「っ、あ……」



溢れ出る腐臭。

そして、血の臭い。


誰かの死体だと、気付いた。

ドロドロに崩れた血肉に、幾つか、人の破片が落ちている。


思わず、手で口を覆った。


視線は……そのゴミ袋に入っている死体から離れない。



「ねぇ……これ、誰だと思う?」



稚影が『剣』を消して、無造作に死体に近寄る。

そして、手や服が汚れるのも気にせず……まだ人の形を保っている何かを、持ち上げた。


それは、人の手だ。


……切断面から血が、ぽたり、ぽたりと溢れている。



「う、ぁ……」



地面に落ちた衝撃か、それとも切断される前からか……その肌は擦り傷まみれになっている。


誰の手か。



「あ、あぁ……」



僕は……ここに来る前から、最悪の想定をしていた。

だけど、そんな事はない筈だと心の奥底で信じていた。


稚影が、そんな事をする筈がないと。



「な、なんで……そんな……ぁ」



だけど、その手を見た時、分かってしまった。

もう原型を留めていない程に傷まみれになっていても。



「希美……」



そのマニキュアに、覚えがあった。



「そう、正解。大当たりだよ」



希美の誕生日に、稚影がプレゼントしたマニキュアだからだ。

大切に使っていて、僕に自慢してきたのを……覚えてる。



「希美ちゃんもバカだよね。殺される直前まで、ずーっと私の事……信用してたんだよ?おかしくて笑っちゃった」



そう言って、稚影は……まるでゴミを捨てるかにように、希美だったものから手を離した。

小さな音を立てて、コンクリートの地面に捨てられてしまった……希美の手。



それを、見て……僕は──


……僕の心は──


軋む心は──



「う、あ……な、んで……」



希美を守るという意志で、何とか持ち堪えていた、心が──


音を立てて、崩れ落ちる。



「なんで……」



膝が震えて、僕は蹲る。

もう、立てない。


立ち上がれない。

立ち上がりたくない。



「なんで……こんな事をしたんだ、稚影……」



家族だと思っていた。

いいや、今も……家族だと思っている。


悔しくて、悲しくて目を瞑れば……楽しそうに笑う希美の顔……それを微笑ましそうに見ている稚影の顔。


僕の記憶。


守りたいもの。



「和希に苦しんで欲しいから……かな?」



それが、血で汚れていく。

もう、顔も見えない。

二人の笑顔が……赤く、濁っていく。


稚影が……足元の、希美の手を蹴った。

転がって、僕の側に来る。


まるで、ゴミのように扱う……その仕草に──



「あ、ぁ……」



僕は呆然とした。

希美と稚影は親友だと、姉妹のようだと思っていた。

そう、信じていた。


それなのに、嘘だった。

偽りだった。



「……僕と、稚影は……僕は、想っていたのに……」



僕は稚影が好きだった。

それは、掛け値なしに本当だ。



「へー、嬉しいなぁ」



興味もないように、稚影が嘲笑った。


本当に、好きだった。

好きだったのに。



「希美だって、稚影のことを親友だって、家族だって……なのに!」



僕は顔を上げる。

稚影は僕を見下して、笑っていた。


僕が睨むと……少し、表情が歪んだ気がした。

それはきっと、僕の願望で……彼女は、本当は何でもないように思っているのだろう。


僕も、希美も。


彼女にとっては、大切な存在ではなかったんだ。



「ねぇ、和希」



気楽そうに、声を掛けられる。



「……稚影」



稚影は場違いな程、朗らかに笑っている。


 

「今、どんな気持ち?」



どんな、気持ちか……だって?

