第10話 目を開けたまま見る夢

最近、病院によく来ている気がする。

そして、それは気の所為じゃない。


二週間前は稚影。


今日は──



「……結衣さん」



ベッドで横たわる、結衣さんの姿があった。

いつも厳しそうな表情を浮かべる顔は、穏やかに……安らかな眠りを、享受していた。


片腕に点滴、そして何かの機器が繋がれている。


死んではいない。


生きている。


だけど、目を覚まさない。



「……これ、置いて行きますから。早く起きて……下さいね」



買ってきた果物を机に置いて……僕はまた、結衣さんを見下ろした。

いつも、僕を叱咤する声は聞こえず……見た事もないほど、弱々しい表情を浮かべている。



だから──



「……あ、れ?」



思わず、涙が溢れた。


不安で、怖くて。


もう目が覚めないかも、なんて。


そんな事はない筈だと信じていても。


ほんの少しの心の翳りが渦巻いて。



「……ぅく」



手で拭っても、涙は止まらない。


拭って、溢れて、拭って、溢れて。


どうして、こんな事になってしまったのかと……僕は、泣いていた。






◇◆◇






今日の早朝。


病院から、結衣さんと啓二さんが搬送された事を伝えられた。


僕は慌てて病院へ向かって……二人の症状を医者から訊いた。


啓二さんは……体内から出血していて、目や鼻から血を流して倒れていたらしい。

結衣さんは……首の骨を捻挫して、酸欠の症状。


共に低体温症で、一時は命の危機もあったらしい。


……昨日の深夜、都内の公園で横たわっていると通報されて、搬送されたらしい。



そしてまだ、二人とも意識を取り戻してはいない。



……間違いなく、『異能』による事件だ。

昨日、結衣さんに説明された『操られていた人』の症状が啓二さんに出ている。

結衣さんは操られた啓二さんに、首を絞められた……の、だろうか。


それはなんて……酷い。

卑劣だ。


悲しみと共に、怒りで心の中が煮立っていた。


そして、何よりも……そんな事する奴がまだ、この街で野放しになっている事が許せなかった。


……だけど。


僕一人では……犯人は捕まえられない。

警察が見つけられないのに、僕に見つけられる訳がない。

……啓二さんが居なければ、事件現場に入る事すら出来ないのだから。



感情を向ける先すら見つけられない。

結局、誰かに頼らなければ……何も成し遂げる事ができない。



僕は、無力だ。






◇◆◇






病院から帰って来て、自宅の前に立っている。


希美はもう、学校に行っただろう。

一年は今日から林間学校という学校の行事で、一泊二日、同級生達と山籠りみたいなレジャーをさせられる。


今朝、着替えの入った大きな鞄を持った希美に、結衣さんや啓二さんが入院した事は告げなかった。


余計な心配をさせたくなかったからだ。


僕は自宅に泊まりに来ていた稚影と、朝の支度をしている希美を置いて病院へ向かったんだ。

探偵事務所のアルバイトで、早朝から用事があると嘘を吐いた。


……だから、僕のいない間に希美は林間学校へ向かい、稚影も学校に行っている。



筈なんだ。



「…………あれ?」



鍵を差し込んでから、違和感に気付いた。

……開いてる。


最後に家を出るのは……時間的に稚影か?

林間学校は早朝から、学校前のバス停の集合だった筈だ。


通常の学校がある稚影が一番遅い。

そして、既に一限の授業時刻は1時間も過ぎている。


……だから、誰もいない筈で。



稚影は望月家の合鍵を渡しているから、鍵を閉められない訳でもない筈だ。


それなら、何故?


