第9話 破滅への分かれ道

僕と稚影は恋人となった。


としても、何も変わる事はない。

今までと同じ生活を続けている。


希美に「恋人になった」と言えば、「お兄ちゃん、幻覚でも見てるの?」と心配され──

沢渡に問われて渋々話せば「やっとか」と呆れられ──



それでも。


特別、何かが変わる事はない。



稚影の入院先へ、希美と通いながら二週間経った。

当初の予定通り、稚影は退院して……本当に、いつもの日常が戻ってきた。


稚影の恋人という役割に、僕は浮かれていたけれど……特別、彼女から僕への反応が変わる事はなかった。


いや、ほんの少し……彼女も意識してくれているのだと信じたい。



だけど……このまま。



ずっと、何も変わらなければ良いと、そう思っていた。



僕達が見ている幸せは、薄氷の上に成り立っているようだ。

その幸せを壊そうとする人と、戦わなければならない。






◇◆◇






探偵事務所で、結衣さんがホワイトボードにペンを入れる。

僕が稚影の見舞いだったり、何やらをしている間に結衣さんは、稚影を刺した犯人……そして、その背後にいる『能力者』を探っていたらしい。


恋人だとか何とかで、浮かれていたのが本当に恥ずかしく思えた。

反省しなければならない。



「……では、おさらいだ。君の友人を刺した犯人について」



ホワイトボードに写真を貼る。

……稚影を刺した男の写真だ。



「名前は『古坂 信彦』、43歳。会社員。まぁ日本社会において一般的な中年男性だな」



ペンの尻で、男性の写真を叩いた。



「犯行後、拘束され……意識不明で緊急搬送。脳や心臓にダメージがないが昏睡。一週間ほど、意識は戻らなかった」



一週間ほど……つまり、今は。



「先週、意識は戻ったが……犯行前後の記憶はない」


「……やっぱり、『異能』で操られていたんですか?」


「そうだろう。入院時は体内の毛細血管が異常なほど傷付いていて、鼻や口、涙腺から血を流していた」



僕は自分の口元に手を当てる。

……確かに、取り押さえた時に、目や鼻から血を流していた。


『異能』で操った際に出来る傷、なのだろうか?

それは何故……?



「流血が具体的にどのような作用によって引き起こされたかは分からないが……『概念』的な能力ではなく『物理』的な能力によって操られていた事が判別できる」


「『概念』?『物理』……?」


「……そうか、話してなかったな」



そういえば、しっかり『異能』に関する説明を受けた事はないな……と頷いた。



「『異能』は大きく二つに分かれる。物理現象を司る能力と、概念を操る能力だ」



結衣さんがホワイトボードに、

・概念系統

・物理系統

と書き出した。



「例えば、私は……『物の記憶』という、物理的に存在しない現象を読み取る力。これは『概念』を操り、可視化する能力だ」



結衣さんが、『概念系統』の隣に『サイコメトラー』と書いた。



「逆に言えば、発火させる『異能』や、空気中の温度を下げる『異能』、光を収斂するレンズを生み出す『異能』……これらは『物理』現象を操る能力だ」



ペンで、『物理系統』の隣に『パイロキネシスト』と書いた。



「二つは根本的に異なる。『概念系統』の能力は、現実の物質に対して干渉する力はない」


「……えっと、そう、なんですか」



なんとなく……といった顔で頷く。

完全に理解は出来ていないが、二種類存在する事が分かった。



「そして、今回、被害者は『物理』的な負荷により負傷していた……これにより記憶や心といった『概念』を操る能力ではなく、『物理系統』である事が分かる」


「……その、『物理系統』であれば何か変わるんですか?」



正直、人を操る能力としては結果は同じではないのだろうか?



「全く異なる。心を操る『概念系統』なら直接的な洗脳だが……操れる『何か』を媒体に、被害者を間接的に操っているならば?」



そこまで言われて気付いた。



「……追い詰めた際に、その『何か』で反撃してくる可能性があるって事ですか?」


「そうだ。例えば……まぁ、『肉』を操る『能力者』が、被害者の『肉体』を操っていた場合。私が追い詰めれば、その『肉』を操る能力で反撃してくるだろう?」



思わず、眉を顰めた。

『肉』を操る『能力者』、それは……何故か、僕に執着している連続殺人犯の事だからだ。



「だから、この差は大きい。覚えておけ」



ホワイトボードをスポンジで拭き取りながら、結衣さんが振り返った。



「あぁ、そう言えば……そうだな、お前の能力も、私と同じく『概念系統』だ」


「……そうなんですか?」


「状況証拠しかないが、物理的な現象を引き起こしてる訳ではないだろう?」



僕は腕を組んで、頭を捻る。


『剣』が脈打ってる事から、『異能』が働いていた事は分かっていた。

だけど、その結果は不可思議だ。


サイコロの出目が良いとか。

攻撃を避けれたとか。

救急車が運良く近くに──


……やっぱり、『運』が良くなる能力なのだろうか?