そんなの、分かりきってるじゃないか。


好きだった女の子に裏切られて、大切な家族をゴミみたいに投げ捨てられて。


僕は、僕の気持ちは。



「大切なものを自らの力不足で失う気持ち……信じていた人に裏切られる気持ち。私に、教えてくれないかな」



彼女にとって希美の死はどうでも良い事なのだ。

殺したのも僕を苦しめたいから……それだけ。


そうだ。

いつもそうだった。


僕は『肉』の『能力者』に苦しめられてばかりだった。

ずっと、そうだった。


彼女の目的は僕を苦しめる事だった。


稚影は……僕の事も、希美の事も……好きなんかじゃなかった。

全ては、この時のために……僕を苦しめるためだけに。

ずっと……騙してきたんだ。



……僕に残っていた彼女を信じる気持ち。

助けたいという願い。


全てが、血で汚れて、壊れていく。


壊したのは……彼女自身だ。


心を占めるのは怒り。

憎しみ。


引き裂かれた僕の心。

その隙間に、負の感情が入り込む。



「稚影……お前だけは、僕が……」



右手に『剣』が現れる。

僕の鼓動に応じて、『剣』に走る血管のような脈が……強く、脈打つ。


この力は大切な物を守るために手に入れた力だ。

だけど、もう僕には……大切な物なんてない。


全て、壊されてしまった。

守りたかった妹も。

愛していた少女も。


すべて、彼女が踏み躙った。


……稚影が手を宙に翳す。

その手には『剣』が握られていた。



「そうこなくちゃ……」



心底、嬉しそうに笑いながら……『剣』を構えた。


大切な妹の死体を挟んで、大切だった想い人と向き合う。

凶器と殺意を向け合って……視線を交える。



裏切られても良い。

傷付けられても良い。

弄ばれたって、嘘を吐かれたって……許せた。


だけど……希美を殺した事だけは、許せなかった。


稚影が目を細めて、笑った。



「さぁ、どこからでも掛かってきなよ」



これから行われるのは──



「僕が……殺して、やる……」



殺し合いだ。


もう、これ以上……僕の記憶を汚されたくなかった。

大切だった少女は、もう何処にもいない。


それならせめて……これ以上、誰かに『不幸』を振りまく前に、僕が止める。


愛おしい思い出を血で汚したのは彼女だ。

だから、僕は彼女を……殺す。


涙が溢れた。

だけど、もうこれ以上は溢れない。


守りたかった。

助けたかった。

だけど、今は。


もう……。


僕には。






どうして、こんな事になってしまったのだろうか。


その疑問には誰も答えてくれなかった。









◇◆◇









私は手に持った『剣』を振りかぶる。

『異能』を行使して、『剣』身に血を纏わせる。



「……さぁ、頑張って避けてね」



そのまま、薙ぎ払う。


『剣』に付着していた血が撒き散らされる。

操られた血が宙を舞って、小さな三つの刃を作り出す。


それらを『異能』で弾き飛ばし、和希へと飛ばす。


私の得意とする『血の斬撃』だ。

目的は切断じゃなくて、付着した血による身体操作だけどね。


素肌で接触すれば、体の自由を奪える。

必ず殺す技……文字通り、必殺技だ。



和希はそれを──



『剣』を薙ぎ払い、二つ叩き落とした。

血は一定量で固まっていないとコントロールが難しくなる。

ああやって破壊されれば、制御を失う。


和希はそれを知ってか……いや、知らないだろうな。

きっと、偶々だ。



さて、飛ばした血の攻撃は三つだった。


残り一つをどうやって避けるのか?

傍観していると──


『剣』を盾にして、突っ切ってきた。



「へぇ……?」



思わず驚いて、声が漏れた。



和希の『剣』はそれほど大きくない。

細く、長い『剣』なのに……的確に、血の斬撃を防いだ。


しかも、そのまま接近まで──



和希の『剣』が脈打っている。

和希の『異能』……なるほど、かなり強まっているようだ。


私は『剣』を肉付けして『大剣』へと形を変える。


和希に私の心を覗かれるのは拙い。

だから、『剣』同士の接触は避けなければならない。


『剣』は『能力者』の心の発露だ。

体の外に出て外界へと干渉するようになった『心』そのものだ。


だから、触れ合えば互いの感情が逆流する。


……もしも、この心を曝け出してしまば、私の願いは叶わなくなるだろう。


だから、私は『剣』を肉で補強した。

これは私の心を守る肉壁だ。



それを……薙ぎ払う。

私の身長よりも巨大な『大剣』が、空を裂いた。


和希は……数歩引いて、それを回避した。



「あれ?よく避けたね」



……やっぱり、『異能』の出力が上がっている。

私に裏切られた事か……それとも、希美の死体を見たからか……どちらが原因だろうか。


まぁ、どちらでもいい。

重要なのは結果で、過程に意味などない。



和希が私を見る。

私も和希を見た。



……今まで、私に向けた事のないような目。

いいや、それどころか誰にも向けた事のないような視線。



思惑通りだ。

想定通りだ。


なのに、何故?


どうして、こんなにも……苦しいのだろう。



じくり、じくりと胸が痛む。



だけど、涙は出ない。

涙腺はとっくに壊れている。



「次、行くよ?」



私は自分の心を誤魔化すように、『大剣』を振り上げ、地面を叩いた。






◇◆◇






稚影が、地面を叩いた。


砕けた石片に血肉が付着して……生き物を形作る。


さっきの血の攻撃とは違う……質量を伴う攻撃をする気だ。


石を取り込みながら、血肉は……四つの足が生えた獣になった。

頭が生えて、二つの耳が立つ。


……血と臓物で出来た犬だ。



「可愛いでしょ?」



犬が首を上げて、僕を見た。

充血した目は人の目のようで、剥き出しになった歯は……肋骨のような物で出来ていた。



……可愛い訳なんか、あるものか。



そう心の中で吐き捨てて、『剣』を構える。


血と臓物で出来た犬が、僕に向かって走り出した。

かなり速い。


人間なんかとは比べ物にならない速度だ。


だけど──



『剣』が脈打つ。



そのまま、『剣』を振るう。


偶然、振るった先に犬が入り込み──



「このっ!」



頭を叩き潰された犬が、そのまま弾き飛ばされた。



「あーあ、酷いことするなぁ、もう」



頭が砕けた犬は、再度立ち上がり……また、僕へ駆け寄ってくる。


分かってる。

あれは『異能』で作られて、操られている血肉の集合体だ。


頭を砕いた所で意味はない。



また、『剣』が脈打つ。

僕の『異能』が何なのかは分からない。


だけど、今はこの力を信じるしかない。



顔のあった部分から骨を剥き出しにして、犬が迫り来る。


僕は腰を深く落として。


『剣』を振り上げる。



今度は偶然、接近してくる犬の身体に命中して……真っ二つになった。

運良く、返り血も浴びていない。



「……はぁ、くっ、そ」



しかし、息が切れる。


さっきの戦いでも身体を動かしていた。

この工場までも急いで走ってきた。


休む暇なく、今、戦っている。


僕の身体は正直限界だ。


この身一つと、『剣』が一本。

僕はそれだけで戦っている。


しかし、稚影は身体も殆ど動かさずに『異能』で攻撃してくる。


長期戦になれば、先に音を上げるは僕だろう。



「凄いね、和希。今のも対処できるんだ」



それはきっと、稚影も分かっている。


決着は早急につけなければならない。

……そうしなければ、負ける。


だけど、この戦いの決着とは……つまり──





僕が、稚影を殺す、という事だ。





膝が、震える。



「く、うっ……!」



怯えるな、竦むな、逃げるな。

僕はもう決意した筈なのに、それでも。


それでも、彼女を殺したくないと思ってしまう自分がいる。


息を深く吐いて、落ち着かせる。


彼女は僕達を裏切った!

希美を殺したんだぞ!

それなのに、何を躊躇う必要があるんだ!


