第11話 真実は痛みを伴う

救急車の位置を示す赤いポイント。

それは……隣駅を指し示している。


震える喉で、言葉を……紡ぐ。



「稚影が……どうして、そこに?」



タブレットで見せられた内容から……まるで、稚影が『肉』の『能力者』と関係があるかに連想して、僕は怯える。


違う筈だ。

だけど、何故?


どうして、あんな場所に?

どうして、僕に嘘を?


分からない。

怖い。


分からないから、怖い。



「私が楠木 稚影に関心を持った理由は……これだ」



結衣さんはベッドの側にある机から、二枚のカルテを取り出した。


それを手に持ったまま、僕へ話しかける。



「正直に言うと、昨日、啓二に首を絞められた時……死を意識していた」


「……結衣さん」


「だが、生きている。確実に首の骨を折られた筈が……何故か『軽傷』程度に落ち着いている」



僕が疑問に思っていると、結衣さんが息を深く吐いた。



「私は何らかの理由があって『能力者』に治癒された。そして、それは恐らく『肉』の能力者によって、だな」


「……それは──


「これを見ろ」



僕の言葉を遮って、結衣さんがカルテを一枚、僕に突き出した。



「これは私が入院した直後の血液検査、その結果だ」



中に書いてある文字は……結衣さんの名前は分かるけど、成分なんて見ても分からない。



「特筆すべきはここだ」



結衣さんが成分表の……『カダベリン』と『プトレシン』を指差した。



「これは生物を構成する物質が微生物に分解される過程で発生する成分だ。それが血中から常人の5倍の濃度で検出された」



僕は眉を顰める。



「これは所謂、『腐臭』の原因だ。腐った臭い……覚えがあるだろう?」


「……『肉』の『能力者』が作ってる、ゼリー状の死体?」


「そうだ」



僕は脳裏に死体を思い出して、少し気分が悪くなった。



「私は常々、あのゼリー死体が何故、こうも短時間で腐敗しているのか不思議に思っていた。だが、違う……あれは、ゼリー状に変化した所為で腐敗が急速に進行した訳ではなかった」


「……『異能』による『副産物』という事ですか?」


「そうだ。血肉の操作とは、粘土のように弄る『異能』ではなかった。肉体を分解し、再構成する能力……その分解過程で腐臭の原因となる様々な成分を発生させている」



結衣さんは僕に視線を向けた。



「つまり、奴は『異能』によって肉体操作をした場合、肉体を一度分解し……腐らせてしまう副次効果を持っている」


「……結衣さんは、大丈夫なんですか?」



その『肉』の『異能』によって治癒されたのだとしたら、結衣さんも腐って──



「問題ない……微量だったからな。人の身体は思っている以上に頑丈だ、心配するな」



ホッと胸を撫で下ろす。

そして、結衣さんがもう片方のカルテを僕に渡した。



「しかし、『異能』の痕跡は残る。肉体を操作すれば……血に残り、先程のように検査で異常な数値が弾き出される」



そこには……腐敗の原因となる成分が、結衣さんよりも多く含まれていた。

目に見えて分かる……これは、『異能』によって肉体操作をした痕跡だ。


そのカルテの作成日は、二週間前。



「先日、刺されて入院しただろう?その時に採血した血液を検査した結果だ」


「あ……」



患者の名前は──



「七課から病院へ連絡し、本人には連絡していないが……名前に覚えがあるだろう?」




『楠木 稚影』だった。




「……嘘だ」



口の中が乾く。

瞬きをするのも忘れて、目が乾く。

心が……乾く。



そんな僕を意図的に無視して、結衣さんは言葉を繋ぐ。



「先程の救急車のサイレン音から逆引きされる位置情報、血液検査で検出された不可解な数値。それは即ち、彼女自身が──


「そ、そんな訳、ないじゃないですか……!」



乱暴に立ち上がれば、僕の座っていた椅子が倒れて……大きな音を立てた。

だけど、そんな事を気にしている余裕はない。



「だって、稚影は僕の親友で、家族で、恋人で……!」


「……そうだな」


「ずっと昔から一緒だったんですよ……?連続殺人事件が起きる前から、ずっと!」



服の裾を強く、掴む。

息が荒くなる。



「だからっ──


「あの『肉』の『異能』による連続殺人事件……その最初の事件が発生する数ヶ月前に、彼女は目前で実兄を亡くしている」



結衣さんの言葉は僕の記憶を引き上げて、パズルのピースのように組み上げようとしていく。


やめろ、やめてくれ。



「交通事故による実兄の事故死、それが『異能』に目覚めたきっかけだろう」


「……違う」



そんな訳がない。

例えば『異能』に目覚めたとしても、無差別な殺人なんて……する訳がない。



「十年近く、お前の側に居ながらも隠れて人を──


「そんなの、出鱈目だ!」




僕は両手を頬に当てて、後退りする。


脳裏に彼女の笑顔と声が蘇る。


『ご飯、用意できたよ。和希』

違う。


『和希、一緒に買い物に行こ?』

違う。


『和希は、私にとっての特別だから』

違う。


『和希?』

『和希ったら……』

『和希はどうする?』

『和希』

違う、違う、違う違う違う!



