第4話 惨劇を貴方へ

俺、望月もちづき 正人まさとは流れるまま、ただ楽な方へ、楽な方へと流れて生きて来た。


抱きたい時に女を抱いて、飲みたい時に酒を飲んだ。


それを許される才能が、俺にはあった。


俺はフリーランスのデザイナーだ。

それも引くて数多だった。

有名ブランドのポスターを手掛けた事もあるし、一等地の街頭に掲げられる看板だって俺が作ったものだ。


誰からも尊敬されたし、誰からも好かれた。


だから許された。

俺には人を食い物にしていいと、神様が許してくれたんだ。



だから、だから。



だから。



だから。




こんなの、何かの間違いだ。

間違いなんだ。



暗い路地裏で、俺は壁に背を向けていた。

人通りの少ない道で『こいつ』を見つけた瞬間に、俺は逃げ出した。

逃げ出した筈なのに。


気付けば足が、こんな、路地裏に……何故か、運ばれていた。



そして『コイツ』。


目の前にいるのは……何だ?

誰だ?ではない、何なんだ?


黒いレインコートを着た、2メートル近い巨体。

レインコートの隙間からは青白い皺くちゃの肌が見える。

それはまるで死体のような皮膚で、少なくとも真っ当な人間ではない。


そして、顔は。


かろうじて、人だとは分かった。

だけど、人ではない。

人の形をした、化物だ。


溶けてケロイド状になった皮膚に、二つの充血した目が付いていた。

口は……皮膚が溶けて、上と下の唇が繋がっている。

鼻は削ぎ落とされていて、骨すら見えない。


それでも口がある筈の裂け目から、低く深い呼吸音が聞こえた。



「ひ、ひぃっ……」



目の前にいる『何か』が歩く。

キリキリとコンクリートが擦れる音がした。

ひとりでに、地面に切り傷が出来ていた。


何も持っていない筈なのに、何かを持っているような仕草をしている。

『コイツ』は物理法則を無視した、本物の化物だ。


現実な訳がない。

俺は薬なんてやってないのに、なんで幻覚を見ているんだ。



叫ぼうと口を開いた、瞬間。



目の前の化物の手が伸びた。

腕を捕まえられ、引き寄せられる

そのまま俺の体に巻き付いて、先端が口元へ近づいてきた。


まるで、触手のようだ。


そんな触手がずるりと、変な液体を散らしながら……俺の口の中に入ってきた。



「ん、んむぐっ!?」



声を出すことは出来ない。

喉までそれは到達していた。


嗅覚に腐臭が充満する。

舌に強烈な酸味と苦味がくる。

喉が焼けるように痛い。


吐きそうだ。

だが、死なない為には鼻で呼吸する必要がある。


刺激臭に涙が止まらなくなる。



『ネぇ』



低く、鈍い、奇声のような男の声が聞こえた。

現実に存在する人間とは思えない声に、悪寒が走る。



「んぐっ、んがっ、ぃい……!」



叫ぼうとする。

身を捩ろうとする。


だが、万力のような力で締め付けられて何もできない。



『シズかにシて?』



短い言葉だった。

だが、その命令を断れば……どうなるのか。

理解できなくて、それでも怖くて俺は黙って従った。


俺が静かに、抵抗をやめた事を確認し……目の前の『化物』は顔を近づけた。

血の臭いがした……それに、腐った魚のような臭いもした。



『ムスコに、デンワをかけテ?』



息子?

和希の事か?

何でだ?

何なんだ?

何が目的なんだ?


俺が戸惑っていると、俺の口元を覆っている触手が太くなった。

呼吸がし辛くなって、慌てて剥がそうとする。


無理だ、剥がせない。

万力のような力で固定されている。



『ベツにイイヨ。ムリなら……アナタをコロして、ベツにカンガえるから』



充血した赤い目が、俺を覗き込んだ。

『コイツ』は俺の命なんて、どうでもいいんだ。


あぁ、分かった。

この超常現象みたいな人殺しの化物。

コイツが巷で噂になっていた、連続猟奇殺人鬼の──



『ワかッたなら、クビをフって?イマすぐに──



必死に首を振る。

触手が喉まで届いていて、嘔吐きながらも必死に頷いた。


死にたくない。

少なくとも……ニュースで報道されるような、溶けた死体にはなりたくない!

こんな所で意味も分からず、ゴミクズのように殺されたくない!