「ついでだ。『異能』の出力の話もしよう」


「え、あ、はい」



結衣さんが真っ白になったホワイトボードに、またペンを入れ始めた。


結衣さんは自分の考えを人に話す事が好きだ。

興が乗った、という奴なのだろう。


思考を現実に引き戻し、講義を受けるような姿勢を取る。



「『異能』は『能力者』の精神的落差が出力に直結する」


「落差ですか?」


「そうだ。『正の感情』と『負の感情』の落差によってエネルギーが生じる」



結衣さんがホワイトボードに


『ポジティブ』

落差=エネルギー

『ネガティブ』


と書き記した。



「最初から頭がおかしい奴は強くない。元々は正常だった人間が狂えば狂うほどに強くなる……だからこそ、厄介だ」


「…………」



僕は思わず、口を閉じた。


僕の目の前で死んでしまった『能力者』……上坂穂花さん。

彼女も元は普通の女性だったのに……辛い出来事で、精神に負荷が掛かかり『能力者』になってしまった。


僕は何となく……悲しい事だと思った。



「その落差によって生まれたエネルギーは、『異能』の力に直結する。有効射程が伸びて、精密性が上がり、より大きな現象を引き起こせる」



……苦しんだ人間ほど、強くなる。

理不尽な話だ。



「今回の事件、周囲に不審な影はなかったな?」


「……はい」


「つまり、『能力者』は少なくとも周囲100メートル以上は離れて、『異能』を行使していると思って良いだろう。それだけの射程……人を一人自在に操れる精密性……『能力者』はかなり拗らせてるだろうな」