「稚影は……そんな事をする人じゃない!」


「…………」



呼吸が乱れる。

極度のストレスで息切れを起こしている。


そんな僕を……結衣さんは憐れむような目で見る。



「和希……」


「なん、なんですか……?どうして、そんな事を……言うんですか?嘘だ……こんなの」



だけど、僕は気付き始めていた。


時間が経つにつれて、理解をし始めた。

理解したくなんか、ないのに。



「ありえない……だって……」



犯人は僕に執着していて、父を殺して。

殺す理由は分からなくても、僕の側でばかり起きていた因果関係に気付いてしまう。



「だって、稚影は……」



目から涙が溢れる。



「稚影は……」



目を閉じて、堪えて……脳裏に、彼女の言葉が蘇る。


『もし私が……悪い事をしたら、嫌いになる?』


あぁ、だから。

そんな事を訊いたのだろうか。



結衣さんが、口を開く。



「和希、楠木 稚影が……この連続異能殺人事件の犯人だ」


「…………」


「お前も、理解はしているだろう?」



分かってる。

だけど、分からない。


理解はしている。

だけど、納得できる筈がない。


ずっと……ずっと一緒に居たんだ。


変わらない笑顔と、優しさと……安らぎを、僕達と分かち合って来た。

彼女は……本当の父親なんかよりも、家族だ。


拳を握る。


この力も……僕が強くなろうとしたのも……家族を、彼女を守るためだ。

なのに、それなのに……。



「……和希」



結衣さんが僕の名前を呼んだ。

顔を上げて、睨み付けようとして……心配するような視線が見えた。


思わず……涙が溢れた。


苦しくて、悲しくて、情けなくて。

涙が流れた。



「和希、彼女の血液中に特異な成分が含まれていると言ったな?」


「……は、い」


「……それは、毒性があるものも含まれている」



目を、見開く。

そうだ、結衣さんはさっき言っていたじゃないか……『微量だったから、問題ない』と。


逆に言えば──



「恒常的な『異能』の行使により、血液は腐敗し……内臓が機能不全を起こす」


「え……?」


「脳にも影響を及ぼし、思考能力の低下……ストレス耐性の低下……様々な悪影響を引き起こす」


「……ぁ」



息を、呑んだ。



「楠木 稚影の内臓はボロボロだ……このままだと彼女は──




脳裏に、今日、別れる前に最後に見た……稚影の顔が、思い浮かんだ。





「死ぬぞ」






静かな病室で、時計の針が動く音だけが響く。

カチリ、カチリと針が動く。


これからも止まらず動き続ける。

そう、思っていた。


だけど──



「稚影が……死ぬ?」


「そうだ」



膝に力が入らない。

身体が震える。


僕の、日常。


それは希美がいて、稚影がいて……三人で、笑って……それで。



「……結衣、さん、僕……どう、したら?」


「………」



涙は止まらない。

何をすれば良いか分からない、


稚影は、僕を苦しめていた人殺しの『異能』犯罪者で──


その『異能』の代償に身体がボロボロになっていて死にそうなんて──


最悪な話が、二つ。


僕の心に二つの影を落として、混ざり、澱む。



「和希、お前はどうしたい?楠木 稚影を」


「……僕、が?」


「そうだ、お前がだ」


「……僕は──



笑顔と。

血と。

安らぎと。

臓物と。


今まで見てきた稚影と、今まで見てしまった腐敗した肉の死体。


彼女を恨む気持ちは……ない。

たとえ、騙されていたとしても……僕は。


僕は──



「僕は、彼女を……助け、たい……」



そうだ。

僕の願いはただ、それだけだ。


彼女が犯罪者だからとか、嘘を吐いているとか、全部、全部……そんなの、取っ払ってしまえば……。


残るのは、純粋な願いだ。

大切な人を助けたいという、願い。



「……そうか。それでこそ、私の助手だ」



ふと、結衣さんが笑った。



「和希、彼女を説得するぞ」


「説得……?」



今までずっと僕を騙して来たのに、今更、説得なんて……。



「勝算がない訳ではない。楠木 稚影は私を助けた。殺しているのも前科があるような奴ばかり……」


「…………」


「無論、許される話ではない。だが、歪んではいるが、善性がない訳ではないだろう」


「……でも」


「お前はどう思う?楠木 稚影は血も涙もない残虐な犯罪者だと思うか?」



……違う。



「和希、今まで見て来た『能力者』はどうだった?純粋な悪人だったか?」



違う。



「誰もが心に傷を負い、病んでしまった人間だ。道を踏み外してしまった普通の人間だった筈だ」



そうだ。


そうなんだ。



「和希、お前は信じろ。彼女の凶行を止めて……命も救え。それは、お前にしか出来ない事だ」



僕は、拳を握りしめた。






◇◆◇






数日後。


そう、数日後だ。

病院から帰ってきた僕は、何食わぬ顔で稚影と再会した。


問い詰めたりしない。

疑う素振りも見せない。


ただ、僕は……彼女と、いつも通りの日々を送る事にした。


それは結衣さんがまだ入院しているからだ。

僕一人では……万が一の事があればと、結衣さんの退院までは悟られないように過ごす必要があった 。


啓二さんは……目は覚めたけど、結構な重傷だったようでリハビリ中だ。

それが終わるのは数ヶ月後……待てる気がしない。


結衣さんの退院まで二週間程、僕は稚影に悟られないように生活する必要があった。


……稚影の秘密を知った翌日、希美も林間学校から帰って来た。



だから、本当にいつも通りの日常。



朝起きて、朝食を食べて。

待ち合わせしている稚影と合流して。

一緒に学校へ登校して。

授業を受けて。

また、一緒に帰って。

みんなで同じ机を囲んで。

夕食を食べて。


そんな、毎日だ。


僕が失いたくない、大切な日常。



……だけど、これは偽りの上に成り立っている物だった。



稚影。


楠木 稚影。



結衣さんが退院すれば……彼女の秘密を暴けば。

どんな結末になろうとも、きっと日常には帰って来れない。


彼女は人を殺し過ぎた。

法の裁きに例外はない。


だから……きっと、お別れだ。

長い間か、それとも一生の別れか。



希美と話して、笑う稚影を見た。



たとえ、騙されていたとしても……彼女が人殺しだったとしても……僕は彼女を愛おしいと思っていた。



だからこそ、胸が苦しくなった。



稚影は僕を苦しめる色々な事件を起こしていた……それなら。

彼女は本当に、僕の事が好きだったのだろうか。



息が荒くなりそうで……それでも、悟られないために無理矢理呑み込んだ。






◇◆◇






僕と稚影は、夕焼けに照らされた街で歩いている。


僕がビニール袋を二つ持って、稚影が一つ買い物袋をもっている。


僕と稚影、二人で買い出しに出掛けに来ていた。

その帰りだ。



「和希、重かったら言ってね?持ってあげるから」


「いいよ、全然重くないから」



……嘘だ。

醤油と酢の入ったビニール袋はかなり重かった。


だから、彼女に渡すつもりはなかった。

……彼女もこの袋が重い事は知っている。


だけど──



「……ありがとう、和希」



僕の気持ちを考慮して、納得して引き下がってくれた。

こういう時に僕が譲らないって、彼女はよく知ってるからだ。


……今でも、分からない。


彼女が何故、あんな事をしているのか。

実は全部、結衣さんが間違っていて……嘘なんじゃないかと……。

いいや、違う。


これは現実逃避なのだろう。


怖くて、僕はただ逃げているだけだ。


考える時間は沢山あって……それでも、今まで過ごして来た時間に比べれば遥かに短くて。



「……ねぇ、和希」



稚影の声が、耳に響く。

聞き慣れた声だ。



「何か、隠し事してる?」



彼女の目が僕を射抜く。

息を少し呑んで……僕は首を振った。



「いいや……してないよ」


「……そっか」



二人で夕焼けの道を歩く。


僕は彼女を疑っているとは言えない。

それは彼女に対する裏切りに等しい隠し事だ。


だけど、それ以上に……稚影は。


稚影は──



「稚影こそ、隠し事……してないか?」



声が漏れた。

言ってしまったという後悔が胸に渦巻く。


それでも、もう今更取り返す事なんか出来ない。



「あるよ、隠し事」


「……え?」


「沢山、あるかな」



ガサリ、と音が鳴った。


分かってる。

彼女の持つ布製の買い物袋では、こんな音は鳴らない。

ビニール袋が僕の動揺に震えた音だ。



「それ、は……?」



夕焼けを挟んで、僕と彼女は向き合って──



「女の子には、言えない秘密が沢山あるんだよ」



柔らかく、楽しそうに彼女は笑った。

弾む心臓の音は緩やかに落ち着いていく。


胸を撫で下ろした。



「……あ、あぁ。そっか?」


「む……?何その反応、バカにしてる?」


「してないよ……はは」


「失礼しちゃうな、希美ちゃんに告げ口するからね」



安心した。










え……?