……締め忘れ、だろうか。



それとも──



「…………」



呼吸を顰めて、右手に『剣』を呼び出す。

ドアノブに手をかけて、ゆっくりと開ける。


何も変わった様子のない玄関に、少し安堵して……そのまま奥へ入っていく。


リビングのドアを開いて──



「あ……おかえり、和希」



……ソファに座って、テレビを見ている稚影が居た。


深く息を吐いて、右手に握っていた『剣』を消した。



「稚影、もう登校時間はとっくに過ぎてる筈だと思うけど……」


「ん?和希と一緒だよ」


「僕と?」



稚影がソファの背もたれに、体重を乗せた。



「うん、今日はちょっと休もうかなって」


「……何で?」


「希美ちゃんに頼まれちゃったからね」



伸びをしながら、稚影がソファから立ち上がった。

僕の側に擦り寄って来て……彼女の顔が僕の肩にぶつかりかけた。



「えっと……何を?」


「慰めてあげてねって……希美ちゃん、心配してたよ?」



その言葉に、少し怯んだ。

希美には、何も言っていなかった筈なのに……それでも、僕の表情か、態度から何か良くない事が起きたのだと察したのだろう。


稚影が少し、真剣な表情をして僕を見た。



「ねぇ、何があったの?」


「それは……」


「教えて?」



有無を言わせぬ態度に後退りして──



「実は、昨日さ──



僕は、結衣さんと啓二さんの話をした。

二人が意識不明で病院に搬送された事、そしてそれを心配している事を。


稚影は眉尻を下げながら、頷いた。



「……そっか」


「あぁ……でも、生きてて……良かったよ。本当に」



そう、締め括る。


そうだ。

結衣さんも啓二さんも生きている。

だから、まだ最悪の事態ではなかった。

それだけは僕の中で救いになったんだ。



「まだ意識は戻ってないんだよね?」


「あぁ、うん……そうだよ」


「……そっか」



直後、稚影が立ち上がった。


昔は僕と身長は変わらなかった筈なのに、高校生になった頃ぐらいから……僕と彼女の間には15センチ程の身長差が出来ていた。



「ねぇ、和希──



だから、稚影は僕の顔を見る時、少し上目遣いになる。



「デート、しよっか?」



そう、提案された。



「デ、デート?」


「そ。だからさ、そんな辛気臭い顔をやめて……ね?」



稚影が僕の頬に手を伸ばし……触れた。

柔らかくて、少し冷たくて。

思わず、少し身を引いてしまった。



「が、学校サボってデートなんて……」


「別に良いじゃん?悪い事しようよ」



ほんの少しの抵抗も振り払われて──



「それに……和希には今、必要だからね」



そう言われると……僕は黙るしかない。

正直に言うと、僕は今、落ち込んでいる。

メンタルがぐちゃぐちゃだ。


恩人も尊敬する人も昏睡していて、犯罪者は野放しで、僕は無力で……。


そんな僕を慰めてくれようとしているのだから、僕が否定するのは違うと思ったんだ。


だから──



「……何処に行く?」



と、訊き返す。


僕の返答に稚影が嬉しそうに笑って、僕は少し照れて視線を逸らした。



「どこでも良いけど……水族館が良いかな?」


「水族館?」


「ほら、最近出来たでしょ?」



あぁ、そう言えば……ここから二駅離れた所に水族館が出来たんだっけ?