結衣さんが眉を顰めた。


僕はその横顔を見て、ふと思った。



「……結衣さんって、『異能』について詳しいですよね?」


「まぁ、そうだな。人よりはな」



結衣さんがホワイトボードに書かれた文字を消した。



「それって、何故なんですか?」


「…………」



無言で消す。

そして……僕の方を一瞥した。



「事件に話を戻すぞ」


「え、あ……はい」



どうやら、この質問は彼女にとって地雷だったらしい。

それ以上、深掘りする事は諦めて話を訊く。


結衣さんは机の上に置かれた大きな封筒を手に取った。



「他の加害者についての話だ」


「……他の、ですか?」


「あぁ。記憶の損失を訴えながら、留置所で鼻血を流していた他事件の容疑者が数名いる」


「それって……」


「同一犯だろう。『異能』犯罪とは判別されず、今回の件で明るみになった件だ」



結衣さんが封筒から出したのは履歴書のような個人情報の載ったA4用紙だ。

それをホワイトボードにマグネットで貼り付けた。



『吉原 大吾 53歳/会社員……不法侵入』

『山原 博 48歳/教員……暴行』

『大河原 和久 32歳/会社員……強姦未遂』



「彼等に面識はなく、共通点もない。成人済みの男性ってぐらいだな。お前の友人を刺した通り魔程ではないが、意識の混濁も見られたそうだ」


「…………」


「つまり要約すると、『能力者』は無差別に成人男性を操り、事件を起こさせている……という事だ」



椅子に座って、頭を捻る。



「何でそんな事を……」


「さぁな。だが、そこが恐らく犯人の『精神的弱点トラウマ』だろう」



結衣さんが笑いながら、眉を顰めた。



「先程も言った通り、『能力者』は正常な人間が拗らせた奴ばかりだ。こうやって殺人未遂を他人に起こさせるような奴に、まともな思考パターンを求めない方がいい」



ホワイトボードに貼られた紙を、結衣さんがまとめる。



「そして、恐らく。犯人の目標は末端の被害者ではない。中間の操っている加害者……その成人男性達に犯罪を犯させ、社会的地位を貶める事が目的だろう」



結衣さんがペンを入れた。



「……何かしら成人男性への憎悪を拗らせている……とすれば、性犯罪の被害者か、被害者の親族か?」



結衣さんが言い淀む。



「……結衣さん?」


「証拠が足りず、『異能』も『容疑者』も絞れていない。だから、犯人探しはお手上げだな」



そして、ため息を吐いた。



「次の犯行を待つしかないだろう」


「え……」



僕は思わず、息を呑んだ。


だって……次の犯行を待つという事は、つまり……次の犠牲者が出るのを待つって事じゃないか。


僕の様子に気付いたのか、結衣さんが鼻で笑った。



「フン、私が黙って待つだけの犬に見えるか?」


「あ、いえ……」



心の内を読まれたようで、思わず否定した。

しかし、結衣さんは挑発的な笑みを崩さない。



「啓二と共に、不審者情報が出た場所を虱潰しにする。だから、大事にはならないようにするさ」



僕は頷いて、口を開いた。



「……僕も──


「いや、要らん」



……まぁ、そう言われる気がした。

結衣さんが何だかんだ、僕をあまり酷使しない。

何かしら、彼女の中で過労ラインという物があるのだろう。


……啓二さんは酷使してるけど。



「今日、情報を共有したのは現状の整理だ。何かが起これば駆り出されると……そう思っておけ」


「は、はい」



僕は頷いた。






◇◆◇






和希が帰った後、事務所で一人……『剣』を手元に生み出した。


そして、来客者用の灰皿を手に取り、『異能』を行使する。


目を瞑れば、先程までの景色が遡り──



「……チッ」



私は舌打ちをした。


それは見えた景色が『ボヤけて』いたからだ。


昔は6時間前ぐらいまでなら鮮明に過去の記憶が見えた。

しかし、5時間、3時間と縮んで行き──

今では……1時間が限度だ。


つまり、『弱体化』しているのだ。

物の記憶を読む『異能』が。



「……私は」



目を瞑ったまま、『剣』の柄を額に当てる。


『異能』の出力は精神の落差と紐づいている。


その落差が縮まればどうなる?


具体的に言えば……精神的苦痛トラウマを克服すればどうなる?

恨みや妬み、怒りが薄まればどうなる?


答えは簡単だ。

『異能』の出力が低下する。



「私は絆されてなど、いない」



怒りを思い出す。


兄が殺された日を、思い出す。


雨の降り注ぐ中で、傘も差さず……ただ茫然と眺めていた自分を思い出す。

私は誓ったはずだ。


必ず犯人を見つけて、この手で『殺す』と。


なのに、今……もし、犯人を見つければどうする気だ?


私は……啓二に咎められるのが怖い。

和希に失望されるのが怖い。


きっと、犯人を警察に引き渡すだろう。

それが正しい事だと分かっているからだ。


そうだ。

私は、正しくなった。

倫理的には正しくなった、それは疑いようがない。


だが、弱くなった。

狂うほどの怒りの炎は小さくなってしまった。



「…………」



あの日、曇天の空の下、雨に打ちひしがれる私に傘を差した男がいた。

私を案じていた男がいた。

慰めてくれた男がいた。

立ち直るまで……私を、愛して──



「……バカが」



『剣』を消滅させて、立ち上がる。

コートを手に取り、羽織る。


啓二に対する苛立ちが募る。


あの時、私を……抱いた癖に、立ち直った私から離れたあの男。

心配して、私を子供として扱い、自身を大人として立ち振る舞おうとしている、あの男。


本当に憎らしい、あの男。


異性としての恋慕など、ほんの少しのカケラしかない。


そう思っていた。


なのに、未だに燻り続けている……コレは何だ?


私は何なんだ?


目的を忘れて、怒りを忘れて、兄の面影を忘れて、何がしたいんだ?