安心、した?



彼女の嘘を暴けなくて、安心した、のか?


これから、彼女の秘密を……暴こうとしているのに?


この緩やかな茜色の日常が崩れなくて、安心した……?



そうか。


……安心したんだ。



僕の心の奥底では、彼女の秘密を暴きたくないと思っているんだ。

このまま、何もかも知らないフリをして生きていけたら良いと、そう願ってるんだ。


だけど……それは許されない。


僕には、彼女の罪も、受けるべき罰も何も分からない。


……彼女は、その身を蝕んでいる。

自らの『異能』で、身も心も腐らせている。


このまま放置すれば、いずれ──




死に、至る。




今、両手に持っている荷物を放り出して、彼女と手を繋げれば……どれだけ良いだろう。


目前を歩く彼女の髪が、夕焼けに照らされていた。

それはまるで、血のように……赤く、鮮やかに。


僕に最悪な結末を、予感させた。


それでも。


僕は──






◇◆◇






少しずつ、日々は過ぎ去っていく。

私と、和希と、希美の日常が。


ゆっくりと、ゆっくりと。


その間私は、穏やかに何もせず……ただ、普通の楠木 稚影として生きていた。


もうすぐ、夏休みが始まる。

……即ち、本編の開始直前になってしまう。


それまでに私は……。



…………どうなる?