触手が緩んで、片腕がフリーになった。


俺はその手で懐の携帯電話を取り出し……パスコードをうつ。

画面を開いて、電話を掛けた。

数回のコールの後、通話が開始した。



『どうかしたんですか?』



他人行儀な息子の声が聞こえた。

どうかしたかって?

どうかしてるに決まってるだろ?

俺は声を出そうとして──



「んぐっ、ん、がっ……」



喉の弁が塞がれたような感触があった。

柔らかくてブニブニとした感触が喉に充満する。

吐き気と共に、視界の半分が真っ暗になった。

息が鼻からしか出来ない。


苦しい、苦しい、苦しい苦しい苦しい!


何で俺が、こんな目に遭わなきゃならないんだ。

意味が分からない、理不尽だ!



『もしもし……?』



返事を、返事を、助けを呼ばっ──




ずるり、と何かが胃の中に入ってきた。

触手の先端が千切れて、俺の身体の、中に──



触手が俺の口から離れる。

やっと、呼吸が出来る……息を吸おうとして、咽せた。

咳き込んでいると、口元に携帯電話を押し付けられる。


だけど俺は今、それどころではない。

体の中で何かがビチビチと蠢いて、俺の体に、内側からくっ付いて──



「あぁ、和希。荷物が多くてな、迎えに来て欲しいんだ」



それは俺の口から漏れた。

勝手に口が動き、勝手に話した。



『え?あっ、ちょっ──


「頼んだよ」



言ってない!

言ってない!

そんなこと、言ってない!

何で、勝手に!?



そして、怪物が太い指を器用に使って通話を切った。

体に巻き付いていた触手が離れて、俺は地面へ降ろされた。


ごろり、と転がる。

冷えたコンクリートで肌が擦れたが、気にもしない。


咳き込む、腹を叩く。

指を喉に突っ込む。

体に入れられた『何か』を吐き出そうとする。


咳き込み、咽せて、強烈な吐き気が──



『アーあ、ムダなのにネ』



目前の怪物が太く、ブヨブヨとした指を振った。

人間離れした容姿の怪物が、人真似をしているように見えた。


一瞬、気を取られた。


そして。



「んぐ!?」



喉元で何かが膨れた。

さっきまでと違う。


完全に呼吸が出来ない。

息が出来ない。


死ぬ、死ぬ、死ぬ。


頭でパチパチと火花が散る。

視界の縁が黒く染まる。

ボヤける。



「んぐ、む、むむむ、ぐむ、むむむ……!?」



くぐもった声を出すけど、息は吸えない。

パニックになり、身を捩る。


立ち上がれずに、コンクリートを爪で擦る。

爪が割れて、血が出る。

痛みを感じる、それでも止められない。

苦しさは紛らわせない。

痛みと息苦しさで気が狂いそう……いや、狂っていく。



『ダイジョウブ、シタイはムダにしナイから……』



意識が朦朧とする。

霧がかり、もう体を動かす余力もない。

ただ、横になる。


熱った体に、コンクリートの冷たさを感じる。


地面に転がる携帯電話が、着信音を鳴らしている。



嫌だ、嫌だ、嫌だ!



『アンシンして、死んデ?』



嫌だ!死にたくない!

嫌だ嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!

死にたくない!死にたくない!

嫌だ!

嫌だ!嫌だ!



嫌だ!



嫌だ。



嫌、



だ。








◇◆◇






僕は携帯電話を握って、駅前に来ていた。

クソ親父に呼ばれて……一人でだ。


希美は留守番だ。

どうせ帰ってきたら顔を合わせるだろうけど……それでも、合わせたくなかった。



「……くそっ、どこで待ち合わせるかぐらい言ってから切れよ」



手元の携帯電話を開いて……山積みになった不在着信を見る。

この辺りに駅は一つしかない……ここに来ていると踏んで足を運んだのが……。


苛立ちながらも、もう二度と会えなければ良いのに……なんて考えた。


そして、携帯電話を閉じようとして──



通知音が鳴った。




「……ん?」



だけど、通話の通知じゃない。

ショートメッセージで……座標の情報が飛ばされて来た。

恐らく、クソ親父の現在地だ。


それは……ここから歩いて5分ほどだ。



眉を顰めて、僕は指定された場所に足を進める。



「全く、何がしたいんだ……?」



僕は少し眠気を感じながら、苛立ちつつ……進んでいく。

夜ももう遅くなって来た。


駅前から離れれば人はもう居ない。


夜は更ける。


頭上の月は雲に隠れていた。

街灯だけが街を照らしている。


背筋が冷えて、ゾクリとした。

灯りを失った看板が、夜風でカタカタと音を鳴らしている。


こうやって、暗闇にいると嫌な事ばかり思い付く。

脳裏に、ずっと気に掛けている連続猟奇殺人事件の記事が──



「……早く、連れて帰ろう」



誰に言う訳でもなく、自分に言い聞かせる。


怯えているのか?