「私は……忘れてなどいない」



力を込めて、自身の身体を抱く。


私の『異能』はきっと、これからも弱くなる。

いずれ、『能力者』を探す力もなくなる。


そうなれば啓二は……私を──


嫌だ。

私はまだ戦える。


そうだ。

私はまだ、お前の隣にいる。


違う。

そんな浅はかな理由で戦っていない。



私は……。



荒い息を整えて、鏡を見る。


仏頂面で凝り固まってしまった額。

光のない瞳。


赤黒く艶めく、唇。



……今更、平凡な幸せなんか望んでいない。

そう、自分に言い聞かせた。



「……もし、和希に知られたら幻滅してしまうな」



一人の、少年。

初めは良い手駒になると思っていた。

戦うことに向いていない『異能』を持つ私にとって、代わりに戦ってくれる『剣』になってくれると思っていた。


なのに……私は、自身で思うよりも、非情にはなれなかった。


自身を慕ってくれる少年……いや、今は青年か。

彼を自身の中で身内として認識してしまったのだ。


人並み以上の善性と、苦しみの中に居ても善性を失わない強さを持つ彼に、兄の面影を見てしまったのだ。


だから──



息を、深く吐いた。


携帯電話を手に取り、啓二へと電話を掛ける。



「……あぁ、啓二。私だ」



事務所のドアを開けて、外に出る。



「今から向かう。最寄駅で集合で良いか?」



私は戦わなければならない。

探偵として。


和希が慕ってくれている、大人として。

啓二が頼れる、相棒として。


私が信じたい、強い私として。





◇◆◇






「希美ちゃん、お風呂上がったよー」



稚影が声を張り上げて──



「うん!じゃあ次、私、入るね」



希美がそれに応えた。


僕はリビングでソファに座って、テレビを見ていた。

流れているバラエティ番組は、希美が流し始めたものだ。


当の本人はリビングから出て行ったのに、僕が見てると思ってか付けっ放しだ。

……ニュースに切り替えても良いけれど、希美が戻ってきたらチャンネルを戻されそうだな。


別に、特別ニュースが見たいわけでもないし……今、ここでテレビを見ているのも惰性からだ。

だらしなくソファに座り、無気力に、体と心を休めているのだ。


部屋を出て行った希美に代わって、足音が聞こえた。



視界に、髪の毛が映った。



「……何してるんだ?稚影」


「どんな顔で見てるのかなって」



ソファに座っている僕を見下ろすように、稚影が覗き込んで来た。


テレビで流れているのは……デートスポット特集だ。

まぁ、あまり気にしていなかったけれど、確かに……今はもう、無関係って訳でもないのだろう。


稚影が恋人になって、一つ、日常に生まれた差異がある。

時折、彼女が望月家に泊まりに来るようになったのだ。


といっても、僕とどうとか……恋人だから、というよりも、希美の部屋で寝泊まりしてる。

二人でパジャマパーティみたいな事をしている。


曰く、女子会。


それは結局、僕と彼女の関係が変わった事によって出来た差異なのか、疑いたくなる。


しかし、確実に頻度は増えていた。


以前は家に泊まりに来ても月に一回だったのが、今は週に二回程に増えている。

簡単に換算しても八倍ほどになっている。


だからきっと、恋人という立場が何の因果か影響しているのだろう。



……テレビでは夜の植物園を照らす、イルミネーションが映されていた。

視線を、稚影に戻す。



「稚影は、こういう所に行きたい?」


「まぁ……どうだろうね?人混み、あんまり好きじゃないし」


「僕もそうだよ」



ふふ、と稚影が笑った。



「こうして、ゆったりと一緒にいるだけで私は幸せかなぁ」



安い幸せ……とは思わない。


掛け替えのない日常の大切さは、僕もよく知っていた。



「でもね、和希」



いつの間にかソファの後ろから回ってきて、稚影が隣に座っていた。


シャンプーの香りと……何か、甘い匂いが混じって鼻を通り抜けた。



「恋人らしい事もしたいかな」



思わず、喉を鳴らした。



「こ、恋人らしい事って?」


「えっと、それは──



稚影が手を伸ばしてきて、僕の手の甲を覆うように握った。



「手を繋ぐとか?」


「あ……まぁ、それぐらいなら……いつでも」



手をひっくり返して、握り返す。

僕と違って細く、華奢な指が絡む。

滑らかな肌触りに、僕は顔が熱くなっていく自覚があった。


そして、そんな僕を見て稚影が頬を緩めた。



「後は、キスとか?」



心臓が跳ねた。



