第8話 ざわめく心、錯綜する想い

上坂 穂花が死亡してから数ヶ月が経った。


それまでの間に私が何をしていたかと言えば……彼女が殺そうとしいた三人目……名前は……何だっけ?

まぁ、取り敢えず残ってたソイツを殺しておいた。


穂花の事は嫌いではなかった。

ただ、最後に少し和希を殺そうとした事が……ちょっと困るから殺して止めただけだ。


彼女の代わりに殺しておいてあげよう、と思うぐらいには……。



まぁ、もうこの話はどうでも良いかな。



私と和希は高校二年生になった。

そう、二年生だ。


つまり……ゲームの本編が開始する年度まで来てしまったのだ。

実際の開始タイミングは夏休みが終わってから……転校生のヒロインが現れてからだけど、私も感慨深い。


しかし、和希は……少し、成長不足に見える。

このままでは本編のハードな物語に付いていけるのかと思える程に。


あぁ、だってそもそも、ゲーム開始時点で和希は実の父親を殺し、覚悟が決まっていた状態で始まっている筈なのだ。


しかし、彼の父親を殺したのは私だ。

和希に人殺しの経験はない。


これはミスだ。

明確で、重大な私の失態。



この致命的な歯車のズレが、いつか……より、多くの何かを失わせるとしたら──


私は──










……目を開く。


朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。

布団を蹴って、立ち上がる。



パステルカラーのパジャマを脱ぎ捨てて、鏡の前に立つ。

……目の下に、隈。


右手に『剣』を作り出して、身体を弄る。


血管を弄り、強制的に血色を良くして……再度、鏡を見る。


うん、大丈夫だ。



『剣』を消滅させて、洗面所へ向かう。


水で顔を洗い、化粧水を手に取る。

……随分と、女性としての生き方に慣れてしまったな、と思う。

元々は男だった……筈、なのに。


そう考えながらも、手は止めない。



「うん、良い感じ」



スキンケアを終えて、鼻歌混じりにインナーを脱ぐ。

下着を身に付けて、カッターシャツに袖を通す。


春先用の薄手のタイツを履く。

スカートを履いて、最後に髪を整えれば──



いつもの、『楠木 稚影』の出来上がりだ。



朝食のパンを食べて、昨日のうちに用意しておいた学校の鞄を手に取る。


ローファーを履いて、外に出る。



日光が目に入り、少し眉を顰める。



さぁ、いつも通りの日常を謳歌しよう。

鼻歌を歌いながら、私は歩き出す。



いつもの集合場所に到着して、ベンチに座る。

手元のスマートフォンを弄りながら、待ち人を待つ。



「おはよー!」



少しして、少女の声が聞こえた。


……頬が緩んでいく感覚があった。

気持ちが高揚し、悩みなんてなくなりそうだ。



「おはよう!希美ちゃん!」



そう声を出しながら、希美と手を合わせる。

ハイタッチ、と呼ぶには少し優しいものだ。


目を輝かせながら、私に挨拶をする可愛らしい少女。


それは、私が守る事が出来た人だ。

私が……彼女の、義父を、殺し、て──


息を軽く吐いて、思考を切り替える。

そんな思考は『彼女の友人』である私には相応しくない。


今の私は『彼女の友人』、楠木 稚影だ。

そんな事を考える必要はない。


私は希美の後ろから小走りで寄ってくる少年の姿を見た。

……きっと、希美は私の姿を見て走ってしまったのだろう。



「和希も、おはよう」


「ん、あぁ……おはよう、稚影」



呼吸を荒くしながらも、にへら、と彼は笑った。

その笑顔に少し胸が締め付けられた。


私の──


いや、違う。

そんな事は考えなくていい。


三人で会話しながら、足を進める。

高校へ向けて、歩き出す。


……まぁ、正確には最寄りの駅に向かって、だけど。



「そうそう、稚影ちゃん。この辺で、不審者が出たんだって」


「不審者?」



希美の言葉に首を傾げる。



「何だか、若い女の子の後ろを追ってくるコート姿の男性がいるって……掲示板に書かれてたよ」


「へぇ、そうなんだ。怖いね」



内心、安心する。

きっと私の事ではないからだ。


……私は深夜に黒いレインコートで身を隠しながら、廃工場へ向かう事があるからだ。


その姿は見られないように『異能』も使って細心の注意を払ってるつもりだけど……まぁ、違うなら良いかな。



……ふと、和希の方を見る。

少し、心配そうな顔。



「どうしたの?和希」


「いや……何でも……?」



……本当に、彼は誤魔化すのが下手だ。

それも彼の良い所なのだろうけど。


そんな様子の彼を一瞥し、希美が口を開いた。



「お兄ちゃんは稚影ちゃんの事が心配なんだよ。私は一人で出掛ける事もないし」


「私が?」



和希を再度、見る。


……あ、そっか。