心の中で叫ぶ。

怒りを再実感して、憎しみを形にしようとする。


なのに、どうして。



「うん?どうしたの?攻めて来ないと、勝てないよ?」



どうして。



「分かってるよ……そんな事!」



どうして。



「言動と行動がバラバラだね。まだ躊躇ってるんだ」



どうして。



「……く、そっ!くそ!くそっ!」



どうして、こんなにも……。



彼女に死んで欲しくないと、考えてしまうのだろう。



『剣』を強く握りしめて、意図的に彼女を睨みつけて、歯を食いしばって……。


そうやって、戦おうと己を鼓舞しなければ、彼女に向き合えない。

そんな自分の弱さを、今……自覚してしまった。


そして、その姿は……稚影に見透かされているのだろう。


呆れたように、ため息を吐いた。



「和希って……本当にバカだね」



稚影が『大剣』を構えて、僕に一歩、近付いた。






◇◆◇






和希の『異能』。

その性質上、彼の心が……願いが重要になる。


彼自身は運が良くなる『異能』だと、勘違いをしている。


確かに、その一面はある。

だけど、その本質は……。



不確定な『可能性』の中から、自分の望んだ『結果』を引き寄せる能力。



似てるようで、少し違う。


助けたいと思った相手を助けて、殺したいと思った相手を殺せる……その『可能性』さえあれば。


相手の攻撃を避けれる『可能性』があれば、回避出来る。

相手に攻撃を当てられる『可能性』があれば、必中だ。


それが、彼の『異能』の本質。

私の知る限り、最強の『異能』だ。


そして、その望む『結果』を引き寄せる力の強さ、それが彼の『異能』の出力に大きく紐付いている。


小さな『可能性』を引き寄せるには、それ相応の強い『心』の力が必要になる。


だから、私は彼を育てる必要があった。


強くて、邪悪な……途方もない敵達に打ち勝つには、強い『心』が必要だから。



そして、その『異能』。

望んだ『結果』を引き寄せるという事は……私を助けたいと思ってしまえば、助けてしまう『可能性』を引き寄せてしまう。


それでは、ダメだ。

和希の心を成長させられない。


私の望む未来のために……和希には──



「和希って……本当に優しいバカだね」



ここまでしても、私を心の底から憎めないなんて。


私は『大剣』を床に突き刺す。

地面に血が走り……散らばっていた死体に繋がる。



「……や、やめろ!稚影!」



和希も私が何をしようとしているのか、気付いたようで怒鳴り声を出した。


死体の血肉を集めて、人の形を作り出す。


と言っても、皮膚も存在しないグロテスクな肉人形だけどね。


死体を弄ぶ凶行に、和希が私を睨んだ。



「稚影、お前……!」



分かる、分かるよ、和希。

和希は優しいから、こういう事が許せないんだよね。


だから、私はやるね。

和希が私を許せなくなるように、私も努力するよ。



「さぁ、行って。和希を殺して?希美ちゃん」



死体が組み上がり、人の形になったソレが……和希には向かって襲い掛かった。






◇◆◇





「う、あぁ、ああぁ!」



叫びながら、『剣』を構える。

目の前に迫る、皮膚を引き剥がして臓物を剥き出しにした人形に『剣』を向ける。


希美。


希美、希美、希美。


希美が、希美だったモノが……稚影に弄ばれて、バケモノになって僕へ襲い掛かる。


その肉人形は手から骨を剥き出しにして、僕へ突き立てようとする。

逃げ出したい感情が溢れる、もう何もかもが嫌になる。



それでも『剣』が、脈打つ。



その骨を『剣』で受け止める。



「う、あぁ、くそ、くそ!何で、何でこんなっ──



骨を弾き、死体を蹴飛ばした。

さっきの犬型よりも動きが遅い。

なのに、僕は苦戦している。



「何で、こんな事が出来るんだよ!稚影!」



強く、強く、心の底から怒りを込めて稚影を睨んだ。



「ほらほら、和希。こっちを見てる場合じゃないよ?」



命を嘲笑い、友情を嘲笑い、僕を嘲笑う。


稚影は……もう、僕の知っている稚影じゃない。


分かっている。

分かっていたのに、今更……。


彼女に情を湧かせていた自分が嫌になる。

バカみたいじゃないか、僕は。



「さぁ、希美ちゃん。和希も同じ姿にしてあげてね?」



稚影の言葉と共に、希美……いいや、肉人形が襲いかかってくる。


気分は最悪だ。

吐き気がする。


だけど、ここで……。



ここで、僕は……。



死ねない。



「こ、のぉっ!」



『剣』を振りかぶり──



『もう、お兄ちゃんったら……女の子のこと、全然分かってないんだから』

『プリン買ってきてよ、お兄ちゃん!』

『お誕生日、おめでとう!これ、稚影ちゃんと一緒に選んだんだよ?』

『稚影ちゃんと恋人に……?それってホント?』

『私、稚影ちゃんを慰める……ううん、違う。立ち直れるキッカケになりたいの』



希美だったモノを、切り裂いた。

骨が砕けて、臓物が引き裂かれて、血が吹き出す。



思わず、目を瞑ってしまいそうになるけど……それでも、目を逸らさず──



「希美……ごめん……」



その、死体が崩れていくのを……見ていた。



ごめん、希美。

ごめんな。


ごめん。

本当に……ごめん。


でも、僕は……やらなきゃならない事があるんだ。


だから、ごめん。



「……あーあ、壊しちゃった」



吐き気を堪えて、震える両手で『剣』を握り直して──



「稚影……!」



殺すべき『外道』を睨みつけた。



「ふふ、少しは良い顔をするようになったね」


「黙れ……」


「それでこそ、殺し甲斐があるってもんだよ。ホントにね」


「黙ってくれ……!」


「さぁ、私と──


「もう、喋らないでくれ!」