広告だったかがポストに投函されていたのを、机に置いていたら……稚影が読んでいるのを見たな。


そっか、行きたかったのか。



「じゃあ、そこで……ちょっと、着替えてくる」


「うん、待ってるから」



小さく微笑んだ稚影を見て、胸の中で絡み合った不安の糸が……少し、解れた気がした。






◇◆◇






大きなガラスを隔てて、大きな魚が視界を横切った。

縦にも横にも、あまりにも巨大な水槽に僕は息を呑んだ。



「来てよかったね」



薄暗い展示室で稚影が笑った。

彼女は背を水槽に向けて、僕の顔を見ていた。


彼女の背後でエイが通り過ぎた。



「……確かに、凄いな」



大きな影が、生命が目前を泳ぐ。

……こうして見てると、僕の悩みなんか小さい物のような気がしてくる。



「ね?人も少なくて空いてるし」



平日の昼間だからか、人影はない。

広い展示室の中にいるは僕と、稚影だけだ。


電飾が彼女の髪を照らしていた。

両手を組んで、後ろに回して……僕の側に擦り寄ってきた。


僕のパーソナルスペースに踏み込んでくる。

だけど、それでも……少しも、不快じゃなかった。


吐息の音すら聞こえてしまうような距離感で……心臓が早鐘のように鳴り響く。

稚影に聞こえてしまうんじゃないかと杞憂して、余計に高鳴る。



「……さ、次行こうよ。イルカもペンギンも見たいから」


「あ、うん」



言葉を掛けられて、そっと視線を稚影に向ける。

楽しそうに笑っている。

彼女が楽しければ、僕も嬉しくなる。


頬が、緩む。



「そう言えばここ、カワウソの握手会とかあるらしいよ?」


「……全部回るには時間が足りなくないか?」


「え?それじゃあ少し、急がないと」



稚影が手を伸ばして、僕の手を握った。

思わず、僕は少し硬直して──



「…………和希?」



稚影はそんな僕を見た。

ほんの少しの縋るような視線に気付いて──


僕は手を握り返した。


そうだ。

僕と稚影は恋人なのだから、何も恥ずかしくない。

当然なんだ。


稚影は目を細めて、嬉しそうに笑った。



「……さ、行こっか」



稚影に手を引かれて、僕は足を進める。


彼女が先導して、僕の歩む先を指し示す。

それに僕はついて行く。



それは、なされるがまま……。



煌びやかな電飾に彩られた水槽が作り出す、綺麗な景色を通り過ぎて、進んでいく。


今日の出来事を、僕は忘れないだろう。


積み重なっていく綺麗な景色も。

稚影の笑顔も。

僕の胸にある恋心も。


だけど、少しずつ、僕と稚影は出口へと近付いている。


この景色は、永遠に続く訳じゃない。


駆け足で、だけど時々足を止めて。


少しずつ、出口へと近づいていく。






◇◆◇






「楽しかったね」


「……そうだな」



空は茜色に染まっていた。


水族館でのデートを終えた僕達は、夕焼けの中、帰路を歩いていた。



「……ちょっとさ、寄り道してもいい?」



稚影がそう言って……僕の返事を聞かず、帰路からズレた。


そして、僕の方へ振り返った。



「そんなに遠くないなら」


「うん、本当に『ちょっと』だから」



彼女の歩く方向についていく。

坂道を登って……普段の、学校からの帰り道に合流した。


何処に行こうとしているのか、不思議に思いながらついて行く。



夕焼けが照らす坂道を登って、稚影はそこで立ち止まった。


……高台だ。


学校の帰り道の途中にある、ベンチぐらいしか置いていない高台。



思わず、稚影に声を掛ける。



「来たかったのって……ここか?」


「そうだよ」



稚影が石で組まれた柵に手を置いた。

夕焼けが、彼女を背後から照らした。


綺麗だった。

景色も、彼女も。


まるで、映画のワンシーンを切り取ったかのような──



「和希、私ね……」



稚影が、口を開いた。



「この景色が好き」


「……ここが?」



僕は稚影と並ぶ。

毎日通っている道だ。


見慣れた景色だ。



「和希がいて、希美ちゃんもいる……ここの景色が好き」



その言葉に……僕も頷いた。


そんな僕を見て、稚影は満足そうに笑った。



「何気ない、何もない毎日かも知れないけど……私は大好き」



彼女は目を閉じて、想いに耽っているようだった。


ゆっくりと石の柵を撫でながら、彼女が移動する。



「二人が笑ってれば、私は幸せ……」



表情は、夕焼けの逆光で見えなかった。



「だからさ、和希に笑って欲しいから……」



そして、ゆっくりと僕へ近づいて……抱きしめられた。



「稚影……」


「辛かったら、悲しかったら……今は、泣いてもいいんだよ」



その言葉に戸惑う。



「私達を心配させないように、和希が強く振る舞ってるのは分かってるから」


「そんな事は……」


「あるよ」



彼女の吐息が頬に掛かった。



「泣いても良いし、愚痴だって聞いてあげる」


「稚影……」


「だから、最後には笑っていて欲しい」



抱きしめる力が強くなる。


それと同時に、僕の涙腺は緩んだ。



「あ……」



涙が溢れて、稚影の服に……。



「いいよ、気にしないから」



そういって、優しく頬を撫でられた。



「……ごめん、稚影」



誰かが傷付けられる悲しみ。

日常が壊されるかも知れない不安。

大切な人を失う恐怖。


僕の中に溜まっていた負の感情がボロボロと溢れる。



「僕は……」



こんな姿、見せるつもりはなかったのに──



「大丈夫、大丈夫だから」



稚影に抱きしめられて、僕も彼女を抱きしめ返す。


僕は彼女が好きだ。

その優しさも、思慮深さも、強さも、全て。


そして、僕に向けてくれている好意も。



「和希は……私にとっての、特別、だから」



知っているつもりだった。

彼女の魅力について……知っているつもりだったんだ。