「……そ、それは」



彼女と恋人という関係になっても、キス、なんて事は一度もした事がない。

まだ僕は踏み込めずにいた。


だって、そこに踏み込めば……幼馴染の友人という立場から、決定的に変わってしまう気がしたからだ。


稚影に視線を戻す。

柔らかそうな唇だ。


風呂上がりで艶やかな彼女の肌と、石鹸の香りは……僕にとって猛毒のようだった。


正常な思考を奪う、猛毒だ。



「……なんてね、冗談」



固まってる僕を見て、稚影は愉快そうに笑いながら僕から離れた。



「そ、そっか……冗談……?」


「今はね」



そう言って笑う。

僕は思考する。


……それはつまり、今じゃなければキスしても良いと……そういう意味なのだろうか。

だけど、恋人なのだから……それは、確かにそうなのだろう。


照れている僕の方が、おかしいのだろうか。



……まだ、僕たちは恋人らしい恋人とは言えない。

互いにどの距離感が適切なのか分からなくて、探っている状態だからだ。


だけど、時間は沢山ある。

これからも稚影はここに居て、僕もそばに居続ける。


僕も稚影も、希美も。


いつか別れる日が来ようとも、それは当分先の話だと思っていた。


今日がダメなら、明日でもいい。

明日がダメでも、明後日なら。


焦る必要はない。


彼女との心地よい関係を探すために、僕達は少しずつ歩み寄っていく。

それでいい。


優しく笑う稚影を見て、僕はそう思った。






◇◆◇






助手席に座っている私は、運転している啓二に視線を向けた。

顔は正面を向けたまま、目だけを動かして。



「……どうかしたのか?結衣」



それでも気付かれてしまったのだから、私は小さく息を吐いた。



「何でもない」


「……それは何かあったような奴の言い方だぞ?」


「何でもないと言っているだろ」



苛立つが、啓二は運転中だ。

足を出す事が出来ない。


ポツポツと、雨が降っている。

傘をさすか、ささないか、迷うほどの小雨だ。


夜なのもあって、人通りは平時より少ない。


静かな車内で、ワイパーが擦れる音が響いた。



「…………」



私は黙っていた。

何も考えたくなくて、窓ガラスを伝う雨粒を見ていた。


しかし、そんな静寂を気まずく思ったのか、啓二が口を開いた。



「なぁ、結衣」


「何だ?」


「あー、いや……」



取り付く島もない。

私がそんな態度を取ろうとも、啓二は再び口を開いた。



「和希くんの話なんだが」


「…………」


「最近、彼女が出来たらしいぞ」



ジロリ、と視線を向けた。

啓二は気まずそうに笑っていた。



「そんな事を私に話して何が言いたい?」


「あぁ、いやぁ……世間話程度の話だよ」


「……フン」



鼻を鳴らす。

啓二が頬を掻いた。



「和希くんの友人の……ほら、結衣もあった事のある女の子がいるだろう?彼女らしい」


「……私と?」



脳内の記憶を遡る。


……あぁ、あの時、私が『剣』を向けた少女か。

『剣』も見えていなかった『能力者』でもない普通の少女だ。


あんな事件があって翌日に、和希の家に泊まっていたのだから……まぁ、元から随分と仲が良かったのだろう。

納得した。


……そういえば、先日、今回の事件関連で友人が刺されたと和希が言っていたが……同一人物だったな。



「それで恋愛相談みたいな事をされたんだが……」


「お前がか?」



思わず、顔を啓二に向けた。

恋愛相談……コイツに?


私は顔を顰め、口を開いた。



「傷心の未成年に手を出すような男が、恋愛相談なんて出来るんだな」


「う、ぐ……そ、それはな……」



……兄が死んだ時。

自暴自棄になっていた私を慰めるために、啓二は私を慰めた。

……それに私はのめり込み、一時は男女の関係になる程に。


それなのに、今は。


別に、告白した訳でも、されたわけでもなく。

付き合っているという認識があった訳でもなく。

だからこそ、破局した訳でもない。


ただ、そういった一線を越えてしまって、今は越えなくなった。

それだけだ。


私は戦うための武器を……『剣』を見つけて、誰かに頼らなくても生きていけるようになった。


私が求めなければ、啓二も求めはしない。


……私は身勝手にも、それが無性に腹が立った。

そして、私は意固地になっていた。


今の関係を問い正せる強さが、私にはない。

万が一にでも拒否されれば……私は、私を保てなくなる気がした。



「わ、悪かったよ……すまない」


「…………」



『悪かった』?