これ以上、好きだった少女の姿を汚さないでくれ。

思い出を穢さないでくれ。


もう、その言葉を耳に入れたくもない。

黙らせてやる。



「……いいね」



僕の様子に、稚影は笑って……『大剣』を向けた。

その『大剣』をコーティングしていた血肉が溶けて、崩れ落ちる。


彼女の『剣』が剥き出しになる。



「ここから先は、小手先だけの技は要らない。本気で……殺し合おっか」



その意図は掴めない。

だけど、彼女の意図が掴めないのは今に始まった事じゃない。


彼女の裏切りを知った時から、ずっと分からなかった。


だから、今更だ。



「…………」



僕が無言で『剣』を構える。


稚影が油断しているのは分かった。

『異能』を使わないと言うのなら、それは好都合だった。


彼女を……殺すんだ。

僕の手で、決着をつけるんだ。



「さぁ、行くよ」



稚影が『剣』を構えて、僕に向かって……走り出した。

僕はそれを迎え撃つ。


僕の持つ『剣』が脈打つ。

脈打つ、脈打つ、脈打つ。

何度も、脈打つ。


迷っていた心を振り払い、僕は『剣』を……迫る彼女に叩きつけようとして──








『和希』








躊躇ってしまった。





だから、彼女自身ではなく……『剣』に衝突させた。


鍔迫り合いが起きる。


『剣』と『剣』が接触した。




「稚影……!」




稚影の『剣』から、感情が逆流する。



僕は、その流れ出てくる憎悪を受け止めようと、身構えて──

















感じたのは、悲しみだった。






「……え?」





心を突き刺すような悲しみ。

嘆き、後悔。

罪悪感。


心を締め付けような好意。

愛おしさ、心配する感情。

好きだという心。


二つの感情。


それらが、僕の持つ『剣』を通して……流れ込んでくる。




キリキリと、音を立てて『剣』で鍔迫り合う。




言葉で嘘を吐く事は出来ても、心では嘘を吐けない。

だからこの、溢れ出ている感情は……本物だ。


彼女の胸の内には途方もない悲しみと、後悔があった。

そして、僕に対する好意も。



「……稚影っ──



視線を『剣』から稚影に向けると……彼女が、笑った。


その顔は……先程まで見ていた笑みじゃない。

いつも、いつでも僕が見ていた……彼女の笑顔だ。


それが、儚く、穏やかに、浮かび上がって──



「あ」



手元で押し合っていた『剣』を支える感触がなくなった。

彼女の持つ『剣』が消滅していた。


だから、僕の持つ『剣』は……そのまま──







稚影の身体を、貫いた。









◇◆◇







痛い。

苦しい。


身体が、熱い。


これが『剣』に貫かれる痛み、か。


……すぐ、死ねると思ったんだけどな。


和希が咄嗟に気付いちゃったみたいで……『剣』筋を逸らしてしまったから。


胸じゃなくて、腹に突き刺さったんだ。



「げほ、ごほっ……」



『剣』が抜けて、私は力なく……膝から、崩れ落ちた。


腐臭のする血を吐き出す。

臭い、臭い臭い臭い臭い。

汚い。


視界がボヤける。

苦痛で、意識が朦朧とする。



「ち、稚影……?」



訳が分からないと言った顔で、和希が私に……近付く。



「……ぁ、私の、負け、だね」



溢れた言葉に、和希が……涙を流した。



「な、なんで……なんで、こんなっ……」



私を殺そうと願っていた筈なのに……それでも、死に頻している私を見て悲しんでいる。


憎い筈なのに、それでも……。



「え、へ……へ………」



和希は、優しかった。

優しすぎた。


それが私は不安だった。

このままでは、将来……誰か、和希の大切な人を犠牲にしてしまうほど、優しかった。


それは弱さだ。

この世界では……力が必要だ。


和希には、力が必要だった。

そして、その力は……大切な誰かの死によって生まれる。


だから、私は……。



「……上手く、いっちゃった」



私は、和希に殺される必要があった。

その為に、沢山準備をしてきた。



「な、何をして、何がしたいんだよ!こんなっ──


「希美、ちゃん、は……生きてる、よ」


「……え?」



血を吐きながらも、言葉を紡ぐ。

伝えなければならない事が、沢山ある。



「ここから、少し……離れた、場所で、監禁、してるから……助けて、あげて」


「でも、だったら、アレは……!?」



和希は、私が希美だと偽装した死体に目を向けた。


アレの手は……私自身の手だ。

希美と同じマニキュアをして、切断した手。

『異能』を使って身体から手を生やして……切断した手は、異能で形状を整えた。

それ以外の部分は、笹川 裕子、つまり先日殺した『能力者』の体の一部を拝借して……保存していた。


ゼリー状に肥大化した死体は、欠損が激しくて、体の一部を持ち出されていても警察には気付けない。


切断した一部を冷凍保存しておき、今……ここで使った。


だから、あの死体は……希美の死体ではない。



「あ……」



和希は……目を見開いた。

理解はしていなくても、死体の中に顔が存在しない事に気付いたのだろう。


希美である事を指し示しているのは状況と……手、ぐらいだと。

その手も擦り傷まみれで、誰の手か分からない状態だ。



「私が、希美ちゃんを殺す訳、ない、じゃん……」



血が、流れる。


痛い、苦しい。

でもこれは、私への罰だ。


今まで殺してきた人も、きっと同じぐらい……ううん、それ以上に痛くて苦しかった筈だから。



「う、あぁ……稚影……稚影、稚影……!」



何度も名前を呟きながら、和希が私の肩に、手を触れた。

暖かった。



「……っ、そうだ、病院!救急車を……!」


「もう、無理だよ……」