好きなんだ。


だけど、もっと好きになれる。

これまでも、これからも。


今、この瞬間も。



「稚影……僕も、稚影の事が──



これ以上、抱きしめると壊れてしまいそうな気がして……手を緩める。


少し、離れると……彼女の整った顔に視線が釘付けになる。


夕焼けに照らされて、いつもより魅力的に見えた。


唇は艶やかに輝いていて──



唇を、重ねた。



一度目は彼女からだった。

二度目は、僕から。


彼女は嫌がる素振りをせずに、そのまま重ね続けた。



心臓が高鳴る。



だけど、キスしてからどうしたら良いかなんか分からなくて、少しの間、そのままそうして唇を重ねたままで……凄く、長い時間そうやっていたような気がした。


慌てて、彼女から離れて……やっと、現実に戻ってくる。



稚影は、少し呆けたような顔で……自身の唇を指で撫でていた。



「……その、稚影?」



不安になって問い掛けると、ハッとしたように稚影は僕に視線を移した。



「あ、えっと……ちょっとビックリしたというか……えっと、うん。恋人だもんね、うん」



ずっとリードされっぱなしだった僕だったけど、少し意趣返し出来たような気がして頬が緩む。


そんな僕の表情を見て、彼女は眉を顰めた。



「さ、帰ろ、帰ろ」



照れ隠しなのは分かったから、僕は小走りで彼女の横につく。

すると、彼女は少し頬を緩めた。


夕焼けの帰り道……いつもの帰り道だ。


今までの日常から少し離れつつあるけど、それでも僕と彼女の守りたいものは変わらない。



そう、思っていた。




だけど──




僕の守りたいものは稚影と希美で。

稚影の守りたいものは僕と希美で。


互いに自分を含んでいない。


少し、違っていたんだ。

ほんの少しの……それでも、大き過ぎる違い。


そんな事に、僕はまだ気付いていなかった。






◇◆◇






二人で家に帰って、食事をして。



「……今日も泊まっていくのか?」


「えー?和希、帰って欲しいの?」


「いや、そういう訳じゃなくて……確認するつもりで……ごめん」



僕が謝ると稚影が愉快そうに笑った。



「冗談だよ、怒ってないから」



互いに風呂に入って、そうして……就寝する時間になった。



稚影は希美の部屋に入って行く。

……希美の部屋に、稚影が泊まる時用の布団がある。


それで寝るつもりなんだろう。


当然だが、僕とは別々だ。

僕も彼女も……恋人とは言え、男と女だ。

だから、一緒には寝れない。



「おやすみ、稚影」


「……うん」



何故か、少し間が空いた返事をして……稚影は部屋に入って行った。


僕も自分の部屋に入って……電気を消した。


常夜灯……小さな豆電球が暗い部屋を少しだけ照らしている。


ベッドに入って……そのまま、目を閉じる。



……眠れない。

不安や恐怖……それは稚影の前で全部、涙と一緒に流したつもりだった。


だけど、一人になれば……戻ってくる。


今日は幸せだった。


幸せだったからこそ、怖い。


この日常が何処かに消えてしまわないかと、怖くなる。


大丈夫だ。

怯えても仕方がないと。


そう自分に言い聞かせながら……。



脳裏に稚影の顔が過って……。



少し、安心する。



薄暗い部屋で、時間だけが過ぎて行く。











ガチャリ。







と、ドアの空いた音がした。



……稚影?



「……和希、まだ起きてる?」


「ん……?あ、えっと……うん、起きてるよ」


「……眠れないの?」


「まぁ……うん、そうかも」



僕は布団を捲って、ゆっくりを上体を起こす。


薄暗い部屋、常夜灯だけが部屋を照らしている。

視界はあまり良くない。


それでも……稚影の姿が見えた。



「……どうか、した?」


「…………」



稚影は黙ったまま……僕へと近付いてくる。


そして……。



自分の着ている寝巻きの、シャツのボタンに指をかけた。



「……稚、影?」



そのまま、ボタンを外して──



「何を……?」



はだけ、させた。



「和希……」



そのまま、僕の側へ擦り寄ってくる。

僕の脳はキャパシティをオーバーしていて、理解出来なくなっている。


視線を少し下げれば……稚影の柔らかそうな肌が、目に映って──



「和希、する……?」



する?


何を……何て、惚ける事は出来ない。


理解した。

理解してしまった。



「稚影……でも──


「それとも私とは、イヤ?」



違う。


そんな事はない。

稚影の事は好きだ。


人として──

家族として──

友人として──

恋人として──

男と女としても。


だけど、だからこそ……大切にしたい。



「……稚影」



揺れる、視線。

心も。


するりと、彼女の着ていた寝巻きがベッドの上に落ちた。

下に何も着ていなかったようで、素肌が顕になる。



「……あ」



息を呑んで、僕は……少し、怖気付いていた。

未知への不安が半分、嬉しさが半分。


そのまま稚影は僕を押し倒して、馬乗りになった。



「私……少し、自信はないんだけど」



顔を近付けくる。

吐息が僕にかかる。


綺麗だ。

彼女は……とても──



「……綺麗だ」


「そっか……ありがとう」



耳にうるさいほど、鼓動の音が聞こえる。

はち切れそうな、僕の心臓。


熱くなった僕の体に……彼女の手が触れる。

少し、冷たかった。



「……っ」



ゾクリとして、僕は声を我慢した。

不快じゃない。

寧ろ、どちらかというと……。


その様子に稚影は顔を緩めて……手を伸ばしてくる。

そして、僕の着ている寝巻きを脱がそうと──





着信音が鳴り響いた。





机の上にある、僕の携帯電話だ。


僕も、稚影も……そちらに視線を移した。



誰からの電話、だろうか?