いざという時は『剣』でブチ殺せば良いと思ってたけど、和希にとって私は……守るべき、か弱き少女に見えるのだ。



「……ふぅん?」



それは何だか愉快に見えた。

心地よく感じた。



「な、なんだよ?心配したら悪いのかよ」



和希がそう言って、ぶっきらぼうな態度を取る。

照れてるんだ。



「ううん、別に?嬉しいなぁって」



これは本当だ。

心配は好意から来ている。

好意は私を肯定してくれている。


だから、好意を受けるのは……心配されるのも、好きだ。



「……そ、そうか?」



そんな私が揶揄ってるのかと思ってるようで、和希は顔を逸らしたままだ。


私は意図的に数歩、横にズレて和希に視線を合わせる。



「頼りにしてるよ、和希」



そう言って、彼の表情が照れから少し思い詰めるような表情に変わって、慌てて苦笑したのを見て……私は満足して頷いた。


和希と一緒にいると、本当に飽きない。



「稚影ちゃん、何の話?」


「んー?和希がね、私が外に出る時はエスコートしてくれるんだって」



そう言うと、和希が私の方へ視線を戻した。



「え?」


「え、じゃないよ?だって、心配してくれるんでしょ?」


「あー、うん、そうだな……うん、いいよ。ちゃんと、同行するよ」



悩むような仕草は一瞬だった。

本当は少し面倒だと思ってるんだろうけど、それでも心配が勝つのだろう。


……私は、穂花が死亡した後、和希が口にした言葉を覚えている。

私を……というか、連続猟奇殺人犯である『能力者』を警戒しているように見えた。


それもそっか。

だって、和希の周りで事件を起こしてるし……自分の周りに危害が及ぶかもしれない、って考えてるんだろうなぁ。



「ふふ……」



頬が緩む。

心は締め付けられるように痛いけど。


そんな私の様子を見て、希美が口を尖らせた。



「いいなー稚影ちゃん」


「何だよ、希美。別に……希美が外に出る時、いつも付いて行ってるだろ」


「そういう意味じゃないんだよね……もう」



希美がそう言いながら、私の腕を両手で挟んだ。


溌剌と笑う彼女に釣られて、私も笑顔を浮かべた。



どろり、と体の中で溶ける、暗い気持ちを隠すように……私は笑顔の仮面を取り繕っていた。






◇◆◇






僕が教室の椅子に座ると、前の席に男が座った。



「実際さ、和希……どっちが本命なんだ?」



僕の友人、沢渡だ。

言葉の真意が読み取れなくて、首を傾げる。



「……何の話だよ?」


「そりゃあ、希美ちゃんと楠木さんの、だ」



そこまで言われれば意味が分かる。

分かるからこそ……眉を顰めた。



「希美は妹だろ」


「あー、それは……ま、そうだな」



一瞬、『でも、血は繋がってないだろ』と思ったのだろう。

それでも、口に出さなかったのは……まぁ、それが僕にとって好ましくない言葉だと気付いたからだろう。


希美は妹だ。

血が繋がっていなくても、僕は兄だ。

それを疑われたり、否定されるのは許せない。


そして、そういった人の機敏に対して沢渡は聡い。


だから、早々に話を切り上げたのだろう。

コミュニケーション能力の高さは、彼の長所の一つだ。



「じゃあ、楠木さんか?」


「稚影は──



そんなんじゃない。


そう否定しようとした。

心の奥底では、彼女に対する恋心がある事は自覚している。

少し前から自覚していた。


そして、自覚してからは加速度的に大きくなっていく事を認識していた。


だけど。

それでも。



「そんなんじゃないよ。家族だから」



そうだ。

家族だ。


稚影は家族だ。

僕と、希美と、稚影は家族なんだ。


誰も血は繋がっていなくとも、僕達は家族だ。


その形を変えるのは……恐ろしい。

だから、僕から告白する事はないだろう。



「……なんつーか、お前、面倒な事になってるな」



察せられたのか、そうじゃないのか。

分からないけど、沢渡は苦笑した。



楠木 稚影。


彼女は年々、少しずつ女性らしくなっていく。

僕が歳を重ねて男らしくなっていくのとは反対に。


身体も丸みを帯びて……僕とはまるで違う生き物だ。

異性である事、それを嫌でも意識させられる。


だけど、この気持ちには蓋をする。



何も変わる必要はない。

今のままでも、僕達は充分に幸せなのだから。






◇◆◇






放課後、私は下駄箱で和希を待つ。


ふと、同級生の少女に話しかけられる。



「楠木さん、また待ち合わせなの?」


「うん、そうだよ」


「へー、頑張ってね」



同級生の少女が手を振って、私から離れていく。

学内に和希以外の友人もいる。


そして、彼女達は私と和希の仲を友人以上、恋人未満だと思ってる。

人の恋話に聡い歳頃だ。


誰も彼もが私達の関係に配慮してくれる。

恋の応援、みたいな事も考えてるらしい。



苦笑いする。



私と和希が恋人?