あぁ、そうだとも。


怖いんだ。


恥ずかしくはない。

現実的な危険が見えている時、それから逃れようと心が警鐘を鳴らすのは……おかしい事じゃない。



完全に人影はなくなって、それでも足を進める。



そして……ビルと、ビルの間に立った。



「……え?」



位置情報から読み取れなかったけど、ここは……路地裏だ。

道ではない……何で、こんな所に?


位置情報は奥の暗闇を指していた。


ごくり、と喉を鳴らした。

口の中は乾いていた。



「くそ、くそっ……本当に、面倒くさい……!」



膝を叩く。

震えていた。


一歩、一歩、奥へ進む。


怯えながら、それでも……大きな事は起こらないだろうと楽観的な観測を持って。


だから、奥へ進めた。

進んでしまった。



そして──




ぴちゃ。



ぴちゃ、ぴちゃ。



何か、水滴が垂れる音がしていた。



雨……いや、今日は降ってない。

水漏れ、だろうか。



ぴちゃ、ぴちゃ。



奥へ進めば進むほど、音は大きくなる。


何の音だ?

何が溢れているんだ?



僕は奥へ、進み──




「あ」




見た。



自身の父親が……大きく、膨れ上がり、転がっているのを。

およそ、人の形状を保っていないほど、大きく風船のように膨れ上がっているのを。


人相が歪むほど、膨張しているのを。


そして、目を含む身体中の穴から血を垂れ流しているのを。



「え、あ……?」



その側に……黒いレインコートを被った、巨体が立っているのを、見た。

レインコートの下はブヨブヨの肌で、血の気を感じさせない。


僕の声に反応して、そいつが振り返った。

顔はぐずぐずに崩れていて、充血した二つの目がバラバラに動いていた。


ギョロリ、ギョロリと。


僕を、見て、いた。



「あ、あぁ……」



思わず、腰が抜けて、尻餅をついたんだ。

なんで、なんでなんで……?

こんな所で、腰を抜かしている場合じゃないのに。


僕の掠れた声を聞いて、化け物は興味を失ったように膨張した肉塊に顔を向けた。


ブツリ。


肉が裂ける音がした。

膨張した肉体は傷口から血の泡を吹き出した。


父親の反応は全くない。


死んでいるんだ。

分かってしまった。



でも、なんで……何を使って切り傷を作ったんだ?


何も持っていないのに、何で……?