人を沢山、殺してきたから分かる。

この傷では……助からない。



「そ、れなら……『異能』で、傷を……傷を塞いでくれ……!」


「……ううん、いい。もう、いいの」



十分だ。

満足している。


この演劇の最後は、正義が勝ち、悪が滅びて……死ぬ。

だから、その結末を弄るつもりはない。



「良くない!全然、良くない!だって、まだ、まだ僕は……!」



和希は涙を流しながら、私の、肩を掴む。

壊れ物を扱うように、優しく……だけど、力強く。



「…………ごめんね、和希」


「なん、で……謝るんだよ……!?」



今まで、騙してきて。

苦しめて。

裏切って。


勝手に、全部分かったつもりになって……人生をメチャクチャにしてしまった。



「ごめんな、さい……許される、事じゃない、けど……私、ずっと……謝り、たく、て……」



血が流れる。

私の命が流れ落ちる。


溢れていく。



「稚影……?」



……腐臭がした。

私の、腐った血の臭いだ。

心も臓物も、血も……私は腐っている。


私は、和希と希美を助けたかった。


だけど、私は力不足で……出来るのは、和希を成長させる事だけ。


人を傷付けるだけの、醜悪な存在。


それが私だ。



「稚影……!」



和希が私を、抱きしめた。

顔がすぐ側にあって……和希の熱が、私の身体に伝わる。


今、さっきまで彼が抱いていた、私に対する疑念や、憎しみの心は……霧散していた。

感じられるのは……私に対する親愛と、後悔だ。



「和、希……どうし、て……?」



こんなに酷いことをしたのに。

酷いことをした理由すら、話していないのに。



「僕は、僕は……!君に、生きていて、欲しいんだ……!頼む、だから、死なないでくれ……」



和希の持つ『剣』が脈打つ。


……だけど、無意味だ。

私が救われる可能性は、あまりにも小さ過ぎる。


救われたくないと願っている人間を、救うのは……難しいから。


和希の腕に力が籠る。

彼の服に、肌に……私から溢れた血が付着する。



「和希……汚れ、ちゃう、よ……」



私の汚い血が和希に──



「そんなの、どうだっていい!汚くなんかない……汚くなんか……!」



和希は泣いている。


私が望んだ結末だ。

上手く行ったと笑うべきだ。


なのに──



「……和、希」



枯れた筈の涙腺に、痛みが走る。

何かが、溢れる。


涙、か。


この結末を思い付いた時、和希に愛して貰えば……それだけ、反動で彼が傷付くだろうと、そう考えた。


それは確かに上手くいっている。


……だけど、いつの間にか……私の、和希に対する好意は本物になっていた。

笑える話だ。


男の記憶を持った異常者が、物語の主人公に恋をするなんて。


本当に……愚か。



「…………ごめん、ね」



だからこそ、私の心にあるのは……和希に対する後ろめたい気持ち。



「許すよ、許すから……傷を、治してくれ……!どこにも、行かないでくれ……!」



血が抜けて、身体が冷えていく。

相対的に、和希の身体の温かさを感じる。



「夏休みの予定だって……これからの予定だって、沢山……残ってるだろ……?やりたい事も、やらなきゃならない事も……だからっ──



強く、強く、感じる。

命の……温かさを。



「勝手に……どこかに、行かないでくれよ……頼む、から……」



言葉に嬉しいと思っても、どこか、客観的に見えてしまう自分がいた。


あぁ、なるほど。

これが死ぬって事なんだ。


薄れゆく視界に、和希の泣き顔が見える。



「稚影……が、死んだら……僕は、僕は……!」



私が抉った心の傷。

それは和希を強くする、私の最後の……爪痕。


……だけど、私の想定は甘かった。

私は……自分が思う以上に、和希に愛されていた。


このままでは……和希は、立ち直れない、かもしれない。


不安が胸に過ぎって──



「和、希──



最後の力を、振り絞る。

掠れる声で、言葉を紡ぐ。



「希美、ちゃんを、お願い……ね……」



彼の心に……願いを……残す。

死なないで欲しいと、決して崩れないで欲しいという願い。


和希は誰かの為なら、戦える。

それなら……希美の、為なら。


きっと彼はまた、立ち上がってくれる。

私の好きな、彼ならば。



「あぁ、あぁ!分かってるよ……!稚影……だからっ……!」



もう、私が助からないのを悟ったのだろう。

それなら、せめて……不安にならないようにと、頷いたんだ。


……本当に、彼は優しい。

だからこそ、私は……。



「……最、後に……」



私は力の籠らない手で、和希を引き寄せて──




唇を、重ねた。



血塗れの唇が触れ合う。

腐臭のする、最悪のキス。


だけど、和希は……少しも嫌がる素振りを見せなかった。


唇を、離す。


唾液の混じった血が、私たちの唇の間で……糸を引いた。



「ぁ……あ……」



呆然とした様子で、和希が……私を見ていた。

……酷いな、少しぐらい、喜んでくれたっていいのに。



「……ありがと、和希」



もう、口は開かない。

力が抜けていく。


崩れ落ちる私を……和希が抱き抱えている。



「嘘……だろ?い、嫌だ……嫌だ、稚影……!」



目は開けたまま、少しずつ、暗く、暗く。

遠く、遠くに。


離れていく。



「なんで……!?まだ話したい事が沢山あるのに……!」



和希が何か、話している。


だけど、もう……聞き取れない。


きっと、恨み節なんかじゃない。

私を引き戻そうとする声。



「何とかしてくれ……!何のための『異能』なんだよ……!助けてくれよ、稚影を……く、そっ──



……私は、これで良かったのだろうか?


私の選択は正しかったのだろうか?