ありえないだろう、それは。


だって彼は……ゲームの主人公で、未来に運命のヒロインが居て──


私は性自認すらメチャクチャで、何人も人を殺してる連続殺人鬼で──


彼は優しくて。

私は自分勝手で。


カッコよくて。

浅ましい。


清らかで。

ドス黒く。


釣り合わない。


……だから、ありえない。


なのに──


私は──



「ごめーん、お待たせ!」



希美の声がして思考を振り払う。

……ダメだな。


一人でいると、思考がネガティブになってしまう。



「ううん、私もさっきまで友達と話してたから」



希美と共に、和希が現れる。

一年では同じクラスだったけど、二年から別クラスになってしまった。



「さ、帰ろ?」



三人で、帰路に着く。


花も散った桜の木。

ひび割れた石畳の地面。

千切れた雲、傾いた太陽。


オレンジ色に染められた、私達の日常の景色。



緩やかに景色が流れる。

この景色が好きだった。


夕焼けの中に居る、和希と希美の姿……それも含めて、私の好きな景色だ。


私の……守りたいもの。



ふと、希美が口を開いた。



「そう言えばさ、ちゃんと進路届けって出したの?」



視線は和希の方へ向いていた。



「ん?あぁ……まぁ、出したよ」


「そっか」



希美と和希の言葉に、私は首を傾げる。

和希の進路について二人は情報を共有してるのだろうけど……私は知らなかったからだ。



「何て書いたの?和希」


「えっと……まぁ、大学に行って……警官になろうかなって」


「……警察官に?」



思わず、足を止めて……和希を見た。



「ほら、啓二さんにもお世話になってるし……何というか、ちょっと憧れてるというか……」


「そう、なんだ……?」



止めていた足を進める。

顔は……和希から逸らす。

指を口元へ近付ける。


違う。

私の知っている、ゲームの和希とは違う。


だって彼は……そんな夢を持ってなかった筈だ。

それなのに、何で?


そもそも、和希が神永 啓二と面識があるのも……ゲームでは無かった話だ。

私が彼の父親を殺した所為、なのか?


……私が、間違えた、のだろうか?

違う。


どうしよう。


そんなの……だって……それじゃあ、私のしていた事は?


ゲーム通りに進める為にやってた事は?