異変が起きたのは一ヶ月前ぐらいか、自宅のトイレで血を吐き出した。

そこからは腐臭がした。


……私の能力、それは血肉を作り、操る『異能』。

その本質を、私は理解していなかった。


私の『異能』は血肉の分解と再構築だった。

分解……即ち、『腐敗』。


脳の萎縮した血管を広げたり、傷跡を隠したり、変装に使ったり……そういった事で『異能』を自分の身体に使用していた。

結果、私の体は……もう、腐ってしまっているのだろう。


血と、肉、臓物が……腐る。

私の内面は精神的にも肉体的も腐っていた。


腐った肉を元に戻す術はない。



私は、長くは生きられない。



その事に関して、悲観する想いはなかった。



数多くの命を踏み躙り、自分の目的のために進んできた。

他人の命も、自分の命も……価値は等しい。

それなら、私の命も使い潰せば良いだけだ。



ただ──



「和希と希美だけは……」



守りたい。


私が死んでも、死んだ後も……幸せに生きて欲しい。


だから──



数多くの人を助ける未来が待っている、特別な貴方に。




私の全てを、捧げたい。




先日、和希は……私を疑うような発言をしていた。


元から気付いていたが、言葉にされて自覚できた。

和希は私を疑っている。


……いや、もう、確信しているのだろう。


だけど、理性ではなく感情が邪魔をしているのか。

……和希は、優しいから。



だけど、それでも……時間の問題だろう。


私の、最後の演劇。


幕はまだ上がらない。

だけど、開演の時間は……少しずつ、近づいてきている。



それまでは……この、優しい日常という微睡みの中に溺れていたかった。


もう少し、まだ少し。


許される限り、この優しさの中で。

未来から目を逸らして。


それでも。


私は──






◇◆◇









僕はただ、この日常をずっと続けていたかった。









◇◆◇








私はただ、貴方に幸せになって欲しかった。








◇◆◇







夜、望月家。


窓の外を見れば雲が少しあるけれど、月明かりが照らしている。


夕食後、僕と稚影は二人……食器洗いをしていた。

希美は……シャワーを浴びている。



「なぁ、稚影……」


「なぁに?」



食器が水を弾く音が聞こえる。

心臓が……脈打つ。



「……少し、外で話さないか?」



声に出した。

出してしまった。



「……え?どうして?」


「ちょっと……二人っきりで話したいんだよ」



そう、声を振り絞る。

どうか、どうか断って欲しいと……誘いながら、僕はそう思っていた。



「…………」



稚影は無言で食器を洗っている。

希美のお気に入りのコップを、水切りに置いた。



「……いいよ、和希」



何気ないように、彼女が笑った。

僕は胸が締め付けられる気持ちになりながら……食器を片付ける。



「希美ちゃんにはコンビニ行ってくるって言っておくから」


「あ、あぁ」



きっと、平常心は保ってはいない。

揺れ動く心は、僕の笑顔をぎこちなくさせる。



リビングから稚影が出て行って、浴室の方から声が聞こえた。



緩む、揺らぎ、揺れ動く。

汗が溢れた。


いいや、頬を伝う、小さな涙だ。



「さ、行こっか」



稚影が僕の、手を引いた。












夜道を二人、歩く。

夏前というのもあって寒くはない。



「んー……涼しくて気持ちいいね」



夜風が身を通り過ぎる。



「ウチの中よりも涼しいな」


「まだクーラー付けてないもんね」


「夜だし、付けなくても良いだろ……別に」


「む、ケチなんだから」



二人、歩く。


歩幅を合わせて、ゆっくりと歩く。


いつもと違って……僕は彼女より、一歩先を歩いている。



「和希さぁ、どこ行くつもり?」


「……公園だよ、この時間なら人も居ないし」


「えー?人が居ない所で何するつもり?もしかして──


「べ、別に変な事はしないぞ」


「ふぅん、残念」


「……あんまり、揶揄わないでくれよ」


「どうしよっかなぁ」



稚影が両手を後ろ手に組んだ。



「和希がさ」


「……うん?」


「もう少し、頼りになるようになったら考えてあげる」


「はぁ、やめるとは言わないんだな」


「だって楽しいからね」



笑いながら、足を進める。

少しずつ、目的地を近付いていく。



「……このまま──



辿り着けなければ良いのに。

そう、思った。



「え?どうしたの、和希?」



思わず溢れた言葉に、僕は首を振る。



「ううん、何でもないよ」


「……変なの。最近、ちょっと上の空だよね?」


「……そうかな」


「どう見てもね」



公園の門を潜り……人気のない広場で、足を止める。



「……和希?」



月光が僕達を照らしている。


僕は口を開こうとして──



「…………」



声が、掠れる。


恐れているんだ、僕は。

だけど、今は……恐れるな。

怯えるな……。


この日常を全て壊してしまうとしても、稚影を……僕は、助けたいんだ。


まだ間に合う。


『異能』の副作用に身体が蝕まれていようとも、どれだけ罪を重ねていても……間に合う筈だ。

彼女には、これからも生きて欲しいから──



「稚影」


「……なに?どうしたの?」


「稚影は……」



戸惑うような稚影の表情に、胸の奥で締め付けられるような痛みが生まれた。



このまま。



このまま──



何も、知らないフリをして生きていけたら……どれだけ、幸せだろうか。




だけど、それでも……僕は──




歯を、食いしばって……言葉を連ねる。





「稚影は人を殺した事が、ある、か?」





言った、言ってしまった。

かいた汗が夜風で冷える。


稚影はまだ、困惑した表情のままだ。



「え?何?殺しって……そんな事、する訳ないでしょ?何言ってるの?」



……そうだよ、何言ってるんだよ、僕は。

もっと、足を踏み込んで彼女に訊くんだ。



「この街で発生してる、連続猟奇殺人事件って知ってる、よな?」


「……うん?知ってるけど……?」



しらを切るのが上手いのか、それとも本当は違うのか。

どうか、後者であって欲しかった。



「あの事件の犯人は……稚影、なんだろ?」



夜風が、僕と稚影の間を通り過ぎた。

ほんの少しの時間、稚影は黙った。


辺りが暗くなる。

雲が月を隠していた。



「何言ってるの?和希?」



それは戸惑いの言葉。



「……僕はもう、知ってるんだ」


「何を?分かんないよ、和希」



それは否定の言葉。



「例えば稚影が何をしてたとしても、僕が味方になるから……だから──


「待って、待ってよ!和希!」



僕の言葉を遮るように、彼女の手が僕の肩に触れた。



「稚影……」


「和希が何言ってるか分からない……だけど、そんな事言わないでよ……」



彼女は泣いていた。

悲しそうに、怖がるように。



「そもそも和希は、私がそんな事するように見えてたの……?」


「そ、それは……」


「酷いよ、和希」



……そうだ。

稚影がそんな事する訳がないんだ。

やっぱり、杞憂だったんだ。


……でも、だけど、あの証拠の数々は──



「和希」



上目遣いで、稚影が僕を見る。

思考は中断されて、意識が乱されて──

















「三文芝居はそこまでにしろ、楠木 稚影」



ざくり、と足音が背後で聞こえた。

僕は視線を、そちらに向ける。



「……結衣、さん」



既にこの公園で待ち伏せしていた結衣さんだ。

数日前に退院して、今日……彼女の説得を実行するように僕へ指示していた。


僕の役目は稚影を、この公園まで連れてくる事。

そして、説得する事だった。



「……和希?」



稚影が、僕と結衣さんを交互に見る。



「どういうこと?」



何も分からなさそうに怯えた表情を浮かべている。

そして……僕が話す前に、結衣さんが口を開いた。



「……楠木 稚影。お前にも『これ』が見える筈だ」



その右手には『剣』が握られていた。

ドクドクと、緑色の『剣』が脈打っている。



「結衣さん……!」


「和希、お前は下がっていろ」



僕と、稚影と結衣さん。

三人は三角形を作るように位置どりをしていた。



「か、和希?何の話?これ……和希が?」



怯えた様子で稚影が僕に声をかける。

胸の奥が疼く……乾いた口では、何も言葉を紡げない。



「楠木 稚影……別に、私はお前を殺すつもりはない。素直に罪を認めるなら、暴力も振るわない。だから──


「な、何を言ってるの……」



結衣さんが目を細め、眉を顰めた。



「まだ……しらを切るつもりなら、私にも考えがある」



結衣さんが、『剣』を──



構えた。



「ま、待ってください!結衣さん、まだ、話し合いを……!」



思わず、身を乗り出そうとして──



「邪魔だけはするな。そう言った筈だ」



叱責されて、足を止めた。


この作戦を実行する時……結衣さんは言っていた。

『泣いて、喚いて、何もしなくてもいい。だが、邪魔だけはするな』と。



僕はそれに頷いた。

頷いてしまった。



「か、和希……?」



稚影の目が僕を見た。


助けたい。

だけど、だけどだけど……!


結衣さんの言っている言葉は……正しかった。


僕は足が竦んで、動けなくなっていた。



「……お前の『剣』を出せ、楠木 稚影」


「『剣』って……何言ってるの?和希、分かんないよ、助けてよ!」



助け、助、う、うぐ。



「稚影……頼む、自首して欲しいんだ……」


「和希……」


「僕は、君にも、傷付いて欲しくない……」


「何で……?ひ、酷いよ……」



涙を流す稚影を見て……思わず、僕は右手に『剣』を出してしまった。


結衣さんがそれを見て、表情を歪めた。



「和希……!」


「だ、い丈夫ですよ……僕は、何も……何もしません、から……!」



歯を食いしばって、身を震わせながらも堪える。


そんな僕の様子を呆然とした表情で、稚影は見ていた。



「和希……」



そして、結衣さんが一歩、稚影に近付いた。



「最終通告だ。何か私に言う事はあるか?」


「……何で、こんな事を……するの?」


「……そうか。腹を割って話し合うつもりはないようだな」



結衣さんが『剣』を振り上げた。



「それなら──



……まさ、か。



「物理的に、腹を割ってやる」



薙ぎ払った。



「稚影っ──



僕の彼女を呼ぶ声が、無音だった公園に響いて──




ぐちゅり。





と、肉が断ち切れた音がした。










それは──









『肉』で作られた、防御壁だ。




稚影と結衣さんの間に、赤黒い壁が出来ていた。



「……っ!」



結衣さんの持つ『剣』が、血肉に阻まれて──



瞬間、後ろに飛び退いた。



風に乗って、腐臭が嗅覚を刺激した。



「あ……」



血肉で出来た壁は黒く変色し、ボロボロと崩れて消滅した。

視界を遮っていた肉壁が消えれば……そこには──



「稚、影……」



右手に『剣』を持つ、稚影の姿があった。


その顔は……無表情。

全てが抜け落ちた、何を考えてるか全く分からない表情。


その表情のまま……『剣』を握る手が、揺れ動いた。



直後、悪寒。



背筋を何か冷たいものに撫でられたかのような、幻触。


稚影の背後から赤い臓物で作られた、腸のような触手が凄まじい速度で伸びて来た。



それは結衣さんの方へ向かい──



「……っ、結衣さん!」


「分かっている!」



結衣さんが『剣』を薙いで、触手を叩き落とした。

断ち切られた臓物の触手は血を撒き散らしながら弾けた。


その血は結衣さんの服や頬に付いて、腐臭を撒き散らす。



「チッ!」



異臭に結衣さんは顔を顰めた。



……稚影に、視線を戻す。

僕と結衣さんを見ている。


瞳孔を開いて、それでも口は微かな笑みを浮かべて……僕達を観察している。


……誰、だ?