こんな時間に電話してくる知り合いなんて居ない筈だ。


気になってしまう。



だけど、今は──


でも──



「電話、出ていいよ。和希」



そう、頭上から声が聞こえて……稚影が僕から離れた。



「稚影……」


「気になるんでしょ?」



ベッドの上に座りながら、稚影がそう言った。

……僕は立ち上がって、携帯電話を手に取る。


着信元は……病院?


慌てて、通話ボタンを押した。



「もしもしっ、望月 和希ですけど──



電話をかけて来たのは病院の看護師さんだった。

……結衣さんが、意識不明の状態から回復したらしい。


そして、僕に「来て欲しい」と言っていると──



「…………」



稚影を一瞥する。


……彼女がここに来るのに……凄く、勇気が必要だっただろう。

それは僕への好意から来るものだ。

僕もそれに応えるつもりだった。


だけど、今は──



「……分かり、ました。向かいます」



結衣さんが呼んでいるのは『異能』事件関係だろう。

人の命が掛かっている。


それに──



「……和希?」



彼女の腹部を見る。

……刺された時の傷は、二度と消えない。



稚影は……僕が守らないと。



電話を切って、稚影に向き直る。


……あぁ、本当に。

何てタイミングが悪いんだ。



「……ごめん、稚影」



僕は頭を下げる。



「本当にごめん」



恋人として最悪な対応だ。

分かってる。


本当に情けない。


だけど……稚影は大切だし、僕だって……その……それでも。



「……やらなきゃならない事があるんでしょ?」



稚影の声が聞こえた。

電話の内容は聞こえていたようだった。



「だったら……行かないとね」



視線を上げると……凄く寂しそうで、悲しそうな表情をしていた。


……寂しそう?悲しそう?