もしかして、無意味に──



「稚影?」



和希に肩を叩かれた。



「……和希?」


「どうかした、のか?」



その表情は心配している顔だ。

……無理矢理、頬を吊り上げて笑う。


ダメだ。

私の思考を彼らに知られてはならない。



「ううん、ちょっとびっくりしただけ」


「そ、そっか……ごめんな、黙ってて」



和希は意図的に黙っていた訳ではないだろう。

ただ、言う機会がなかっただけ。


だから──



「……お詫びにプリン買ってくれたら許してあげる」



私は戯けて、そんな事を言った。



「あ、お兄ちゃん!私もプリン食べたい!」


「……はいはい、買ってくるよ。帰りにコンビニ寄るけど良いか?」



和希の言葉に、希美と共に頷いた。

そして、希美は笑いながら私の顔を一瞥した。


一瞬、その瞳に私を心配する感情が見えた。


……違う。

私はそんな顔をして欲しい訳じゃない。


二人には笑って欲しくて──


私は無理矢理、笑う。


締め付けられる胸を無視して、気を抜けば砕けてしまいそうな笑顔を浮かべて、私は彼等と共に歩く。










少し歩いて、駅に着いて……電車に乗って、家からの最寄駅に着く。


夕焼けを見ながら、私達は帰路を歩く。


そして、コンビニに到着した。



「希美と稚影は用事、あるか?」



そう和希が訊くから首を振った。



「ううん、ないよ?希美ちゃんは?」


「私もないかな。稚影ちゃんと、外で待ってるよ」


「あー……そっか。じゃあ、手早く済ませてくるよ」



和希がコンビニに入って、私と希美は駐車場の車止めに座り込む。


……そして、私は希美へ視線を向け、口を開いた。



「……何か、話があるの?」


「え?あ、えっと……バレた?」



希美が頭を掻きながら、笑った。


わざわざコンビニに入らず、私と二人っきりになろうとした事には意味があると……そう思ったからだ。



「……稚影ちゃんの進路、教えてくれない?」


「良いけど、別に和希がいても良かったんじゃない?」


「ん?んー……そうじゃなくてね、こう、学校に出す進路とは違って……今後、どうしたいか?とか?」



要領を得ない質問に、私は首を傾げた。

そして、そんな様子の私を見て希美は言葉を選びながら、質問を続けた。



「お、お兄ちゃんとね……将来的に、どうなりたいか……とか?」



その質問に、思わず目を細めた。



「別に?今まで通りで良いんじゃないかな?」


「そ、そうかな?そうだよね、うん、そうだよね」



慌てて取り繕っている。

私は小さく、息を吐いた。


つまるところ、希美は私が……和希と、『そういう』関係になるのか気になっているのだろう。


将来的に私が誰かと恋仲になり、結婚するに至った場合……私はもう和希の家に来れなくなるだろうと。

そう危惧しているのだ。


この状況を続けるには、私と和希が──



そう、希美は薄らとそれを望んでいるのだ。



「希美ちゃん」


「え?うん、何かな?」



私は頬を緩める。



「きっと、私は希美ちゃんの願いには応えられないと思う」


「……そっか、でも仕方ないよね」


「だけど、何があっても私達は友達……ううん、家族だから」



不安そうな顔をする希美の頭を撫でる。

優しく、愛おしく、撫でる。



「だから、大丈夫だよ」


「……うん、でも……私、やっぱり──



ふと、視線を感じた。

道路の先、コンビニの駐車場の外、敷地の外。


私は立ち上がって、そちらを見る。


……コートを着た男性。

帽子を深く被っていて、顔は見えない。


希美の言っていた不審者の情報が脳裏を過ぎる。



「稚影ちゃん?」



希美は状況を理解してないようで、立ち上がりつつも不安げな声を漏らした。


そして、私の視線の先にいる男性を見て……私の方を見た。



「べ、別に……変な人って決まってる訳じゃないから……そんなに身構えたら失礼だよ」



そう口にした。


確かに……希美からすれば、そうだろう。

不審者がいると聞いて、まさか自分の前に現れるだろうとは思わない。

他人事なのだ。


だけど、私は警戒していた。

……この男、何処か、足取りがおかしい。


不自然だと思った。


……いや、足が不自由なだけかも知れないと、その認識は片隅にあって……それでも警戒はやめない。


一歩、一歩と近づいて来る。

私は希美の手を引いて……コンビニの入り口から少し離れる。


……コートを着た男性の進行方向は、コンビニの入り口に向かって、だ。


ただの客……そう判断して胸を撫で下ろそうとした瞬間──


突然、コートを着た男性が駐車場の真ん中で膝から崩れた。



一瞬、私は思考が停止して──



「え?あっ……大丈夫ですか!?」



瞬間、希美が心配して前に出てしまった。


それは目の前で誰かが困っている時に、助けようとしてまう、彼女の善性。

知っていたのに、驚いて、反応が遅れた。



「待って!」



私が声を掛けて──



「え?」



男が立ち上がり──


コートの下には──


刃物?



「……っ」



咄嗟に『剣』を出そうとして……止めた。

背後、コンビニに和希がいる。


もし、万が一見られたら?


この生活は終わる。

三人の日常は終わる。


それどころか……和希や、希美に嫌われる?