いや。


違う。



何か、持っている。



血が付着した見えない何かを持っている。



それは、まるで──



視界にノイズが走る。

手元に握っている何かが見えてくる。



『剣』だ。

フィクションに出てくるような……ガラスで出来た芸術品のような『剣』だ。


赤黒い半透明の剣に、青い脈が走っていた。


それが父を傷つけた物の正体だ。



……ぶぶぶ。

ぐちょぐちょ。

ぎちぎち。



瞬間、異音が耳に響いた。



怪物への注視をやめて、見渡す。


剥き出しになった内臓のような何かが、壁を伝って這いずっていった。



「な、んだこれ……?」



人の目がついた蛆虫が、地面を這いずっていた。

人の手のような形をした蛾が、壁に張り付いていた。

人の腸に足が生えたような姿をしたムカデが、歯音を鳴らしていた。



不可思議で、不愉快だ。

口の中に酸っぱいものが混じる。



まるで、臓物で作った昆虫園だ。

悍ましい悪夢のような光景だ。

グロテスクで悪趣味な宗教画のようだ。



そんな見る事も躊躇うような気持ちの悪いバケモノ達が……質感を持って、僕の脳を恐怖で焼いた。



「う、うあ、あぁ」



悲鳴が漏れる。

情けなく、か細く、声を漏らした。


視線を仕切りに動かす僕に、バケモノが振り返った。


充血した目が、僕を見下ろしていた。



『ミえた?』



低く鈍い、ノイズの走った声が聞こえた。



「あ、えっ……?」


『ミえた?ミえた?ミえたんだ?』



ガリガリと、バケモノの持つ『剣』が地面を削った。



『アァ、ヨかった。ならモウ、この死タイはイらないネ』



剣が振るわれた。

横に薙いで肉塊を……僕の父親を切り裂いた。

真っ二つに裂けて、臓物が溢れる。


……そして、切断された死体は──



「と、溶け……?」



溶け始めた。

腐臭を撒き散らしながら、ゼリーのような姿になっていく。



「あ、ひっ、なんっ」



僕は知っていた。

見た事はないけれど、溶ける死体の話を知っていた。


何度もニュースで見た。

数年前から、知っていた。


嘘か本当か、都市伝説でも語られていた。



死体を溶かす、連続猟奇殺人鬼の話を。



ギョロリ、と目が動いた。

左右、まばらに動いて、僕を見た。



『ハヤく、『剣』をミせて?』



血と臓物を撒き散らしながら、口を開いた。

ゴトリ、と溶けた死体が倒れた。



「ひ、ひっ!?」



叫んで地面を手で叩いて、後退りした。

転がるように逃げようとして……周りにいる肉で出来た虫達が僕を見ていることに気づいた。


視線、視線、視線、視線。

悪意に満ちた醜悪な視線が、僕を貫いた。



立ち向かう?

そんな事、少しも考えられなかった 。



初めて感じる命の危機に、心臓は痛いほど鳴っていた。



「う、うわあああぁぁ……!?」



僕は足を無理やり立てて、逃げ出した。

路地裏から出て、夜の街を走る。


寒気か、怖気か、身体を冷やしながら走る。

息も切れて、肺や内臓が痛くても、足を止めない。


追いつかれたら死ぬ!

死んでしまう!

殺される!



逃げて、逃げて、逃げて。



背後を振り返ると……追いかけては居なかった。

安堵の息は吐けない。

まだ怖い……怖い、怖い。



「か、ひゅっ……げほっ……」



喉が枯れている。

呼吸が乱れている。

動悸している。


目を強く閉じる。

涙が出てくる。


嘘だ。

今見た景色は夢だ。

現実じゃない。


だって、あんな、現実味のない景色は──



鼻はまだ、血の臭いと腐臭を覚えていた。

目を閉じれば、グロテスクな光景が視えた。



「う、ぷ……」



用水路に吐瀉する。

喉の奥が酸っぱい。

鼻が詰まって、口で息をする。


ここが安全だという保証はない。

どこかに逃げなきゃ。

どこに?


僕は重い足を進める。

思考が定まらないまま、現実から目を逸らして。




そして。



気付けば、自宅まで帰って来れた。

僕は震える足で、玄関のドアを開こうとして─


ガタン!


と、扉に向かって倒れてしまった。



鍵を開ける余裕もない。

僕はドアに向かって倒れこみ、朦朧とする意識を休める。


玄関に向かって走ってくる音が聞こえた。

屋内から、慌てた様子を感じとれた。


そして、玄関のドアが開いた。



「だ、誰ですか……?」



視線が僕を見下ろす。

希美だった。


目が合った。

その目は驚愕に染まっていった。



「お、お兄ちゃん!?」



ドアが勢いよく開かれて、希美が飛び出した。



「希美……?」


「え、あれ!?大丈夫!?どうしたの!?と、とにかく中に入って!」



手を引かれて、玄関へと引き寄せられる。

震えながらも、かろうじて足は動いた。



「お兄ちゃん、何があったの?お父さんは……?」



身体が震える。

玄関を入ってすぐの廊下で、僕は蹲っていた。


希美の声が聞こえて、安堵から涙を流す。

ようやく、あの異常な世界から逃げ出せたのだと……息を深く吐いた。


深く、深く、深く息を吐いた。

少しずつ落ち着いて来て……それでも流れる汗は止まらない。


暑いからじゃない。

恐怖から、ストレスからだ。



「ねぇ、お兄ちゃん……?」



自分の体を抱く。

大丈夫だ。

大丈夫なんだ。


きっと、大丈夫だ。

そうだ、さっきのは……きっと夢だ。

現実なんかじゃない。


大丈夫、大丈夫だ。


明日から、また普通の日常が始まるんだ。

















『ハヤく、『剣』をミせて?』



脳裏に、バケモノの顔が浮かんだ。

言葉が耳に聞こえた気がした。


剣?