……分からない。



「だっ……だめだ……稚影、行かないでくれ……」



……目を閉じる。


希美にも、悪い事したな……。

まだ、ちゃんと謝れなかったのは……今、後悔してるけど。

もう、どうしようもないから。



「目を、開けてくれ……ま、まだ、一緒に居てくれよ……」



……呼吸が止まる。



これから、二人には困難が訪れるだろう。

沢山の困難が、和希を傷付けようとする。


だけど、きっと大丈夫だ。

今の和希なら、きっと……もう、誰にも負ける事はない。


私はそう、信じている。

……もっと早くに信じていれば、こんな結果にならずに済んだのかな。


だけどそれは、和希と……私自身を信じられなかった、私の弱さが原因だ……なのだろう。

和希が悪い訳じゃない。



「稚影……僕は……まだ、まだ……だって……これから……」



……意識は、暗闇の中に。



ふと、兄さんの顔が、脳裏に浮かんだ。



私、上手く出来たかな?



そう訊くと……とても、悲しそうな顔をされた。

嫌われたのだろうか?

それも、仕方ない事だと思った、

兄さんから貰った命で、私は沢山、悪いことをしてしまったから。


だけど、兄さんは私に手を伸ばしてくれた。

その手に、血塗れの手を伸ばす。


繋いだ手が、二度と離れないように強く握る。

悲しそうな顔をした兄さんに導かれるまま、私は歩き出す。



ゆっくりと、一歩ずつ、歩き出す。



ゆっくりと。



それでも、確実に。



暗闇の中へ、歩いていく。





……二度と目覚めない眠りの底に。







落ちた。







































◇◆◇






夏が来て、秋が来て。

冬が来て、また春が来て。


巡り巡って、二年弱が経った。



僕はリビングにある仏壇の前に座る。

仰々しくない、小さな仏壇。


中央には写真立てがある。


楠木 稚影。

僕の好きだった人の、写真だ。



僕が撮った、希美と稚影が写った写真。

彼女が笑顔でカメラに目を向けている……そんな写真から、彼女の姿だけを切り取った遺影だ。



慣れた手つきで線香を取り出して、マッチで火を付ける。

供えて、座って……手を合わせ、目を閉じる。



今でも、仏壇の前に立つと……昨日の事のように思い出せる。



僕の手の中で、彼女が息絶えた後……僕は、隣の朽ちた事務所で、希美を見つけた。

仕切りに「稚影ちゃんは!?」と聞く彼女を……亡骸と引き合わせた。


希美が泣き崩れて。

僕もようやく、彼女が死んでしまったのだと自覚して……足元から、崩れた。


泣いて、喚いて、自己嫌悪して。

希美と二人で抱き合いながら、泣いて。


かなり遅れて、七課の人達が来て……僕達は家に帰された。


力なく、今にも壊れてしまいそうな希美を、何とかベッドに寝かして。

喉が枯れていた僕は冷蔵庫を開け……稚影の名前が蓋に書いてあるプリンを見つけて……また泣いた。


全てに苦しくなって、全てを投げ出したくなった。


それでも『希美を頼む』と言われてしまった。

託された。


だから、僕は……無理矢理立ち上がって、前を向いて歩くことにした。

……いや、歩こうとした、か。


今でも、ずっと後ろを振り返って生きているから。



「……稚影」



線香の匂いが、鼻に染みる。


息を深く吐いて、すっかり緩くなってしまった涙腺で涙を堪える。



彼女を殺したのは僕だ。

だけど、罪には問われなかった。


正当防衛だと、七課に処理されてしまった。

それどころか、事件自体が『異能』絡みであるからと公にされなかった。


あの時、少しは裁かれていたら……なんて、思う事もある。



彼女の死後、親族は誰も名乗りを上げなかった。

だから、僕が喪主として小さな葬式を上げた。


遺骨は僕達で預かって……今でも、この仏壇で供養している。



合わせていた手を離して、目を開ける。

僕の心とは裏腹に、窓の外は清く澄み渡っていた。



「…………」



プリンを、墓の前に置く。

彼女の好物だったからだ。


自然と、涙が溢れた。


泣きたくないのに……稚影には、泣き顔を見せたくないのに。

勝手に、溢れてしまった。



「……ダメだな、僕は」



自己嫌悪しながら、立ち上がる。



あれから、沢山の出来事があった。

沢山の人と出会って、沢山の争いがあった。

何度も、打ちのめされそうになった。


だけど、稚影を最後に、僕の手の中から溢れてしまった人は、一人もいない。

みんな、生きている。


それはきっと、稚影が残していった傷が……僕を強くしてくれたからだ。



そして昨日、僕の高校生活は終わりを告げた。

来月からは大学生だ。

将来的には警察学校に入学して、警察官になるのが夢だけれど……。


まぁ。


それだけ、月日は経ったけれど……僕はまだ、彼女を忘れるつもりはなかった。


目を閉じれば、今でも……ほんの少しも薄れる様子はなく、彼女の顔が思い出せる。



目を、開く。



「……ごめんな」



何に謝っているのか、僕にも分からない。

彼女を殺してしまった事か、気付けなかった事か、それとも……。



電話が鳴った。

手元の携帯電話だ。

……見覚えのある名前に頬を緩めて、通話開始のボタンを押す。



「……はい、もしもし」


「和希、今少し話して良いか?」



結衣さんだ。


あの頃はいつも気を張り詰めていた結衣さんは……穏やかに……いや、少し覇気がなくなったと言うべきか。


結衣さんの『異能』の出力はどんどん低下していって、今では……数分ほどしか過去を見れなくなっていた。



「え?はい、良いですよ。何かありました?」



新しい『異能』事件だろうか。

そう思って、気を張り詰める。


だけど──



「……違う。別件だ」



事件ではないらしい。

胸を撫で下ろす。



「では、何の──


「楠木、稚影の……話になるんだが」



思わぬ名前に驚いて……仏壇を一瞥した。

写真の中にいる稚影は笑っている。



「……何ですか?」