別に、悪くはないだろう。

私にとって嫌な思い出ではない。


何故なら私は……今も──

それなのに、コイツは──


無言のまま、滴る雨を眺めている。

小さな水滴が、疎に降り注ぐ。


私の内心と同様に。

悲しめるほど降ってはいないが、それでも雨粒は確かに降っている。

そんな気分だ。



すると、背筋に何かが垂れた。



「……っ!?」



冷んやりとした感覚に、敵からの攻撃かと上を見れば……車の屋根に小さな穴が空いていて、雨漏りをしていた。



「……結衣、どうかしたのか?」


「雨漏りだ」



丁度、信号が赤になり車が止まったので、私は上を指差す。

啓二がそれを見て、ショックを受けたような顔をした。



「げっ……まだローン残ってるのにな」


「何で穴が空いてるんだ?」


「さぁな……高層マンションからの落下物か?いつの間に空いたんだ?」



視線を穴に向ける。

小さい……小雨だからか、水滴が漏れる程度の被害で済んでいる。


私は座席の隙間にあったコンビニのビニール袋を手に取り、穴を押さえる。

そのままティッシュと共に穴へ突っ込んで、応急処置をする。



「……チッ、帰りは後部座席に乗るか」



私は苛立ちながら腕を組み、足も組む。

普段から私は助手席に座っていた……ここは、私の特等席なのだ。

だから、そこから離れる事に苛立つ。



「いや……悪いな、結衣」


「別に、構わない」



そうして車を走らせている内に、目的地へ到着した。

都営の公園だ。


小雨が降っているのもあり、夜なのもあって人影はない。


なのに……一時間前、ここで傘も差さずに徘徊している男性を見たと通報を受けた。

呆然とした様子だったらしく、それを聞いて私達は急行したのだ。


車を駐車場に停めて、啓二が降りた。

私が助手席から降りるのと同時に……啓二は後部座席にのっていたビニール傘を手渡してきた。


……二本、積んでいたらしい。

こういう所はまめだ。

機微に疎い癖に。


私は傘を左手に取って、開いた。

しかし、右手はフリーにしておく。


いつ誰が来ても……『剣』で対処出来るように、利き腕は空けておくつもりだった。






◇◆◇






目の前で、こくり、こくりと希美が船を漕いでいた。

ソファに座って、テレビを見ながら……もう、眠そうだ。


そんな様子に稚影が気付いたようで、希美の肩を抱いた。



「希美ちゃん、ほらここで寝ると風邪引くから……部屋に戻ろっか」


「ん、え?……あ、ごめん、うん。分かった」



返事すら微睡みながら、希美は稚影に手を引かれていた。


ふと、稚影が僕へ振り返った。



「おやすみ、和希」


「あぁ、おやすみ……希美は大丈夫?僕が部屋まで連れて行こうか?」



そう提案するも、稚影は首を振った。



「ううん、大丈夫だよね。希美ちゃん」


「……え?うん、大丈夫?」



……稚影が苦笑し、僕も苦笑した。

そのまま手を引いて、稚影が希美を部屋まで連れて行くようだ。




……僕も、そろそろ寝るか。




テレビを消して、机の上を片付ける。

窓やドアの鍵が閉まっている事を確認して……リビングの電気を消した。


廊下を歩いて自室に向かっていると……ガチャリ、と希美の部屋のドアが開いた。


顔を出して来たのは、稚影だ。



「……あ、和希」


「僕も寝ようかなって」


「そっか……」



ふと、希美の事が気になった。



「希美は?」


「ちゃんとベッドの上。もう寝ちゃって、寝息まで出ちゃってるよ」



稚影が部屋の中を一瞥した。

ベッドの上の希美を見たようだが……流石に、女子の部屋を覗き込むような真似はしない。


そのまま、横を通り過ぎて自室で寝ようかと思った瞬間、ドアを開けて稚影が廊下に出て来た。



「……どうかしたか?」


「…………」



無言のまま、稚影が僕の側に近寄った。


そして……両手を広げて、僕を抱きしめた。



「……ぇ、あ、稚影?」


「ごめん、ちょっとの間……こうさせて……?」



僕の肩に顔を埋めながら、稚影が密着してくる。


暖かく……柔らかい。


こんなにも華奢だったのかと、思いながら……僕の両手は宙を彷徨っていた。


抱きしめ返せば良いのか、どうすれば良いのか分からなくて。



「稚影、その、何か……大丈夫か?」



何か辛い事があったのか。

それとも、悲しい事があったのか。


分からなくて、そう訊いた。



「……うん、今は……大丈夫」



……僕は、その両手を稚影の背中に回した。

暗い廊下で、二人で密着する。


ほんの少し、荒くなった吐息が、耳に響いた。


どれほどそうしていたのか分からないけれど、長くもなく、短くもない間……抱きしめあって、稚影から離れた。



至近距離で見る稚影の顔は、寂しそうな表情を浮かべていた。



「稚影──


「和希、私ね」



ぽつり、と言葉を漏らした。

僕は言いたかった言葉を喉に戻して、黙って傾聴する。



「私、和希の事が好きかは……分からなかった。少し、前までは」



思わず、少し、胸が痛んだ。



「だけど、今は……多分、きっと……好きだと思った、だから」



彼女の顔は紅潮していた。



「一つだけ、訊きたい事があるの」



だけど、とても寂しそうな顔をしていた。



「もし私が……悪い事をしたら、嫌いになる?」



その質問の意図は分からなかった。

だけど、答えは反射的に出ていた。



「嫌いには、ならない」


「……そう?どれだけ悪い事をしても?」


「……そもそも、何で悪い事をする前提なんだ?」



僕はそう、訊き返す。

稚影は少し、バツの悪そうな顔をしていた。



「だって、私……ううん。もし、もしもの話、だから」


「もしも、か……」


「そう、もしも……だから──



稚影が何に悩んでいるか分からない。

だけど、それでも。



「答えは変わらない。嫌いになんか、ならない。いや、なれないよ」



何度も、何度でも同じ言葉を返せる。


稚影が何に怯えているのか……何を知りたいのか分からない。


それでも……僕が稚影を嫌いになる?