剣って何だよ……?


バケモノの握っていた……あの『剣』のことか?

そんなの、僕に出せる訳がないだろ……?


僕は……ただの、子供だ。



「……お兄ちゃん」



希美の声が聞こえる。

それでも、反応出来なかった。


今の僕に少しの余裕もない。

僕には誰も守れない。


ただ怯えるだけの……無力な子供なんだ。



涙を流して、鼻水を垂らして、僕は嗚咽を溢し続けた。






◇◆◇





ずるり。

ずるりと。


顔が蠢く。

まるで火傷を負って溶けたような肌が、蠢き、形を変える。


白く肥大化した皮膚も、骨格レベルで変形していく。



『ン、グ……え、う、ぎ──



激痛に身を捩りながら、身体を作り替える。


そして。



「っ、く……はぁっ……う、ぷ……気持ち、悪い……」



元の『楠木 稚影』に形を戻した。


肉体操作による、高度な変装。

……いや、変身か。

それは、実験によって培われた技術だ。

被験者を死なせずに形状を変えて、元に戻す……そんな実験を繰り返していた。

自身の身体に行うのは……まだ、片手で数えられる程しか試していないが。

急激に変化させれば内臓に負荷がかかるが、時間をかければ問題ない。


そしてもう一つ。

人体の声帯を操る技術。

和希の父、正人に喋らせた技術だ。

肺や喉などの肉を操り、喋らせる事ができる。

他にも足の筋肉を操る事で狙った場所に走らせたり……なんて。


結局は私が殺してきた時に検証して、訓練した能力だ。

彼らの死は無駄にはならなかった……それだけで、少しは心が軽くなる。



目の前の鏡を見る。

ここは廃棄された野外トイレだ。

経営破綻した工場の側にあり、不法侵入している。


人影はなく、誰も来る事はない。


そこに、全裸で……いや、黒いレインコート一枚だけを身にまとい、立っていた。



息を吐いて、トイレに隠していたリュックを手に取る。

レインコートを脱ぎ捨てて、リュックに入っているズボンとシャツに体を通す。

スニーカーを履いて、袖を嗅いだ。



「……臭いな」



……家に帰ったら、シャワーを浴びよう。

少し、臭う。


和希の父を溶かした時に発生した腐臭と、血の臭いだ。



私は空のリュックを背負い、黒いレインコートを手に持つ。

レインコートには……返り血が付着していた。

それが手に付かないように注意しつつ、外に出る。


空を見上げると、月が雲に隠れていた。

好都合だ。


暗闇は私に味方してくれる。

私の悪行を隠してくれる。


立てかけられた錆びたドラム缶に、レインコートを投げ入れる。

そして、側に隠しておいたペットボトルを手に取り……中の液体を投入する。


使い捨てのライターを点火して、そのライターごとドラム缶に投げ入れる。

すると勢いよく発火した。


メラメラと。


パチパチと。


音を立てて燃えていく。


炎に私の顔が照らされる。

熱を感じる。



「……ふふ」



そこでようやく、私は目論見が達成したのだと実感した。



「……ふふふ」



ずっと、待っていた。

ずっと、練っていた。

この時を……あの瞬間を、成し遂げるために。



「……うふ、ふふふ」



和希は異能者として覚醒した。

私が作った演劇で……彼は目覚めた。


私の『剣』を目で追った。

並べておいた『肉蛆』達に気付いていた。


後は、もう少し。

『剣』を作り出せるようにさえ、なれば。



「……う、ふ……ふふ……」



和希の顔を、思い出した。

揺らいだ目で、私を見ていた。