アレは誰だ?


稚影、なのか?


本当に?


あんな……顔を、するのか?


僕と希美の前で笑っていた稚影とは、あまりにも違いすぎる。

恐怖と違和感による不安で、足に力が入らない。



「……随分と手が早いな、楠木 稚影」



背後から、声が聞こえた。

結衣さんの声だ。



「貴女が先に手を出してきたんでしょ?」



稚影の声に抑揚はない。

本当に気怠そうに、そう答えた。


少しも動揺はしていないように、僕には見えた。



「それか。それもそうだな。謝ろうか?」



結衣さんは……口で呼吸している。

腐臭で鼻がやられているのか、血が鼻に詰まってしまったのか。


顔を半分以上、返り血で埋めている結衣さんは……服の袖で顔を拭った。



その様子を見て、稚影が目を細めた。



「あーあ。あの時、助けない方が良かったかな?」



僕の手に持つ『剣』が、脈打った。


咄嗟に、無意識に結衣さんの前に立った。

その瞬間、血肉で出来た燕が、稚影の影から飛びだした。


かなり速い。

右、左、上……三方向から迫ってくる。


迷っている暇はない。

剣を横に薙いで、左右の燕を叩き落として……勢いのまま、振り上げる。


視界に捉えていなかった燕を、運良く叩き落とせた。



「ふぅん、今のを防げるんだ」



無表情のまま、稚影がそう言った。



「……稚影……?」



僕は困惑しながら、声を掛ける。


本当に稚影なのかと、不安になって……僕は……。

実は別人で今、起きている事に彼女は関係していないのだと、現実逃避をしたくて。


だけど、そんな僕を嘲笑うかのように、稚影は『いつも通り』の笑みを浮かべた。



「うん、どうしたの?和希?」


「……ほん、とに……稚影が?」


「やだなぁ……見れば分かるのにね」



稚影が……あの、連続猟奇殺人事件を実行した……『肉』の『能力者』だ。

分かってはいた。

ただ、直接見ると……否定したくなる。


だけど……背後には、結衣さんがいる。


今、僕はこの現実から逃げる事は出来ない。



「稚影、身体の調子が悪いんじゃ、ないか……?その『異能』は身体に悪いんだ……だから……だから、一緒に病院に行こう」


「えー?この間、入院したばかりなのに?面倒だなぁ」



何でもないように、稚影が笑う。

彼女の『剣』先が地面に触れる。


ガリガリと火花を散らして──




僕の『剣』が脈打った。




刹那、稚影が『剣』を地面に走らせた。

その軌道を血がなぞり、孤を描く。

そして、それは刃へと形を変え……『剣』を振るった衝撃で弾き出された。


血の斬撃が宙を引き裂き、飛来する。



不意打ちだ。



だけど、僕は既に『剣』を構えていて──



『剣』が脈打つ。



「くっ!」



違う!

これは防いだらダメだ!

肉のように『剣』で防げる物じゃない!


刃の形を作っているけど、斬撃ではない。

アレは血……液体だ。

目的は僕の身体を傷付ける攻撃ではなく、血に触れさせる事だ。


構えていた『剣』で地面を叩いて、無理矢理、側面に転がる。



「うぐっ」



咄嗟の回避だったから、受け身も取れない。

生身の体で地面に身を叩きつければ、痛むのは当然だ。


血の刃は宙で交差し弾け飛んだ。

転がった僕の足元にまで、血が付着している。



「へぇ、よく避けたね?」



稚影が薄く笑いながら、僕に視線を追従させる。



血……何故、血を……かけようとしたんだ?

……肉体操作の、足掛けだ。


少しでも生身に付着すれば、あの時のように……今度は僕が爆ぜて死ぬ?


いや、それ以前に──



「結衣さん!」



結衣さんは顔に大量に血が付着していた。

心配になって振り返ると……蹲っている。



「……ぅ、ぐ……」



小さく、苦しそうに呻き声を漏らしている。


ダメだ、間違いなく……あの血に触れれば、稚影の『異能』に肉体を操作される。


結衣さんから目を逸らして、正面にいる稚影へと視線を戻す。



「稚影……今すぐ、やめてくれ……!」


「……どうしようかなぁ?」



稚影が『剣』を持ち上げた。

右手で柄を持ち、左手で『剣』の刃を撫でる。


そして、一際強く脈打ち……背後で物音がした。



「ぐ、うあ、あぁ……!」



結衣さんの苦しむ声が聞こえる。



「やめてあーげないってね」



可愛らしく、冗談でも言うかのように口にした。

また、胸の奥が締め付けられるような痛みが走った。



「稚影……!」


「ほら、和希?どうすれば良いか分かるでしょ?」



どうすれば良いか……稚影は、『異能』の行使を止めない。

このままでは結衣さんは……死ぬ、のだろうか。


それなら、無理矢理に止めるしかない。

意識を失わせるか──



「さぁ、和希。殺し合いをしよっか」



殺すか。



稚影を……殺す?