そんなの、少しも想像出来なかった。



「そっ、か」



稚影は少し俯いて……。



「稚影?」



顔を上げて、僕に手を伸ばした。



そして──



柔らかいものが、僕の口に触れた。


それが彼女の唇だという事に気付いたのは、一瞬の後で。


ほんの少しの瞬間、触れただけなのに……僕は何度も感触を反芻していた。



「あ……」


「ありがとう、和希」



離れて、稚影が優しく僕に笑いかけた。



「私はもう、迷わないから……」



そう話す、彼女の表情は……笑っているのに。



「二度と、迷わないから……」



どこか、寂しそうに見えた。



この時、何か、『選択』を誤ってしまったのではないかと──




僕は──




生涯、後悔する事になるとは、まだ知らなかった。






◇◆◇






雨が降る公園。


視認性の悪さに苛立ちつつ、私は啓二の隣を歩いていた。

油断はしないように……気を張り詰める。


犯人の『異能』に見当が付いていない。


分かっているのは二つだけ。

一つ、物理現象を操る能力者である。

二つ、人の身体を遠隔で操る精密性がある。


こんな状態で身を晒して犯人を追うなど、正気の沙汰ではない。


……以前までの私なら、もう少し被害者が出て、現場を調査し、犯人の『異能』を理解してから追っていた。


しかし……。



「……私も随分、影響されてしまったか」



小声で呟いた独り言は、雨音に掻き消された。


私は人に好かれていない自信がある。

仏頂面で、いつも何かに怒っていて……他人を顧みない。


そして、それを改めるつもりもない。


それなのに……和希は私を慕ってくれている。

頼りにしてくれている。



「…………」



燃えるような怒りと、ドス黒い憎しみだけが私を構築していた。


筈だった。


正義など……正しさなんて、優しさなんて、そんなもの……まだ、残っていたなんて。


思ってもなかった。


だが、気付かされた。


一度、気付いてしまえば……もう、見て見ぬフリなど出来ない。

私は自我が強く、己を否定する事は出来ずにいた。



「通報があったのは、この辺りか」



ふと、啓二が呟いた。


切り整えられた茂み、煉瓦で組まれた道路、芝生。


私は辺りを見て……視線を落とす。

右手に『剣』を召喚して、『異能』を行使する。


脳へ直接、イメージが走る。

情報量に軽い頭痛を感じながら、遡り──



「……こっちだ」



確かに、ふらふらと傘も差さず彷徨っている男の姿を見た。

能力を行使しながら、その痕跡を追う。


私の能力は『尾行』において、非常に有用だ。

過去の残像を見て、目標を追いかけていく。


それは、どれだけ痕跡を消そうが無駄だ。

足跡を消そうとも、過去の出来事を消す事は出来ない。


少し歩いて……茂みの中に入る。

芝生も植えられていない、剥き出しの地面に……男がうつ伏せで倒れていた。



「これは……」



私はその男に近付いて、身体をひっくり返す。


目と、鼻から流血していた。


首元を抑える。

……息はしているが、体温は低下している。


死んではいないが……何故、こんな場所で倒れているんだ?


ともかく、放置しているのは拙い。



「啓二。一旦、救急車を──



私は啓二に指示を出そうとして──


押し倒された。



「づ、あっ」



地面に倒れた衝撃で、息を吐いて……押し倒してきた相手を見る。


啓二だ。


啓二が私を突き飛ばし、私にのし掛かっていた。



目と、鼻から……血が、垂れていた。



「啓、二……!?」



黙ったまま、身動きが取れなかった私に手を伸ばし……首に、手がかかった。



「……っ!?」



振り解こうとしたが、遅かった。

倒れた私に体重をかけながら……啓二が私の首を締め始めた。



「ぐ、ぅ……!?」



強く。



「あ……が……!」



強く。



「……ぅ……あ……」



目元で光が弾ける。

実際に光が弾けている訳ではない。


酸欠で、意識が朦朧としている証拠だ。


まずい、まずい、まずい。


私は咄嗟に右手の『剣』を──



あぁ、クソ……!