「う、ひ…………」



彼は怯えていた。

苦しんでいた。


人並みに、ゲームの主人公だとか、そんなの関係なく。



「……ひ……うぐっ……」



彼は傷付いていた。

彼は泣いていた。


私が傷付けた。



「うぐ……ぐ、うぅ……うっ」



彼は、あんなにも良い人なのに。

善性を持っていて、誰かを守るために頑張れる人なのに。


それなのに。



「うぅ、うっ……ぐすっ……う、うぅ……」



友達である筈の私が傷付けた。

酷い奴だ。

最低だ。



「わ、だし……何で……泣いて……」



涙が溢れる。

頬は笑っていても、笑おうとしても……。


涙と嗚咽だけが溢れていく。



自分の行っている行為は正しい事なのだと言い聞かせる。

大局を見れば正しい事だ。


彼が『剣』に目覚めなければ、より多くの人が苦しむ事になる。

彼が精神的苦痛を受けず、力が弱いままなら……何人もの罪のない人が死ぬ。


だから、正しい事なのだ。



「う、うぅ……ぐ、う、うぅ」



それでも、だけど。


私は。


私に。


私に、彼の友達を名乗る資格はない。

和希に好かれる価値はない。

希美に慕われる価値はない。


分かっている。

分かっているのに……やめられない。

止まる事なんて出来ない。


今更、もう。



あの日、兄の死に誓った願いは……呪いは、私から切り離す事なんて出来ない。



「私が、やらないと……私が、傷付けないと……私が、私が……私、私……」



酷い人間だ。


他人を殺して、友人を傷付けて、裏切って……そして、勝手に自己嫌悪している。


正しい事だと言い聞かせて、誰かがしなければと言い続けて、私は悪行を重ねている。


だけど、もう走り出してしまった。

私が敷いたレールだ。

そこから外れる事は……今まで走って来た道を無意味にする事になってしまう。


兄の死も、私が殺して来た人も、苦しんでいる和希も。


みんな、みんな無駄になってしまう。



「和希……希美……兄さん……」



あぁ、そうだ。


だから、こんな所で挫ける訳にはいかない。

涙を拭い、私は立ち上がる。



『剣』を召喚して、強く握る。

赤黒い刀身の、青紫色の筋が脈打つ。


能力を行使している証拠だ。



自分の身体を弄り、神経伝達物質を分泌させる。

ストレスを緩和し、身体を安らげる。

苦しいと思う感情を消して、いつもの私に戻っていく。



大丈夫。

笑えている。


私は大丈夫だ。

何も問題はない。



深く、息を吐いた。



……ズボンのポケットに入っている、携帯電話が震えた。

マナーモードを解除しつつ、画面を見る。


そこには『望月 希美』の名前があった。


通話の開始ボタンを押して、耳元に近付ける。



「もしもし?どうしたの、希美ちゃん?」



私の声はもう、震えていない。

薄暗い夜空の下で、私はいつもの笑顔を浮かべていた。






◇◆◇






一体いつまで、僕は蹲っていただろう。

廊下から場所を移して、自室に籠って……震える身体を布団で包んで。


赤子のように……怯えている。


先程より、少しマシになった。

警察に電話しないと、なんて脳裏に浮かんだ。


それでも、電話を掛ける事すら出来なかった。


希美に事情を話さないとならないのに、声が出なかった。



失うのが怖いと思っていながら、何も行動出来ない。

その事実がまた、僕を怯えさせた。


もし。


あのバケモノが僕を探して、この家に辿り着いたら……どうなる?