違う。

寂しくて、悲しいんだ。


なのに彼女は、それを飲み込んで僕の背中を後押してしてくれたんだ。



「ごめん、埋め合わせは絶対にするから」


「……うん、今度は和希から誘ってね?」


「うっ……」



誘う、誘うって。

それは、えっと。


つまり、そういう事の続きを……。


手を口に当てる。


どうすれば良いのか……いや、稚影がそもそも誘って来たのだから、いつでも良いのだろうか。


あ、いや、でも、明日から希美が帰ってくるし──



「わ、分かったよ」



喉の奥から、言葉を絞り出した。


そんな僕の困っている姿を見て、稚影は笑いながらベッドの上の寝巻きを手に取った。


袖に腕を通して……肌を隠して行く。


視線を、逸らす。

今更だろうけど、急激に恥ずかしくなってきたからだ。


くすくすと僕を笑う声が聞こえた後、そのまま稚影が口を開いた。



「……うん、じゃあ……行ってらっしゃい?」


「あ、えっと……行ってくるよ」



僕は外出できる服に着替えるため、寝巻きを脱ごうとして──


稚影の視線に、手が止まった。



「…………その、稚影?」



呼びかけると、稚影は少し眉を顰めた。



「私は見せたのに」



……そう、言われると辛い。

稚影を見てると……まずっ、さっきの光景が脳裏に……。


困っていると、稚影が軽く息を吐いて……立ち上がった。

そして、僕の部屋のドアに手を掛けた。



「……仕方ないから、許してあげる。希美ちゃんの部屋で寝てるから……行って来なよ」


「……ごめん」


「もう、さっきから謝ってばかり」


「あ、えっと……ありがとう?」


「……うん、よろしい」



そうして、稚影が後ろ手を振って、部屋から出て行った。


何だか、今になって凄く……惜しい気持ちになってきた。

だけど、僕には……やらなきゃならない事があるのだから、仕方ないと自分に言い聞かせていた。






◇◆◇






「結衣さん!」



病室のドアを開けると──



ベッドで上半身を立たせて、手元のタブレットを弄っている結衣さんの姿があった。



「……あぁ、和希か。思ったより早く来たな」



僕は……心配して損をした気持ちになりつつ、パイプ椅子を手に取った。

稚影もここに入院していたから……椅子の位置とかもよく知っている。


椅子をベッドの側に置いて、結衣さんの近くに座る。


だというのに、結衣さんの視線は手元のタブレットから離れなかった。



「……えっと、何があったんですか?」



僕が質問すると、いつも通り険しい表情で僕に視線を移した。



「啓二が『能力者』に操られ、私の首を絞めた」



その返答は、想定通りだった。

……あまり、想定通りであって欲しくなかったけど。



「それじゃあ……えっと、その──


「その『能力者』の能力について、目処が立った」


「……え?」



思わぬ返答に、僕は困惑した。



「え、ど、どういう事ですか?」


「操られている途中の人間……まぁ、つまり啓二に向けて私の『異能』をぶつけていた」


「…………」


「私の異能は生物には効かない……物質限定だ。逆に言えば、生きている人間の中に存在する『異物』を探知する事もできる」



首を絞められて死にかけたって言うのに、あまりにもあんまりで僕は思わず呆れてしまった。

死にかけながらも犯人を探そうとしている姿勢に……やっぱり、結衣さんは結衣さんなんだと思った。



「私の『異能』に引っかかったのは……『液体』だ」


「液体……?」



首を傾げる。



「『異能』で生み出した物ではない……実在する『液体』だ。それを『能力者』は操っている」


「でも、どうやって人を操ってるんですか?操れるのが、その『液体』?なのだとしたら……」


「人体に於いて、取り込んだ水分が体から完全に抜け切るのに……どれ程の時間が必要か知っているか?」



結衣さんが、自身の持っているタブレットを指で突いた。



「答えは一ヶ月程。奴はその『液体』を対象に取り込ませる事で、人間の肉体に浸透させて操っている……取り込ませる事で一ヶ月間は、いつでも操れるという事だ」


「…………」



思わず、黙る。

どんな『液体』が対象かは分からないが、何かを飲むのが怖くなる話だ。



「啓二の車の屋根に、液体ぐらいしか入れないような穴が開けられていた。犯人は『異能』で液体を操り、その穴から車内に侵入し……車内のペットボトルの中へ液体を注入した」



結衣さんが指を立てる。



「それが二週間程前の出来事だ。ペットボトルは……啓二がバカみたいに杜撰だったから署内にある奴の席のゴミ袋に溜まっていた」



……思わず眉を顰める。

啓二さん……何をしてるんだろう。



「私は啓二以外にも警察の伝手がある。警察も自分の身内が狙われたとあって、犯人の捜索には乗り気になってくれたよ」



目を瞬かせる。

病院から電話があってから、到着するまで二時間弱しかなかった筈なのに……もう、そんな事までしてるのか。


やっぱり、結衣さんの行動力は凄い……というか異常だ。

さっきまで意識不明で寝てた筈なのに……。



「わざわざ最新の機器まで引っ張り出して来てくれたからな……ものの1時間で解析してくれたよ」


「え、もう解析が終わってるんですか?」



思わず、目を瞬いた。

そんな僕を結衣さんは気にも留めなかった。



「さて、ペットボトルに付着している液体から何が検出されたと思う?」


「……何ですか?」


「DNA情報だ」


「DNA……?」



……と、いう事は。



「犯人の、体液が……操れる『液体』の正体、ですか?」


「そうだ。正確には……体液が混じった液体、と言った所か」



結衣さんが眉を顰める。



「樽一杯の『ワイン』に『汚水』を一滴流し込めば『汚水』になるように……唾液を一滴でも流し込めば、その液体全体が操れるようになるのだろう。範囲はわからないが……数滴取り込ませるだけで、人間一人を操れるのは脅威だ」



被害者の体内で出血していたのは……『異能』によって無理矢理動かされた身体が内出血を起こしていたから、だろうか。


……あれ?