でも、だけど、希美は助けないと。


嫌われても良いから、助けないと。


だけど──



「稚影ちゃ──



まだ状況を理解してない希美の手を、強く引いた。

そして……庇うように前に出て──



じくり、と痛みが腹に突き刺さった。



「あっ」



刃物が……刺さった感触だ。

私は尻餅をついて、男を見上げる。


その男の目から、血が流れていた。



「う、ぁ……」



知っていた。

この事件を……この人間を。

後ろにいる『能力者』の存在を。


知っていたのに……今更、気付いた。



視界が揺れて……希美の、悲鳴が聞こえて……そして──


男は、私の血が付いた刃物を再度振り上げて──



「稚影!」



声が聞こえた。

誰の……和希の声だ。


和希は『剣』を握っていて……そのまま、男を弾いて──


私は意識を失った。






◇◆◇






僕は『剣』を呼び出して、コートを着た男を『殴』った。


そうだ、斬ったんじゃない。


『剣』を刃を倒して、腹で殴った。

といっても、『剣』は硬く、大きく、長い凶器だ。

殴ったとしても、相当の衝撃があったのだろう。


結果的に男は転がって、倒れた。



すぐ後ろ……白いカッターシャツを血で滲ませる稚影の姿があった。



「うっ……」



苦悶の表情を浮かべて、腹を押さえてる稚影の姿。

それを見て……僕は脳裏に、幾つもの見てきてしまった、死体が脳裏に過って……体温が一気に下がっていく事を自覚した。


瞬間、下唇を噛んで痛みで無理矢理、混乱を振り払う。


怯えた表情で、青ざめた顔で腰を抜かしている希美を見て……僕は声を出した。



「希美!救急車と警察を呼んでくれ!」



僕の言葉に気付いて、希美が慌てて携帯電話を取り出した。

彼女も驚いて混乱してしまっていたのだろう。


だけど、あの様子ならきっと大丈夫だ。


僕は倒れて痙攣している男性を抑え込んで──



「……血?」



目や、鼻から血を流している事に気付いた。

常軌を逸した状況……『異能』か?


『剣』を手に持ったまま、警戒する。


また、あの『肉』の能力者なのか?

くそっ……何で……何で、僕の周りで事件ばかり起こすんだ。


それも、稚影を……許せる訳がない。

眉を顰めながら、男性を押さえつける力は弱めない。



「お兄ちゃん!警察と救急車は呼んだから!」


「あ、あぁ!分かった!希美は──


「どうしよう!?稚影ちゃんの血、血が止まらないよ!」



吸った息が、掠れて出ていった。

極度のストレスで視線がボヤける。


稚影が……死ぬ?



僕を呼ぶ、稚影の声が……脳裏で反響した。

恥ずかしそうに笑う笑顔が、僕を揶揄う笑顔が……不安そうな表情も、安堵した顔も。

僕を慰めようと抱きしめてくれた、あの時の……暖かさも。


全部、全部。



失われる?



もう、二度と……笑ってくれない?



嫌だ。

ダメだ。


そんなの、有り得ない。


ドクン、ドクンと脈打つ。


心臓が早鐘のように鳴り響いて……サイレンの音が聞こえた。

救急車のサイレンだ。


あまりにも到着が早い。

だけど、今は理由なんてどうでも良かった。


ただ、稚影が助かってくれれば……それで良いと……。


視線を下げる。


脈打っていたのは、僕の心臓だけではなかった。

『剣』も脈打っていた。


僕の『異能』が行使されたのか……何なのか。

だけど『異能』の正体を探る気持ちは、今はない。


稚影を助けられるなら何にでも縋りたい気持ちだった。



「頼む……」



『剣』が脈打つ。



僕が何のために、この力に目覚めたのか……?



強く、脈打つ。



大切な人を助けるためだ。



「だから、頼む……!」



脈打つ、脈打つ、脈打つ。



救急車から隊員が降りてきて──



そして──







◇◆◇






僕は呆けた表情のまま、病院の椅子に座っていた。


警察官から取り調べを受けて……少しして、僕は解放された。

現行犯がいるのだから、僕は被害者の友人として判断されたのだ。


拘束されたコートの男性は意識不明で……警視庁七課の人が連れていった。



……やっぱり、『異能』関係だったのだろうか?

結衣さんと啓二さんが現場検証をしているらしいのだけど、僕は……今はまだ、病院から出られずにいた。


稚影は緊急手術が行われて……命に別状は無かったらしい。

奇跡的に、刃物は重要な内臓を傷付けなかったらしく、見た目に反して軽傷……何だとか。


応急処置が早い段階で終わったのも、重症化しなかった要因らしい。


……救急車が早く到着したのは偶然だったらしい。

近所の中学校で救急車の公開訓練を行なっていたらしく……本当に、偶々、奇跡的に……オペレーターの方が知っていたようで、その救急隊員の人達を呼んでくれたらしい。



……奇跡。



僕は両手を開いて、汗ばむ手のひらを見る。


……僕の『異能』、なのだろうか?