希美を逃さないと……僕が、足止めでも出来れば。


無理だ。

今の自分に何が出来ると言うんだ。


僕は何もできない。

誰も救えない。


全てを失うとしても……僕は何も──



コツコツと、ノックの音がした。

そして……少しして、ガチャリ、とドアが開いた。


僕は怖くて、ドアを見れなかった。

蹲ったまま、暗い部屋で……何も出来ない自分を蔑んでいた。


なのに、部屋に入って来た誰かは……僕に向かって、近づいてきた。


足音が一歩、また一歩、近付いてくる。

怖い、怖い、怖い。


そして、何かが僕の背中に触れた。

指だ。

指の感触が僕の背中を伝った。



「和希……大丈夫?」



声が聞こえて、覆っていた布団から顔を出した。

そこには……いつもの笑顔を浮かべている稚影の姿があった。



「稚影……?」


「何か……ううん、何があったの?」



僕は話そうとして、口を開いて……咽せた。

胸の奥が震えて、上手く声に出来ない。



「大丈夫だよ、和希。ゆっくりでいいから」



背中を手のひらで撫でられた。

服の上からだけど、不思議と温かさを感じる。


僕は目を強く瞑った。

大粒の涙が溢れた。



「あ、えっと……僕、その……」


「うん」



稚影が僕の小さな声を聞き取ろうと、顔を近付けた。

その頬は優しげに緩められていた。

僕を安心させようとしてくれている。


情けなく感じながら、少しずつ勇気が湧いてくる。

好きな女の子に……こんな、情けない姿は見せたくないからだ。



「さっき、実は──



僕は少しづつ、先ほどの……現実感のない、悪夢のような出来事を話し始めた。

例え、信じてくれなかったとしても……。






◇◆◇





涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった和希を見る。


どうして、私がここにいるのか。

……それは、希美からの電話で、和希の様子がおかしいから助けて欲しいと呼ばれたからだ。


一度家に帰り、体についた悪臭を洗い流し、ここまで来た。


最初は……私が、どの面を下げて彼を慰めようとするのか……断ろうと思っていた。

だけど……希美の不安そうな声を聞いて、私は自分の感情に蓋をして、和希に会いに来た。


和希の様子は……想像していたよりも、酷かった。

こんな姿は見た事がなかった。


そうだ。

彼はまだ、中学生だ。

若く、幼い。


怯えた様子で、先ほどの事を話す彼を見ると……胸が痛い。

痛む権利など、ない癖に。



「和希、警察には電話したの?」



だけど、そんな様子は顔に出さない。

出したら……全て、無駄になってしまうからだ。



「あ、えっと……まだ、かな」


「なら、した方がいいよ。ほら」



机の上にあった和希の携帯電話を、手に取って渡した。

和希は……それを見て……何もせず、私の方へ視線を戻した。



「……どうしたの?」



不思議に思って、首を傾げた。



「稚影は……信じて、くれるのか?」


「何を?」


「あんな……意味の分からない、変な、僕の話を」



そこでようやく、和希の言っている事が分かった。


あぁ、そうだ。

確かに……私の演じたグロテスクな風景、殺害現場、怪物。

どれもこれも、幻覚と疑われても仕方ない。


普通の人間ならば、和希は頭がおかしくなったのだと、そう疑うだろう。



でも──



「信じるよ」



私は違う。


それは彼を信じているから……ではなく、私が作った演劇だからだ。


……もし、私が前世の記憶に目覚めず、彼が『剣』で父を貫いて……それで、もし非現実的な光景を告白されたとしたら……信じられるだろうか?