DNA情報があるという事は──



「液体から採取したDNA情報とマッチングするものが、警察のデータベースに存在していた」


「前科犯、って事ですか?」


「いいや、違う。被害者だ」



結衣さんがタブレットを僕に見せた。

そこには……顔写真と、幾つかの個人情報が載っていた。



「名前は『笹川 祐子』。被害当時は14歳……現在は19歳」



事件の詳細に目を向けて……息を呑んだ。



「被害内容は実父からの性被害……コイツは最低のクズだな。しかし、実父の逮捕は彼女にとって人生の転機にはならなかった」



嫌悪感で目を、細める。



「父が逮捕された事によって、家庭内の経済状況は悪化。彼女の母親は新興宗教にハマり、多額の借金を背負い……自殺した」



口の中が乾く。

なんて酷い話だと……胸が、苦しくなる。


僕の表情を見て、結衣さんが眉を顰めた。



「和希、他人の痛みに悲しめるのは……お前の、長所だ。だが……過ぎ去った事に同情し、これから先に生まれるであろう被害者を増やす事は許されない」


「……分かって、ますよ」



服の裾を掴んで、頷く。



「……話を戻そう」



タブレットを操作して、別の画面を映す。



「以後、笹川 裕子は一人暮らしだ。彼女は経済的事情から年齢を詐称し、違法な売春行為を行い……結果、妊娠する事となる」


「…………」


「この妊娠させた奴が厄介でな。責任を取ろうとしなかった……結果、彼女は借金を背負いながら人工中絶によって堕胎する事になる」


「……もう、いいじゃないですか……彼女の身の上話じゃなくて……事件の事を話しましょうよ」



結衣さんが視線を上げて、僕を見た。



「犯人の人となりを知らなければ、咄嗟の状況で致命的な失態を犯す事になるぞ。彼女の動機や、憎しみ、怒りについて……お前は知る必要がある」



ぐちゃぐちゃになった心……いや、胸を押さえて、僕は……かろうじて、頷いた。



「……まぁ、良い。笹川 裕子は『男』という性別を憎んでいる。それも、社会的地位がある程度ある、成人男性が対象だな」


「…………」



仕方ない、とは思わない。


結衣さんを傷付け、啓二さんを傷付け、希美を怯えさせて、稚影に……二度と、癒えない傷を付けた。


許せない。

だけど……それでも。



「……捕まえましょう」



法の裁きを受けるべきだ。

彼女の人生は悲惨な事の連続だったかも知れない……だから、これ以上、罪を犯させたくない。



「あぁ。幸い、犯人は私達がどこまで情報を掴んでいるかも知らない。証拠を作らない『異能』犯罪者相手に警察は使えないが……作戦さえ立てれば、和希でも──



タブレットに、通知が鳴った。

メールの着信だと、タブレットには表示されていた。


結衣さんは指をスライドさせて──



「和希、今すぐテレビを付けろ」


「……えっ」


「早く」



僕は机に置いてあったリモコンを手に取り、病室のテレビを付けた。

そこには速報……ニュースの放送画面が映っていた。



『連続猟奇殺人再び?○○区にて変死体』



「……う、あ」



何の放送か、分かってしまった。

あの『肉』を操る『能力者』がまた、人を殺したんだ。


そして──



『事件現場は被害者の自宅です。被害に遭われた10代の少女は──



「笹川 裕子だ」


「え?」



結衣さんの言葉に驚いて、視線を向けると……険しい顔をしていた。



「……殺されたのは笹川 裕子だ。報道規制はされているが、七課から連絡が来ていた」


「そん、な……」



僕は、呆然とする。

息を深く吐いて、呼吸を……荒くする。



「……和希。お前の恋人……楠木 稚影、だったか。彼女は何処にいる?」


「……え?」



急激な話題の転換について行けず、僕は口を手で覆った。



「何処にって……僕の家に──


「電話を掛けろ。スピーカーで、私にも聴こえるように」


「何を、言ってるんですか?」



意味が分からない。

この瞬間に電話を掛けろなんて、まるで──



「訳は後で話す……安否の確認だと思え」


「安否……分かり、ました」



違う。

結衣さんは安否を確認したくて僕に掛けさせている訳じゃない。


だけど……強く言われたら、否定が出来なくて……手元の携帯電話から、稚影に電話を掛ける。

勿論、結衣さんが言った通り、スピーカーモードでだ。


着信音が鳴って──



『もしもし、和希?どうしたの?』


「あ、あぁ、稚影。ちょっと話がしたくて」



彼女の声がスピーカーから聞こえる。

ほら、大丈夫だ。


何もおかしい所はない。

稚影は、いつも通りの稚影だ。



「いや、結衣さんが──



ちら、と結衣さんを一瞥する。

彼女は首を振った。


……掛けて欲しいと言った事は、稚影に伝えたくない……って事か。



「ちゃんと目覚めてて、元気だったって報告を」


『へぇ、良かったね……もう帰ってくるの?」


「えーっと……それは、うん。出来るだけ、早く帰るよ」


『うん、分かった。じゃあ、気を付けて──





救急車のサイレン音が聞こえた。

僕の携帯電話からだ。



「……稚影?外に居るのか?」



口の中が乾く。

……こんな事件が起こった日に、外にいるなんて……危ないと思ったからだ。



『えーっと、その、ちょっとコンビニに行こうと思って──


「そんなの……僕に頼めば良いじゃないか……!」



思わず、声色が強張ってしまった。



『……和希?』