啓二の腹を、膝で蹴った。

微動だにしない。


啓二は私より一回り体格が大きく、しかも男性だ。

警官だからと身体を鍛えていて、力で振り解けない。



「く、そ……」



『剣』の柄で殴ろうとも、動かない。

突き刺せば……しかし、だが、それは出来ない。

相手は啓二だ。


『剣』が地面に転がる。


私は両手で啓二の手を掴み、引き剥がそうとする。



「ゃ、め……ろ……」



顔が近い。


表情はない。

無表情で、私の首を締めている。


やめてくれ、やめてくれ。



私は、嫌だ。



仇を取れずに死ぬ事よりも。

何よりも。


お前にだけは、殺されたくない。



涙が流れて、雨と共に頬を伝う。

着てきた服は雨で溶け出た泥に塗れて、見るに耐えない姿になっているだろう。


苦しく、辛く、悲しく、痛く。


首を、締められる。



「……ぐ、ぁ、あ」



視界の隅が黒く染まる。

私の手が、私の物ではないかのように力が入らなくなっていく。



「……ぎ……ぃ」



私は……それほど、悪い人間だったのだろうか。

こんな、死に方をするほど……。


違う。

人は死に方を選べない。

どんな人間だろうと。


善人だろうと、悪人だろうと選べない。


そうでなければ……あの日、橋の下で殺されていた兄が、悪人だったという事になってしまう。


分かっていた。

『異能』で無惨に殺されている被害者を何人も見た。


だから、分かっていた。



「ぁ……」



それでも、コイツにだけは殺されたくなかった。


碌な死に方が出来ない覚悟はしていた。

だけど……好きな男に首を締められて死ぬなんて、そんなの。


あまりにも、酷い。



「…………」



声も出ない。

力も湧かない。


それでも、啓二は私の首を絞める手を緩めなかった。


雨音も、苦痛も、どこか……遠い出来事のように感じていた。



雨は、嫌いだ。


兄が死んだ、あの日を思い出すから。


私は……嫌いだった。






































◇◆◇






見下ろす。


臓物で作られたカラスが、目を下に向ける。


私は、見下ろす。


首を締められる女性の姿と。


首を絞める男性の姿を。


カラスを通して、私は見ていた。



私の身体は、望月家の……希美の部屋にある。

希美を寝かせた後、ドアに鍵を閉めて……壁にもたれかかり、『剣』を呼び出した。


私は眠れない夜、日課となっている街の探索を行っている。


臓物で作ったカラスを窓から飛ばして、視界を共有していた。



そして……私は、彼らの姿を見つけた。

車から降りて、何やら探索をしている阿笠結衣と神永啓二の姿を。


彼等はどうやら、私を刺した男……を、操っていた『能力者』を探しているようだった。



そして……今に至る。



らしくない、と思った。

阿笠結衣は、それこそ犯人の『異能』が分からなければ行動しないような、慎重派の筈だ。

なのに……今、深追いをしていまい、罠に嵌められて……死にかけている。


……こんなの、原作には存在しない。

彼女はまだ、ここで死ぬべきキャラクターではない。



しかし、それでも。



……最早、原作なんて、どうでもいいと思えるほどに剥離している。

だから、固執する必要はもう……ないのかも知れない。


そして。


ここで阿笠結衣が死ねば……和希は間違いなく、精神に傷を負う。

そして、強くなれる。


きっと、恩師の死は彼を……物語に必要な強さまで引き上げてくれる。


……それだけ、強く、なれるなら。

私が……これ以上、何かをする意味はない。


もう、こんな……隠れて、和希を傷付けなくていい。


私は、解放される。


……だから。





殺す、べきだと。


見殺しにするべきだと、私の心で……誰かが囁く。




和希。


……和希。


例え、これから本当のヒロインが現れるとしても……期間限定の、恋人だとしても。


私は……彼をもう、傷付けたくなかった。


それは愛からか……分からない。

キスをしてみれば分かると思ったが……それでも分からなかった。


ただ、私は和希を大切に思っている。

それだけは事実だ。



目下で、阿笠結衣の身体が跳ねた。



……見殺しにするべきだ。

そうすれば、私は……『あれ』をしなくて済む。

頭の中に練られていた『名案』を実行せずに済む。


これからも、素知らぬ顔で……彼らの側に居られる。



……だから。













私は。











胸を張って、生きていけるのだろうか。

彼を生涯、騙して生きていくのだろうか。


違う。


今更だ。


私はもう、取り返しが付かない場所にいる。


今更、善人面をするな。

罪悪感を感じようとするな。



逃げるな。


逃げるな……。


逃げるな……!



雨が、降り注ぐ。

臓物で出来たカラスの皮膚から、腐敗した血が垂れる。


生気を感じさせない目玉が、ギョロリ、と足元を見た。



一つ、私は『選択』する。



取り返しの付かない『選択』を。



私は──

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