「あぁ、いや……そうだな。彼女の遺品の話になるんだが──



連続猟奇殺人事件を起こした彼女の遺品は、秘密裏に七課に回収されていた。

彼女の日記も、アルバムも、自室に飾っていた女児向けの腕時計も……。


それらの保存期間が過ぎて、廃棄されるとの事だ。



「え?それは、ちょっと……」


「安心しろ。私が預かっている。事務所まで来てくれれば良い」



僕は深く息を吐いた。



「ありがとうございます」


「……いや、これぐらいでしか私は贖罪出来ないからな」


「……贖罪ですか?」



結衣さんが、稚影に……そんな感情を抱いているとは知らなかった。

だって……結衣さんからすれば、稚影はただの連続猟奇殺人犯だ。


僕の疑念を晴らすように、結衣さんの言葉が続く。



「あの頃、私は焦っていた。連続殺人犯を止めるために、彼女自身の身を十分考慮せず作戦を決行した」


「……仕方ないですよ」


「そんな事はない。私の失態だ」



僕は黙る。

結衣さんは慰めて欲しくて、こんな話をしている訳ではない。



「それに、焦っていた身勝手な理由が、もう一つある」


「……もう一つ?」


「彼女は何故か、和希が『異能』に目覚める事を知っていた。まるで『未来予知』をするような──



それは……僕も、未だに不思議に思っている事だった。



「『未来予知』の『能力者』を私は知っている。関係者ならばと、焦ってしまった」


「……そんな『異能』を持っている人がいるんですね」



結衣さんの後悔と共に、悲しむような声が聞こえる。



「私の『兄』だ」


「……それって──


「あぁ、もう亡くなっている」



結衣さんが探偵をしている理由、兄を殺した犯人を見つける……その殺された兄、か、



「……何か関係が?」


「さぁな。もう訊く手段もない。だが……もし、関係していたらと焦ってしまった。私の身勝手だ」



少しの間、沈黙が続いた。

……僕は目を閉じて──



「もう一つ、謝らなくてはならない事がある」


「……何ですか?」


「彼女の目的を推察出来ていたのに、話さなかった事だ」



……僕は、息を呑んだ。



「彼女はお前を強くしようとしていた」


「……えぇ、今は僕も分かっています」



稚影の目的は、僕に負荷を掛けて『能力者』として育てる事だったのだろう。

そうでなければ、彼女があんな事をする訳がない。



「だが、この推測が万が一にも間違っていれば、お前は彼女に敵意を向けられなくなり……油断して、殺されてしまう危険性があった。だから話せなかった」


「…………」


「しかし、それならば……彼女の真意を探ってから、事を起こすべきだった」



結衣さんが自嘲した。



「恨んでくれて構わない」


「恨む訳ないじゃないですか」


「……そうか。すまないな」



結衣さんがため息を吐いた。

その謝罪は僕に向けてだったけれど……きっと、希美や稚影へ向けての物でもあるのだろう。



「それと……彼女の遺品の話に戻るのだが──


「何ですか?」


「携帯電話に、メールの下書きがあった」


「メールですか?」



首を、傾げる。

そんなの、ただの消し忘れだろう。

気にするような事でもない。



「作成日は……彼女が亡くなった日。宛先は……和希、お前だ」


「僕……」



彼女の亡くなった日……だとしたら。



「彼女が希美を連れ去ってから、お前と再会するまでの間に書かれた下書きだ」


「…………」



思わず、黙った。

僕を脅すためのメールだったのだろうか、気になってしまう。



「……悪いな。事件の後処理中に見つかったらしくてな……私も、今知ったのだが……」


「……な、んで謝るんですか?」


「この『送り損ねた』メールは、お前が読むべきだ」



一体何が……書いてあるんだろう。

僕は少し恐ろしくなって……遺影を一瞥する。


……ほんの少しでも、彼女の生きていた時の名残りが欲しい。

そう思えた。



「和希、転送して良いか?」


「……勿論。良いですよ」



少しして、携帯電話に通知音が響いた。

結衣さんが下書き転送してくれたのだろう。



「では和希……遺品の受け渡しについては──


「この後、行って良いですか?」


「あぁ、構わないとも……待ってるぞ。多少、遅れても気にしないからな」



そう言われて、電話が切れた。


多少遅れても……か。

耳から携帯電話を離して……メールボックスを開く。



結衣さんから転送された、稚影のメール下書き。

それを開く。



─────────────

Fwd:和希へ

─────────────



僕の名前だけ書かれた、シンプルなタイトルだった。



─────────────

最初に、色々と迷惑をかけてごめんなさい。

謝っても許される事ではないと思うけれど

それでも、ごめんね。

─────────────



最初の数行に現れたのは、彼女の謝罪の意思だった。


……何となく、この下書きが何だったのか、分かった気がした。

これは『遺書』だ。


それも……埋もれてしまって、読まれなくたってもいいと言う……遺書。



────────────

私の事が憎ければ、ここから先は読まないでくれると嬉しいな。

どうか、お願いだから。

────────────



僕は少しも躊躇わず、次を読み進める。

空白行が幾つもならんで、ようやく文字が見えた。


……僕が、稚影を憎いと思うか、か。

稚影はきっと、僕に憎まれる事も覚悟して、あんな事をしてしまったのだろう。



───────────

どうして憎くないか、もう私は聞けないけれど。

読んでくれてるのは少し、嬉しいかな。

───────────



……稚影は、それでも僕に嫌われたくなかったんだな。

せめて、生きている内に……ちゃんと話せていれば良かったのに。



───────────

初めて会った時、優しく声をかけてくれて嬉しかったよ。

私と友達で居てくれようとして、凄く嬉しかった。

───────────



……あの時、殺し合う前に「羨ましかった」なんて言っていたけれど、やっぱりアレは嘘だったんだ。