「ご、ごめん……でも、心配だから……」


『…………』



救急車のサイレン音が遠く、離れていく。



『……私の方こそ、ごめんね。和希。心配かけちゃった』


「いや……」



気まずくなって、目を細める。

稚影は優しげに、謝ってきたのに。



『うん、急いで……気を付けて帰るから。和希も気を付けてね?』


「あ、あぁ……分かったよ」



電話がプツリと切れて、通話の終了音が病室に鳴り響く。


僕は結衣さんに視線を向けて……彼女がタブレットに目を向けて眉を顰めているのが気になった。


彼女が電話を掛けろって言ったのに……何で、そんな態度なんだ。

少し腹が立って声を掛けようとした瞬間──



「……和希」



結衣さんの方から、声をかけてきた。

そして、タブレットを僕に向けて来た。


地図に赤い点が映っている。

右上に時間も映っている。


時間は……今さっき、通話中の、時間。

数分前を指し示していた。



「これ……何ですか?」


「都内の救急車の出動状況だ」



僕は……それを見て……気付いた。

気付いてしまった。



「……和希。お前の恋人は……わざわざ、コンビニに行くのに電車に乗って、二駅離れた場所に行くのか?」



僕の家からコンビニまで……徒歩、10分ほど。

だけど、その間には救急車の出動状況は存在しない。


あるのは……二駅離れた、隣町でだけだ。



その隣町は──



先程、笹川 裕子が殺された……彼女の住居がある街だった。






◇◆◇






夜風に身を冷やしながら、私は夜道を歩いていた。


笹川 裕子……彼女は原作に登場する強力な『能力者』だった。

それこそ、選択肢を間違えれば主人公……和希も死んでしまうような、強敵だ。


自身の体液を含む液体を操る能力……その操作能力は強力だ。

遠距離で大の大人を操れるような『異能』だ。


それが……近距離ならばどうなる?


『異能』の出力は基本的に、自身と距離が近ければ近いほどに性能が増す。

力も、精度も、速度も。



彼女に、穂花に使った時のような遠距離攻撃では……不安が残る。

私自身が出向く必要があった。



「……ふぅ」



息を深く吐く。


目的は達成した。

丁度、和希が家を離れている内に殺す事が出来た。


もし、万が一……和希が笹川 裕子と戦えば、どうなるかは分からなかった。

もしも……もし、和希が……殺されるような事があれば。


そう思うと居ても立っても居られなかった。


そもそも笹川 裕子は原作での中盤以降に現れるキャラクターだ。

今の和希では……荷が重い。


しかし何故、今の段階で笹川 裕子が事件を起こしたのか。

……私が干渉した何かが、笹川 裕子に影響を与えてしまったのか?


……バタフライ・エフェクトという言葉がある。

蝶の羽ばたきは、僅かな力だとしても……より、大きな想像もできない事象を引き起こす。

私は笹川 裕子に干渉した覚えはないが、私が殺した人間の誰かが彼女に影響を与える存在だったのだとしたら……。



「…………」



……阿笠 結衣、神永 啓二。


私は彼等を助けた。

……いや、助けてしまった。



頸椎を損傷し、気を失っていた阿笠 結衣を……私の『異能』で修復した。

あのまま放っておけば、死ぬ所だったからだ。


別に見殺しにすれば良かったのに……だけど、もし見殺しにしてしまえば……きっと、もう、和希に対して笑顔を見せられなくなる。


そんな気がした。



……もう、何をどうすれば良いかは分からない。



阿笠 結衣の身体を治した際に、私は彼女の身体に『ヒント』を与えてしまった。

気付くか、気付かないか……それは分からない。


だけど、私が異能を使う上で必ず発生してしまう『ヒント』。



「……ぐっ」



頭痛がする。

右手に『剣』を生み出して、血管を弄りながら……歩く。


目眩、吐き気、悪寒。


それらは私に付き纏う。


過剰なストレスと、肉体の酷使。

『異能』による肉体操作……そして、それによって発生する『副産物』。

それらが私の肉体を蝕む。



「……和希」



寝室での和希の顔を思い出す。


こんな汚れた……傷を負った身体でも、彼は……綺麗だと、言ってくれた。

内面は腐りきった臓物と血で作られた屑だと言うのに。


知られたくない。

私の悪行を、内面を。


失いたくない。

平穏な日々を、友人を、恋人を。



「……だ、けど」



もし、知られてしまっても。


和希はきっと、私を許してしまう。

彼は言っていた。


私がどれだけ悪い事をしていたとしても、嫌いにはならないと。



「ダメ……」



違う。

裏切られたと、許せないと、和希は憎悪しなければならないのに。


もし、このまま私の罪が暴かれて、逮捕されたとしたら──


和希はきっと、これから来る困難を前に様々な物を失う。



「……和希」



だから、だから。

和希には私を──



滝のように流れる汗を拭って、灯りの前に立つ。

望月家だ。


和希と希美の家で……私の居たい、居場所。

守りたい、もの。


ポケットに入れている合鍵を手に取って、差し込む。


鍵を開けて、中に入る。



……良かった。

和希はまだ帰って来ていない。



「げほっ、ごほっ」



安心から咳き込む。

手で口元を拭うと──



ドス黒く、腐臭のする血が……手に付着していた。

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