手が、震える。

『剣』が音を鳴らした。



「うーん、少しイメチェンしようかな?」



稚影が『剣』を水平に構える。

そして『異能』が行使されて、『剣』が肉に覆われる。


『剣』を核にして、臓物で作られた『大剣』へと姿を変える。

柄には大きな人の目玉が並び、無造作に視線をバラつかせた。



「ふふ、良い出来。悪役が持つに相応しい『剣』って感じじゃない?」



キー、キー、と甲高い音が聞こえる。

肉で作った『大剣』に小さな口が付いていた。

そこから漏れる奇声だ。


生理的悪寒が走る見た目。

だが、見た目だけじゃない。


元々、稚影の『異能』は作り出した血肉で触れさせたら、相手の肉体を操作できる……つまり、触れれば即死の異能だ。


『異能』に重さが存在しない関係上、『剣』よりも面積が大きい『大剣』の方が強力だ。


あれは……見た目だけの、遊びじゃない。

合理的に僕を殺すために作った『大剣』だ。



「ほら……和希、『剣』を構えなよ」



構えろ……と、そう言われる前から、僕は『剣』は構えている。


しかし、稚影が言っているのは物理的な話ではないのだろう。

精神的な話だ。


戦う意志を……いや、殺し合う意識を見せろと、そう言っているんだ。



「……拍子抜けだなぁ。後ろの女が死んでも良いのかな?薄情だね」


「……っ」


「おっと……ふふ、少し良い顔になった」



稚影が『大剣』を構えて──



薙ぎ払った。



空を引き裂き、僕の持つ『剣』の2倍はある『大剣』が迫る。


僕は『剣』をぶつけて、勢いを相殺する。

『剣』は肉に阻まれて、核になっている彼女の『剣』と接触しない。


『剣』と『剣』が触れ合った時に発生する、意識の混濁は発生しない。


だけど、だからこそ……稚影が、どんな感情で『剣』を握っているのか……分からない。


『剣』で押し込まれる。



「ぐっ」



筋力だけなら、稚影より僕の方が優れている筈だ。

足りてないのは……稚影を傷付けるという、覚悟だ。



「ほら、和希。殺す気で来ないと死んじゃうよ?」


「稚影、なんで……」



何故、どうして。

こんな事をするのか。


殺し合わなければならないのか。

まだ何も、話し合っていないのに。



「…………ふーん?」



稚影が何かに納得したように、僕の剣を弾いた。

弾かれてしまった。



「……あっ」



無防備だ。

僕は今、特大の隙を晒している。


拙い。



思わず、息を呑む……しかし、追撃はなかった。

稚影は後ろに飛び退いて、こちらを観察している。


安堵と共に、疲労で息を吐き出す。



「……っ、はぁ、はぁ」



体勢を、立て直す。

極度のストレス下で身体を動かした結果、普段の数十倍は疲れやすくなっている……のだろう。



「拍子抜けかなぁ」


「稚影、頼む……もう、やめてくれ」


「どうしよっかな?」



稚影が困ったような顔をして、手を顎に当てた。


あの顔は……よく知っている。

晩御飯の献立に迷っている時と、同じ顔だ。


涙が溢れそうになる。

だけど、今は泣けない。

泣いたら、視界が歪み……彼女の攻撃を受け止められなくなる。


目に痒みが……。



「……あれ?」



稚影が目を瞬かせた。


目が、痒い。

鼻の奥が痛い。


それはきっと、稚影にも起こっている現象だ。



「楠木、稚影……」



背後で結衣さんが立ち上がり、か細い声を振り絞った。

稚影は眉を顰めた。



「死に損ない、なのに……何したの?」


「お前が、肉の能力を使うのは知っていた……」



稚影の『剣』を覆っている肉が軋む。

『剣』に並ぶ口から聞こえる悲鳴が響く。

目から大量の血の涙を流す。


そして泡立ち、形を保てなくなり……溶けた。



「……なるほど。催涙剤かな?」



稚影が少しも不安を見せず、そう言った。



「そうだ……市販の物だが、中々どうして効くものだな」



公園の芝生に水を散布するためのスプリンクラーが回転している。


結衣さんが苦しそうに眉を顰めながら、笑った。



「濃度はかなり薄めているが……剥き出しの内臓には効くだろう?」



結衣さんは万が一、説得に失敗した時のために準備をしていた。

それが、公園内のスプリンクラーに細工し、催涙剤を混ぜる事だった。


『肉』の異能に皮膚はない。

剥き出しの臓物に、催涙剤はかなりの刺激になる。



稚影が眉を顰めた。



「……ふーん?何も考えずに来た訳じゃないんだ」


「当然、だ……」


「やっぱり助けるんじゃなかったなぁ」



稚影が頬を緩めて、笑った。

そして、その言葉に結衣さんが眉を顰めた。



「……そもそも、お前の目的は何だ?」


「目的?」



稚影が目を瞬かせる。



「そうだ。何故、人を殺す……和希を傷付けようとする……私を、何故助けた?」


「一度に沢山訊かないでよ、もう……だけど、そうだなぁ──



稚影が僕を一瞥した。

何を考えているかは分からないけど、僕を見て仄かに笑った。



「何でだろうね?」



そのまま稚影が数歩、後ろに下がった。



「……もう一つ、お前の持っている知識についてだ」


「知識?」



稚影が眉を顰める。

僕は……『剣』を握りながら、何も出来ずにいた。


そんな僕を、結衣さんは一瞥した。



「お前、和希が『異能』に目覚める事を知っていたな?」


「……偶々だよ?」


「いいや、そんな訳がない……恐らく、お前の目的は──



その瞬間、稚影の『剣』が脈打ち、光った。



「ぐ、あっ!?」


「結衣さん!?」



結衣さんが血を吐いて、地面に転がった。

泡状になった血液が口から溢れている。



「調子に乗りすぎだよ。主導権を握ってるのは、私……貴女じゃない」



稚影に視線を戻せば……見下すような顔で結衣さんを見ていた。


底冷えのする目で薄く、稚影が笑った。



「催涙剤を使ったのは賢かったね。確かに細かな制御は難しくなったし……さっきみたいな攻撃は出来なくなっちゃった。でも──



息を、深く吐いた。



「大気に触れなければ問題ないし?既に貴女の肉体は私の支配下にあるから……殺すのだって、容易く──



また、稚影の『剣』が脈打って──


僕は稚影に『剣』を向ける。


守らなきゃ、守らないと……結衣さんを、僕が。

戦うんだ、僕が。


稚影を、僕が……!

僕が……!



「……和希、そんなので私と戦えるつもり?」



『剣』先が震える。


情けない。

何なんだ、僕は。

覚悟はしてきた筈だろ?

それなのに、今更怯えて……こうして、結衣さんを危険に晒している。



「ぁ…………」



背後で呻く声が聞こえなくなった。

結衣、さん……?