僕に殺意を抱かせるために、彼女は僕と……自分に嘘を吐いたんだ。



───────────

だから、気に病まないで欲しいな。

貴方を強くするために、傷付けるために行動してきたのに、こんな事を言うのはおかしいけど。

───────────



……稚影は、僕の『異能』を強くするために、僕を傷付けた。

それは……分かっていた。


だけど、その考察が正しかったと知って……胸を撫で下ろした。

僕は安心したんだ。


稚影が……僕の事を大切だと思っていてくれた事に、安心した。



───────────

和希からすれば、こんなメール

見たくもないかも知れないけど。

ごめんね。

───────────



「……そんな事ないよ」



メールからは彼女の後悔が滲み出ていた。

だけど、僕の中にいる彼女の記憶に、新しいページが刻まれているような気がして嬉しかったんだ。


亡くなってしまって、もう新しい思い出なんて作られないと思っていたから。



───────────

あまり時間がないから、長く書けないけれど。

話したい事も、知って欲しい事も沢山あるけれど。

だから、一つだけ、どうしても伝えたい事だけを書くね。

───────────



僕は、心臓が締め付けられるような痛みを感じた。


だって、この遺書を読んで……久しぶりに稚影と会話できているかのような気持ちになれたから。

それが終わるのが……凄く、惜しく感じてしまうんだ。



───────────

私は和希の事が好きだよ。

嘘をいっぱい吐いちゃったけれど、これは本当。


和希にとっては迷惑な気持ちだろうけど、どうしても伝えたくて。

───────────



「……遅いよ」



そういえば、彼女から「好き」と言われた事は無かった。

行動で示されても、それでも「好き」とは言ってくれなかった。


……あぁ、せめて生前、聞けていたら……こんな。


こんな。



「うっ、く、ぅっ」



悲しまずに、済んだのに。

素直に喜べたのに。


涙が携帯電話の液晶に溢れて、僕は拭き取った。



───────────

でも、私と和希は釣り合わない。

和希には私なんかより、ずっとお似合いな人が見つかるよ。


大丈夫、私が保証するから。

───────────



……僕は、息を呑んだ。



───────────

その時は、私の事なんか忘れて、幸せになってくれると嬉しいな。


私の所為で和希が不幸になっちゃったら、すっごく辛いから。

───────────



「……散々、人の事を『バカ』って言っておいて、稚影の方こそ『バカ』じゃないか」



涙を、拭う。

稚影は……僕が、稚影に抱いている気持ちを小さく見積り過ぎている。

僕は、稚影が死んで、もう『不幸』を感じている。

これ以上はないぐらいの『不幸』を。


だけど、それ以上に稚影と共に過ごした記憶は、僕の中で『幸福』として遺っている。

僕の心の根幹で、支えてくれている。


それを稚影は分かっていなかったんだ。



───────────

最後に。

希美ちゃんをよろしくね。

泣かせたら、私、怒るからね。

───────────



メールのサイドバーを見て……これが、一番下なのだと気付いて。

僕は……膝を折って、床に座った。



「……はぁ、もう。全く……」



泣かせたのは稚影じゃないか。

そう思い、少し眉を顰めて……僕は苦笑した。



稚影。


楠木 稚影。



もう、ここには居ないけれど……僕の心の、一番大切な所にずっと居続けている。



僕の持つ『異能』で、沢山の人を救えた。

それだけ、多くの人から感謝された。

救世主ヒーローだと、喜ばれた。


だけど、僕に助ける力を授けたのは稚影だ。

……稚影のお陰で、助ける事が出来たんだ。


鼻腔の奥では、あの時からずっと……腐臭のする血の臭いを感じている。

目の前で稚影が死んでしまった時に負った心の傷から生まれる、幻臭だ。


ずっと、ずっと忘れられない。


彼女の血の臭いと思えば……悲しくは思えても、嫌いだとは思えなかった。



自分の手を、握る。



……壁にかけられた時計を見る。

結構、時間が経ってしまったな。



そう思いながら、立ち上がる。


そして仏壇にある稚影の笑顔を見た。



彼女のいない世界で、誰かを助けるために。

僕は今も、戦い続けている。


救世主ヒーローなんて、自分には過ぎた扱いだと思うけど。


だって、僕は救えるから救ってるに過ぎない。

何も犠牲にしてない。


だから、本当の救世主ヒーローは──



全てを犠牲にして、僕に力を授けてくれた彼女の事なのだと、僕は信じている。



腐った血の、救世主。



僕は生涯、忘れない。

あの時の血の臭いも、血の味も、抱きしめた感触も。


負った心の傷を、忘れない。




この傷が、この『力』が……彼女の生きていた証なのだから。




僕は、彼女を忘れない。



ずっと、これからも。



「……そろそろ、結衣さんの所に行かないとな」



頼れる人と、親しい友人達と、愛おしい妹。

だけど、一つだけ足りない。


それでも、僕は歩き続けなければならない。

それがきっと、彼女が望んでいる……僕の姿だから。


僕は振り返り、彼女の遺影を見た。




「行ってくるよ、稚影」



亡くなった彼女の想いを、引き継げるのは僕しかいない。

僕が彼女の想いに、応えなければならない。

それが生きている人間の責務だと、僕は思う。


だから、歩き出そう。

止まってなんていられない。




靴を履いて、玄関から出れば──



「……いい天気だなぁ」



雲一つない青空が広がっていた。


太陽が、僕の行くべき道を照らしてくれている。


照り付ける光が、僕の背後に影を作っていた。


決して切り離す事の出来ない影が、僕の背中を押してくれているような気がして──


僕は、前へと歩き出した。

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