そもそも、何で僕は自分の『異能』の正体を知らないのだろうか。


……分からない。

だけど今は、この力に感謝する事しか出来ない。



希美は……今、カウンセリングルームにいる。

目の前で親友が刺された事で、彼女はショックを受けているらしい。


……何でも、稚影は希美を庇って刺されたそうだ。



両手を組んで……僕は目を瞑る。



心の中にある稚影の笑顔。

僕は……無意識のうちに涙を溢していた。


嗚咽を漏らさなかったのは僕が成長したからなのか……それとも、こんな状況に慣れてしまったからなのだろうか。



目を開いて、時計を見る。


ここに座って、もう数時間経っているようだった。


目を向けると……病室のネームプレートが見えた。


『楠木 稚影』


僕は視線を逸らして……そこから離れようとして……ドアが、開いた。



「稚影……?」



目を向けると……違う、看護師の人が出て来た所だった。

僕が名前を呼んだのに気付いたようで、視線をこちらへ向けて来た。



「家族の方ですか?」


「あ、いえ……友人です」



世間一般では僕達の事を、家族とは呼ばない。

ただの友人と呼ぶ。


僕達が互いにどう思っていようと……世の中は僕達を家族だとは言えない。



「稚影さん、目を覚ましましたよ」


「ほ、本当ですか?」


「えぇ、ですから……会って、話してあげて下さい。でも、絶対安静ですからね」


「……ありがとうございます」



看護師さんに誘導されて、僕はドアに手を掛けて……息を、深く吐いた。


そして、ドアを開ける。



「稚影……」



薄緑色の病衣を着た稚影が、ベッドで座っていた。

窓の外を見ていたけれど、僕の呼び掛けに気付いて振り返った。



「あ、和希」



何でもないように、何もなかったかのように……稚影が声を出した。

ショックも受けてないようだし、痛むようには見えない。


少し安堵して、病室に入る。



「椅子、そこにあるから持って来て座ると良いよ」



稚影が指差した先にはパイプ椅子があった。

それを手に取って、ベッドの側へ置く。


刺されたばかりなのに……僕を思い遣る気持ちに、思わず苦笑した。



「……傷、痛むか?」



そう言いながら、椅子に座る。



「ううん?そんなに……あ、いや、動こうとするとちょっと痛いかもね」


「そっか……」



稚影が仄かに笑った。

視線が吸い込まれていく。


無意識のうちに、僕は──



「和希?」



涙を流していた。

安堵で、涙が止まらなくなっていた。



「良かった……本当に、良かった……」


「ど、どうしたの?」



稚影が驚いたような表情をして、僕の顔に触った。

彼女の手に、僕の涙が付いた。



「ごめん、すぐ泣き止むから……」


「……いいよ、泣いても」



稚影の手は、僕の頭に乗っていた。



「稚影……」


「そうやって、人の痛みに泣けるのも……和希の良い所だと、私は思うから」



……涙が溢れた。

それを拭った。



「なんで……そんな……刺されたのに……僕の事を、気に掛けられるんだよ……」


「ん?だって……希美ちゃんも助けられたし、まぁ良かったかなって──


「良く、ない……」



結果的に稚影は助かった。

希美も助かった。


だけど、良くないのは確かだ。



「僕は、稚影が傷付いたら悲しいよ」


「……そっか」



だったら、どうすれば良かったのか、何て答えもない。

だから、彼女に傷付いて欲しくなかった……という僕の言葉は、僕の我儘だ。



「ごめん、稚影……変な事、言った」


「いいよ、それだけ私のこと、心配してくれてるって分かったから」



稚影がまた、笑った。



「和希は、私が傷付くと悲しい?」


「あぁ、当たり前だろ」


「ふぅん、そっか……そう、なんだ……」



稚影は悲しそうな顔をしながらも、嬉しそうな顔をしていた。

何を考えているかは分からないけれど、僕の気持ちを理解してくれているのだとしたら……嬉しかった。



「……それで、傷は──


「二週間もあれば退院できるんだって。凄いよね」



想像よりも短い入院期間に、僕は胸を撫で下ろした。

それだけ、軽傷だったって事が分かるからだ。



「あぁ、それは良かったな──


「でも、傷跡、残るかも知れないんだって」









「え?」



息を、呑んだ。

呼吸が掠れた。



「ぅ、あ、それって……」



稚影が病衣を捲った。

彼女の素肌に……白いガーゼが貼られていた。



「ここ、ザックリと……傷が入っちゃったから。小さくはなるらしいけど、一生残るって」



一生?