振り返る。

目を閉じて……倒れている。


微動だに……しない。



「結衣さん!」



近寄ってしゃがみ込み、結衣さんの首元に触れる。

……呼吸は、している。


だけど、気は失っているようだ。

体の中がどんな状況かは分からない。


それでも、稚影の『異能』によるダメージが原因なのは明らかだ。



「ほら、和希……はやく私を止めないと」



そう朗らかに声をかけられる。

結衣さんから手を離して……稚影を見る。


睨みつけようとして……。

稚影の顔を見て……。

怒りよりも、悲しさを感じてしまった。


闘争心よりも、悲哀が勝ってしまう。


震える膝で立ち上がる。

震える腕で『剣』を握る。

滲む視界で僕は稚影を見る。



「稚影……」


「うん?」


「僕は……君を、傷付けたくない……」


「そっか」



稚影が『剣』を構えて、口を開いた。



「それなら、死んでもらおうかな?」



膝から崩れそうだ。

今すぐ泣き言を口にして蹲りたい。



「……僕が、君を止める……これ以上、もう、悪い事をしなくて済むように……」



だけど、僕は逃げられない。

逃げたくても、今は逃げられない。


僕が止めるんだ。

後ろで傷付いている結衣さんの為にも。

目の前にいる稚影の為にも。


僕は彼女を助けると誓ったんだ。

だから、助けなければならない。


覚悟をして、足を一歩、前に進める。

震えは治らない。

それでも、地面を踏み締める。


『剣』を握る力を強める。


苦しくても、悲しくても……それでも、今、僕がすべき事は──



「……うん、和希は優しいね」



稚影がそう言った。

言葉は嬉しそうなのに、表情も声色も……凄く、悲しそうだった。



……稚影は、何故、こんな事をしているのだろうか。

今、何を考えているのだろう。

分からない、知りたい。


もう、怖くはない。


悲しくても、怖くはない。



「稚影……!」


「でもガッカリしたよ、和希」



悔しそうに、悲しそうな言葉を投げながら……ほんの少し、彼女の頬は緩んでいた。

穏やかに、笑って──


僕の持つ『剣』が脈打った。


咄嗟に、結衣さんの前に立って……庇う。


稚影は『剣』を構えたまま……その場で何もしていなかった。

いや、何かをしようとしていたけど……僕の所為で出来なくなった、のだろうか?



「ここは少し引かせて貰おうかな?」


「逃げ──


「逃げる?見逃してあげてるんだよ。今すぐ……その女を殺しても良いんだから」



……今は結衣さんが人質に取られている状況、という事だ。

催涙剤で稚影の『異能』を抑制しても、結衣さんに付着した血は取り除けない。



「すぐに病院に連れて行けば、後遺症も残らないよ」


「稚影……」


「だから、私を追おうとしないでね」



稚影が数歩、後ろに下がった。

思わず……手を、伸ばしそうになる、



「稚影……行かないでくれ……」


「ううん、大丈夫。すぐにまた会えるから」



笑いながら、稚影が僕に背を向けた。



「またね、和希」



そして、離れて行く。

僕と結衣さんから……離れて行く。


追いかけようとして……足元の結衣さんを見る。

今すぐ病院に連れて行けば、後遺症も残らない。


そう言った。


僕は懐から携帯電話を取り出して……救急にコールする。



数度のコールの後……僕は現在地を話して、結衣さんを抱き抱える。

思っていたよりも軽い体重に戸惑いつつ、僕は──



「和、希……」


「結衣さん!」



結衣さんが苦しそうに咳込みながらも、目を覚ました。

顔にかかっていた血が消滅し、顔が顕になった。


……稚影が『異能』による干渉をやめたのだろうか?

『異能』の範囲外まで逃げられたのか、それとも……意図的に解除したのか。


分からないけど、そんな些細な事はどうでも良かった。



「結衣さん、救急車をもう呼びましたから、直ぐに──


「楠木、稚影は……?」


「……逃げられました。でも、今はそんな事より──


「追え……和希」



結衣さんが目を細く開きながら、焦点の定まっていない視点で僕に言った。



「でも、結衣さんが……」


「捨ておけ……救急車はもう、呼んだんだろう?」


「だけど──


「私を、足手纏いに、するな……」



結衣さんが、眉を顰めた。

僕の腕の中で血を吐きながら、それでも気丈に振る舞っている。



「行け」


「……結衣さん」


「お前の、やるべき事を……最優先にしろ……」



そう言い切って……限界だったのか、白目を剥いて力を失った。



「…………」



僕は……稚影の去って行った方向を見る。

そして、結衣さんを見る。



「……すみません」



謝って……結衣さんを芝生の上まで運び、寝かせる。



「……それと、ありがとうございます」



迷った時、いつも彼女が一押ししてくれた。

道が分からなくなった時、教えてくれた。

……本当に、尊敬している。


だから、ここに置き去りにする事に、酷く胸を痛める。

目を閉じて、涙を溢して……それでも、結衣さんが望んでいる事だからと……僕は立ち上がった。


救急隊員に場所の説明はしている。

僕がここに居ても……何の役にも立たない事は分かっている。


だけど。


だから。


それでも。


僕は結衣さんに背を向けて……走り出す。



公園を出て、見渡す。

稚影の姿はもうない。


どこに逃げたのかも、全く分からない。

だけど、足は止められない。


『剣』が脈打つ。


僕の『異能』が運を良くするというのなら、僕の行く道を決めてくれ。

どこに逃げたのか分からなくても、導いてくれ。


迷いなく、僕は走り出した。



「はっ、はっ……」



息を切らしながら、走る。



いつもの街並み。


月は雲に隠れて、暗闇だとしても。


街灯に照らされる、いつもの街並みだ。


ここは僕と稚影、希美の三人で、よく買い物に来ていた商店街だ。


ここの本屋で、稚影は希美に料理本を買わされていたな。


小さかった頃、希美の誕生日に、稚影がラメの入ったカラーペンを買っていた文房具店もある。



「はぁっ、はっ……」



ここの肉屋のコロッケが、稚影は好きだった。

いつも通ると三つ買っていた。

僕と稚影と、希美の分だ。



「はぁ……はぁ……」



苦しい。


息も、心も。


だけど、足は止めない。



「……く、ぅっ」



ここの呉服店で、希美は裁縫道具を買っていた。

お世辞にも裕福とは言えない僕達は、服のボタンが外れれば自力で直していた。


稚影は……あまり、得意ではなかったから、僕や希美が直してあげていた。


直すと、嬉しそうに「ありがとう」と言ってくれた。

それだけで僕は、報われていた。



「……ぅ……うぅ」



涙が溢れて、息を吐き出して……足取りが重くなる。



それでも足は止められない。



優しい記憶と、突き付けられた現実。

真実という名前の痛みが心を傷つける。


今まで見てきた事、触れ合った思い出、恋、愛。


全て、儚く……ひび割れる。


それでも壊れはしない。


たとえ、稚影が僕達をどう思っていたとしても……僕はまだ、稚影の事が好きだ。


家族として、親友として、恋人として。


好きだ。


だからこそ、止まれない。



他の誰かではなくて、僕が……僕が彼女を助けなければならない。



「はぁ……はぁ……」



汗を掻きながら、僕は歩み続ける。



何分か、何時間か……『剣』に従うまま走り続けても……稚影に追い付く事はない。


彼女はきっと『異能』を使って移動している。

催涙剤の影響がなくなった今、僕の『異能』では彼女に追いつけないのかも知れない。


だけど、走って、走って……。


そして──







僕の、僕達の……望月家に、帰ってきた。



「……え?」



何で、ここに?