……僕は手で、自分の口元を塞いだ。

そうしなければまた、弱音を吐いてしまいそうだったからだ。



「酷いよね。嫁入り前の女の子に傷付けるなんてさ」



稚影……何で、何でそんなに、平気そうに言うんだ。



「これじゃあ、嫁の貰い手も──


「その時は……僕が──



思わず、溢した言葉に……稚影が驚いたような表情で僕を見た。


……何を言ってるんだ、僕は。



「……和希?」



目を瞬かせて、稚影が僕の顔を覗き込む。

きっと僕の今の表情は、羞恥心と罪悪感と自己嫌悪でメチャクチャだ。


傷心の女の子に付け入ろうなんて、最悪だ。



「ご、ごめん……忘れてくれないか?」



そう言って、椅子から立ちあがろうとして──



「やだ」



稚影の手が、僕の手を掴んでいた。

そして、上目遣いで僕を見上げていた。



「稚影……?」


「座って」


「あ、あぁ、うん」



パイプ椅子に座って……二人の間に気まずい空気が流れた。

息を飲んで……先程の言葉の意味を問われたらどうしようかと、先程までの自分を責めたい気持ちになった。


思わず視線を下げそうになって──



「和希」



名前を呼ばれて……視線を上げた。

稚影と目が合った。


窓の外はもう夜だった。

病室の電灯は小さく、薄暗い。


月光が、彼女を照らしていた。



「ねぇ、さっきの……私がもし、結婚できなかったら……どうしてくれるって?」



その表情は笑ってるような、泣いてるような、悲しいような、嬉しいような、照れてるような……不思議な表情をしていた。


ただ、頬は緩やかに笑っていた。


僕は──


僕は……。


僕は。



意を決して、口を開いた。



「……その時は、僕が……その……結婚、したいって……」


「……ふぅん」



稚影が……笑った。

口元に手を当てて……視線を逸らした。



「それってさ……私が結婚できなかった時、限定?」



そして、そんな事を訊いてきた。

僕は……首を縦に──


横に振った。



「……僕は、その……」


「うん」


「稚影が……えっと……」


「……うん」


「好き、だから……」


「……そっか」



僕の情けない告白に、稚影が何度か頷いた。

そして……口元を覆っていた手を除いた。


その表情は……恥じらい、だろうか。

頬を緩めて、眉尻は下げて、顔は赤くなっていた。



「和希は私の事が好きなんだ?」


「……あ、あぁ……そうだよ」


「知ってたけどね」


「え?」



思わず、また顔を見る。

稚影は笑っていた。


小馬鹿にするように嘲るように……?

違う。


心底、嬉しそうに笑っていた。



「バレバレだもんね、和希」


「そ、そっか……そうかよ」


「うん、知ってたよ。だって──



揶揄うような仕草で、笑って……そして。



「私も和希のこと……まぁ、嫌いじゃないし」



そんな事を言った。

僕は嬉しくなって……直後、眉を顰めた。



「そこは……『好き』って言ってくれるもんじゃないのか?」


「えー?どうしようかなぁ」



稚影が笑って、僕も笑った。

ロマンチックさも何もない告白だったけど……それでも、互いに受け入れた。


今までの家族の形とは違う……少し変わった形で、また家族になれるのかもしれない。


稚影がまた、笑った。



「というか、結婚って……ちょっと気が早いよね、和希は」


「う、そ、そうだな……」



稚影の言葉に、僕は罰の悪い顔をする。

……僕達はまだ未成年だ。


だから、結婚なんて、そんなの気が早い。

当たり前だ。


僕が慌ててる様子を見て、稚影が笑った。



「だから、恋人、からだね?」


「そ、そうだな……恋人、恋人か……」



実感が湧かず、稚影の顔を見た。

……そう、恋人、か。


そう考えると、いつも以上に彼女の事が愛おしく思えて来た。



「希美ちゃんにも言っておいてね」


「……え?僕が?」


「そうだよ。お兄ちゃんに恋人が出来ました〜ってね、自慢すれば良いよ」


「……何で?」


「そりゃあ、希美ちゃんに安心させるためだよ。刺されたけど……悪い事ばかりじゃないよ、って言ってあげて」



そこで、稚影の言いたい事が少し分かった。

……彼女は希美に罪悪感を抱かせたくないのだ。


……敵わないな。


僕は希美の兄だけど、稚影は彼女の姉のようだ。


……ふと、ドアの開いた音が聞こえて……看護師の人が部屋の前に立っていた。


もう少し、まだ……少しだけでも、ここに居たい。

だけど、もう夜だ。


面会時間もとっくに終わっている。

看護師さんが、見逃してくれてたんだろう。


僕は椅子を片付けて、稚影に手を振った。



「それじゃあ、また」


「うん、また、お見舞い来てね?」


「勿論」



笑顔で手を振り返す稚影から離れて、僕は看護師に頭を下げた。

そして、病室を後にして……希美を連れて帰ろうと、カウンセリングルームに向かった。


ほんの少し、自分本位な幸せな話を……彼女に聞かせてやろうと、そう思って。







◇◆◇







深夜、病室。


私はベッドで横たわり、天井を見上げていた。



「……和希」



脳裏に和希の照れ臭そうにしてる顔が思い浮かんだ。

誰かを救おうと必死になっている和希の姿が思い浮かんだ。

私にだけ向ける、異性を見る目を……愛おしそうに見る目を思い浮かべた。



「…………」



和希の事は嫌いじゃない。

だけど、異性として好きかと訊かれれれば……少し、分からなくなる。


好きではない、とも言えない。

好きだ、とも言えない。


分からない。


私は今、どっちなのだろう?

男なのか、女なのか。


分からない。


何も分からない。


だけど、ただ一つ分かることは……。



もし、恋人という関係が出来るとしたなら、和希が良い。

いや、和希以外は嫌だ。


と、いう事。



「……和希」



真っ白な布団を抱く。

腹の傷が少し痛む。


今の和希は……もう、ゲームに出てくる『和希という名前のキャラクター』からは剥離してしまっている。


それでも……私は。


今の和希の方が好ましかった。



「……どうしたら良いんだろう」



だけど、今の和希のままで……物語に打ち勝てるのだろうか?

これから、辛い事が沢山起こる。


その時、彼は打ち勝てるのだろうか?


……分からない。



「……兄さん」



死んでしまった兄を想う。

彼が居ない世界で、和希の『異能』は強く輝けるのだろうか。


……分からない。



「……だけど」



一つだけ、分かった事があった。



『僕は、稚影が傷付いたら悲しいよ』



そう言っていた。


和希は私が傷付くと……悲しいのだと。


知っていたつもりになっていた。

和希は優しいから、私が傷付くと辛い思いをするだろうと……分かっているつもりだった。


だけど、それを実際に面と向かって突き付けられると──



「…………」



一つの、『名案』が浮かんでしまう。

絶対に成功する『名案』。

彼を強く出来る『名案』。


だから、告白に頷いた。

だから、私は彼と恋人になった。


だから──


だけど。



だけど、それは……絶対に、やりたくない。



私の合理的な部分が囁く。

私の感情的な部分が否定した。


相反する私が、私の中で渦巻く。



目を、閉じる。



もう考えたくない。


私を刺した人間の事も。

その裏にいる『能力者』の事も。

私自身の罪の事も。

これから現れるヒロインの事も。


全部。



「和希……希美……」



暗闇の中で、名前を呼ぶ。


私の事を無条件で信頼してくれて、愛してくれる人。

その二人に……私は、報いなければならない。



何故なら──



あの日、私が抱いた、仄暗い覚悟が……全ての始まり、なのだから。


自分の行った行動に対して……逃げてはならない。



人並みの幸せに甘んじてはならない。

そんな物を受け取る資格は、私にない。



報いなければならない。


……でなければ、今までの全てが無駄になるから。


血と、肉と、命。

散らして行った人を形成するモノたち。


零れ落ちた臓物が、悪意が、魂が、人の形を作り出す。

私に憎悪を向けながら、地獄へと導こうと手を伸ばす。


それらが、私の背中を後押しする。


大丈夫。


私は逃げない。


逃げられない。


逃げたりなんか、しない。



聞こえてくる怨嗟の幻聴を聞きながら……浅い眠りの中に堕ちた。






◇◆◇






「結衣、何か分かったか?」



俺が声をかけると、結衣は……その手に『何か』を持ちながら立ち上がった。

俺には見えないけれど、きっと……『剣』だろう。


男の着ていたコートを投げ捨てて、結衣が苦笑した。



「さぁ?『異能』が原因なのは分かるが……肝心の『異能』をぶつけられた場面は見えない」



その言葉に腕を組んで、ため息を吐く。

そして、俺は口を開いた。



「加害者は昏倒状態……何故、意識不明なのか現代医療では不明。目を覚ましていない方がおかしいとも言えるぐらいだ」


「そうか」



結衣が凶器を手に取り、眺める。



「結衣……『思考操作』や『マインドコントロール』、『催眠術』の類か?」


「さぁな」



結衣は凶器を元の場所に戻して、俺の方へ視線を向けた。



「情報が足りん。被害者……いや?加害者か?ややこしいな……そいつの情報を寄越せ」


「あぁ、そうだな……分かったよ」


「カルテも寄越せ。特殊な傷や、異常はないか?」



俺は悩みながら、ファイルにまとめられた紙を流し見る。



「身体中の毛細血管に裂傷……内出血している箇所が多数ある」


「……ふむ、『異能』と無関係ではないな」



俺の持っていたファイルを奪い取り、結衣が読む。

その横暴な態度にため息を吐いて、一歩引く。



「俺はちょっと和希くんの所に行ってくるよ」


「そうか」


「後で迎えに来るからな」


「そうか」



こうやって集中している結衣は梃子でも動かない。

呆れながらも、その様子に頼もしさを感じつつ……俺は現場を後にした。


私用車に乗り込み、エンジンをかける。

ドリンクホルダーに載せていたペットボトルを開けて……水に、口を付けた。


……あれ?


もっと飲んでいた気がするが……こんなに残っていただろうか?


まぁ、良いか。


ほんの少し、頭に引っかかった事を無視して、俺はアクセルを踏んだ。

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