僕はただ『剣』に導かれて、辿り着いただけで──



怖気。


恐怖が、胸を締め付ける。



『剣』を握ったまま、玄関のドアを開く。

鍵は掛かっていなかった。


いつも通りの玄関。

リビングに明かりが灯っている。



「希美……!」



ドアを開けて……中を、見る。


点いたままのテレビ。

倒れた椅子。


開いたままの、窓。



「……あ、あぁ……?」



希美は?

どこに居るんだ?


家にいる筈、なのに。


何で椅子が倒れたまま何だ?


テレビもつけっぱなしで……。



僕は携帯電話を取り出して、希美にかける。



まさか、稚影が……?

いや、そんな筈はない。


稚影は希美と親友だ。

傷付ける事はない。


……そう、信じたかった。

だけど、今は……違う、のか?


汗が流れる。

呼吸が乱れる。


早く。


早く出てくれ。


そして無事だと、そう言ってくれ。






数回のコールの後、通話が開始した。





「希美……!今、どこに──


「もしもし、和希?」




その声は、希美ではなく……稚影だった。

何故、どうして……脳裏に最悪な予測が過ぎる。



「稚、影……」


「うん、そうだよ?」



何でもないように答える声に、僕は初めて……怒りを抱いた。



「希美は、何処にいるんだ……!?」


「ふふ、安心しなよ」



笑い声が聞こえる。

携帯電話を握る力が、強まる。



「安心なんか、出来るか……!」


「ひどいなぁ、信用とかないの?」



……のらり、くらりと話す稚影に苛立つ。



「希美はっ──


「ここの近くに廃工場があるよね?」



言葉を遮られる。


廃工場……?


あぁ、子供の頃に一度だけ外から見たことがある。

立ち入り禁止になったまま、十年以上放置されている廃工場だ。



「そこに来たら、返してあげる」


「……稚影……お前……」


「お前?そんな言い方しちゃうんだ?」



思わず溢れた言葉に、稚影はまるでショックだと言わんばかりの声色で答えた。

僕は……眉を顰める。



「希美を、希美は……関係ないだろ!?傷つけないでくれ……頼む……から」


「うーん、どうしようかな?まぁ、早く来なよ。私の気が変わらない内にね」


「稚影……!」



プツリと通話が切れた。


僕は……携帯電話の画面を見る。


僕と希美と稚影、三人で撮った写真が……ホーム画面に映っていた。


どうして、こんな……こんな事になってしまったのだろうか。

堪えていた涙が溢れ出す。



「ぅ、くっ、うぅ……」



嗚咽を漏らして、蹲る。


こんな事をしている場合じゃないのに。


僕は……辛くて、悲しくて、蹲っていた。


外では暗闇が広がっている。

月は雲に隠れて顔を出さない。

月光は……僕の行くべき道を、照らしてはくれなかった。






◇◆◇






廃工場……大きな倉庫の側にある廃墟の二階。

待合室。

私は自分の爪にマニキュアを塗る。


机に置いた携帯電話……それは希美の携帯電話だ。

その持ち主は何処にいるか……それは……背後。


希美が壁にもたれ掛かり、気を失っていた。

通販で買った金属製の手錠を使って、腕を鉄パイプと繋ぎ拘束している。


『能力者』ではない彼女なら、逃れる事は出来ないだろう。


今は私の『異能』によって眠っているけれど──



「ん、く……」



……おっと、お目覚めのようだ。


希美が細目で……辺りを見渡す。

といっても、ひび割れたコンクリート壁と、くたびれた机しかないような部屋だけど。



「稚、影ちゃん……?」


「おはよう、希美ちゃん。良い夢は見れた?」



努めて笑顔を繕いながら、笑いかける。


巻き込むつもりはなかった。


だけど、彼女は『鍵』だ。

この私の演劇の……『鍵』。



「ここ……は?」


「家の近くに廃墟があったでしょ?そこだよ」


「……そ、っか」



戸惑うような表情で、希美が私を見る。


既に……家から連れ去る前に、私が連続猟奇殺人事件の犯人だと告げている。

抵抗すれば殺すとも……口にした。


なのに──


怯えるような目をしていない。



「……稚影ちゃん」


「何?座り心地が悪いかな?でも我慢を──


「大、丈夫……?」



寧ろ、心配するような言葉を掛けてきた。

思わず、マニキュアを塗る手を……止めた。



「何を言ってるのかな?」


「だって……凄く……辛そう……」



呆れる。

彼女は現状が分かっていないらしい。



「希美ちゃん、忘れちゃったのかな?私は貴女の父親を殺した人間で、今まで沢山の人を──


「それでも……私は、心配……だから」



希美の視線が、私の視線と交わる。

……ダメだ。


そんな目で見られたら……私は……私の決心が、揺らいでしまう。



「バカだなぁ、希美ちゃんは」



そう言って、顔を近づける。


もっと露悪的に、彼女が怯えるように、悪役に相応しい振る舞いを。

心の中で叫びながらも、笑みは崩さない。


手を伸ばせば触れられる距離まで来て……それでも、希美は視線を逸さなかった。



「私……バカでも良いよ」


「え?」


「稚影ちゃんが、どれだけ……悪い人でも、それでも私は……心配だから」



私は──



「…………」



絶句した。

言葉が出なかった。


ただの一般人である彼女が、こんな……こんなに強気に振る舞えるなんて、思ってもなかった。



「稚影ちゃん、戻って来てよ……」



緩みそうになる口を食いしばって、眉を顰める。



「私、私……ちゃんと、頑張るから……何、しても良いから……お願い、稚影ちゃん」



何の事情も知らないのに、それでも希美は……裏切られても、私を心配していた。


私の今から行おうとしている事は……希美や、和希の為にはならないんじゃないか。


そう、思ってしまった。



「…………」



これが正しかったのだろうか。

私は間違ってしまったのだろうか。


……いいや、間違っているのだとしたら、今、初めてじゃない。


ずっと昔から、間違っていたのだろう。



「……まいったなぁ」



今更、気付くなんて。

だけどもう、手遅れだ。


もう戻れない。


血と臓物が並べられた真っ赤なカーペットを、私は歩くしかない。


腐った血と、臓物で出来た、出来損ないの人形として……舞台に立つしかない。


それだけが、私が報いる事が出来る唯一の方法だ。


だから──



「希美ちゃん」



右手に『剣』を生み出す。

希美はその『剣』を見る事は出来ない。


不可解な表情をして、私を見ていて──



「ごめんね」



ザクリ、と肉が……骨が、断ち切れる音が、聞こえた。



私はもう迷わない。



最後の舞台、その幕が……上がろうとしていた。


主演は和希。

悪役は……私だ。


希美の出番は……どこにもない。

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