きっと、信じられない。


だけど。



「稚影……」


「誰も信じてくれなかったとしても、私が信じるよ。だから、ほら……私は和希の味方だから」



和希の頭を撫でる。

……和希は少し頬を緩めて、その後、嫌そうな顔をした。


……うん、男の子だもんね。

頭を撫でられるのは嫌なんだろう。



「僕は……電話、掛けるよ。警察にも話すよ……」



少しずつ、気を取り直していく和希に私は頬を緩めた。



これから先、彼は何度も傷付くだろう。

いや、私が何度も……傷付ける。


打ちのめされて、傷付いて、苦しんで。

打ちのめして、傷付けて、苦しめる。


そうして……私は──



「大丈夫だよ、和希」



和希を抱きしめる。



「稚影……」


「辛い事があったら、何度でも……いつでも、私が慰めてあげるから」



これから先、どれだけ辛い思いをさせるのか。

だとしても、私は彼が大切だという気持ちは本物だから。



「……ありがとう、稚影」



ようやく、和希が笑った。

少しは立ち直れたようだ。



私は……あぁ、なんて酷い人間なのだろう。

クズだ。最低だ。恥知らずだ。傲慢だ。異常者だ。悪人だ。ゴミだ。唾棄すべき人間だ。許されない。


腹を引き裂けば、腐りきった血が流れているだろう。


だとしても、私にはもう……この『道』しかない。


裏の私が、彼を傷付けて。

表の私が、彼を癒す。


……罪悪感を感じたとしても、目的へ行動を止める事はない。


いつか、和希に私なんかよりも好きな女の子が出来て。


いつか、私の事が必要なくなるまで。


その時までは。



「……ごめんね」



小さく、彼に聞こえないように謝った。


傷付けて、ごめんね。

裏切って、ごめんね。

これからも、ごめんね。


許してくれなくても良いから。

許して欲しいなんて、思ってないから。


それでも、私は。


ただ、ただただ、小さく……独りよがりの謝罪を溢した。






◇◆◇






僕は希美に父が死んだ事を告げて……警察に電話した。

真正直に話はしなかった。


どうせ信じてくれないからと……黒いレインコートを着た大男が、父の溶けた死体と共にいたと……そう通報したのだ。


警察は疑いながらも、現場に向かい……死体を確認したらしい。


ただ、夜も遅く、僕の憔悴具合から……細かい事情聴取は翌日になった。




僕は……僕と、希美と、稚影は、同じ部屋で寝た。

彼女たちは僕の事を心配してくれていた。


その事実が嬉しくて……僕は……もう、怯えていられないと、奮い立たせた。



川の字に並んで……恐怖と共に、恥ずかしさを感じながら。

ゆっくりと手が伸びてきて、僕を安心させようと抱きしめた。




そのまま僕は眠りに落ち──




稚影に抱きしめられながら、翌朝を迎えた。

悪夢のような夜が過ぎ去ったんだ。


汗臭い身体をシャワーで流して、顔を洗う。

……目の下が少し黒くなっていた。


深く息を吐いて、呼吸を整える。

水道水を口に含んで……吐き出した。



テレビの電源を付ける。

……昨日の、父が殺された事件の話が放送されていた。


死体の身元は分かっているはずなのに、不明と、そう放送されていた。

被害者が分かってしまえば、遺族に迷惑が掛かるからと報道規制しているのだろう。



「お兄ちゃん」



ドアが軋んだ音を立てた。

希美がそこに立っていた。



「あ、あぁ……希美か」


「うん……朝ごはん、食べる?」



食器棚の籠から、菓子パンを取り出して……僕を見た。



「……貰おうかな」



吐いた所為で腹が減っていた。

僕は受け取った菓子パンを口に含む。

すると、机にゴトリと音がした。


希美が牛乳の入ったコップを置いたのだ。

彼女は無言で、僕に笑いかけていた。


希美は……父の事をよく知らない。

思い出もない。

他人のようなものだったはずだ。

だから……気丈に振る舞えているのだろう。



「……ありがとう」



コップに入った牛乳を口に含んだ。


感謝の言葉は、朝食に対する事だけではない。

蹲っていた僕を励ましてくれた事に対してもだ。


その事は希美にも分かっているようで、薄く笑った。



「稚影ちゃんにも、ちゃんと面と向かって言った方がいいよ」


「……そうだな。うん、分かったよ」



食べ終わった菓子パンのゴミ袋を、ゴミ箱に投げ入れた。

そして、椅子から立ち上がって──



「あ、稚影ちゃん、今シャワー浴びてるからダメ」


「え、あ……あぁ、そっか」



額を揉んだ。

普段なら慌てたり、恥ずかしがったり……しただろうけど、今はそんな気分になれなかった。


そのまま座ろうと、椅子を引いた。




……チャイムが鳴った。




「……誰だろう?」



希美が首を傾げた。

僕の脳内には、昨日の化物の姿がフラッシュバックしていた。



「僕が出るよ」


「え、お兄ちゃん、大丈夫?」


「あぁ、大丈夫だから……そこに座っててくれ」



居間のドアを開けて、廊下に出る。

傘立てが視線に映る。


……無いよりはマシだ。

最悪の事態を予測して、僕は傘を一本、手に取った。


こんな物で……勝てるとは思わない。

だって、相手は……大きく、鋭い『剣』を持っていたのだから。


日本には銃刀法がある筈なのに……どこで、あんな凶器を?



脳裏に、ノイズが走った。



『ハヤく、『剣』をミせて?』



バケモノの言葉を思い出した。



「『剣』、か……」



まるで、僕も持っているかのような言い草だった。

もし、『剣』があれば……僕は、自分の身を守れるのだろうか?

大切な人を守れるのだろうか?


首を振る。

アイツは異常だった。


異常者の言葉を信用する訳にはいかない。

絶対に嘘だ。

狂ってるんだ、アイツは。



僕は足を進めて、玄関の鍵を開けた。

喉を鳴らして、ドアを開いた。



そこに居たのは、スーツを着てメガネを掛けた男の姿だった。



「おはよう、君が望月 和希くん?私はこういう者なんだけど……」



見せられたのは……警察手帳だった。

そこには神永 啓二という名前と、彼の顔写真が載っていた。



「あ、はい……」


「少し、お話いいかな?」



啓二さんが身を引いた。

……外に出てこいって意味か。


別にやましい事はない。

僕は靴を履いて、ドアの外に出た。


家の前には黒い軽自動車が止まっていた。

パトカー……らしくない見た目に困惑しながらも、啓二さんについて歩く。



「……すまないね。少し、中で話そう」



そう言って、車を指差した。

僕は黙って頷いて……車の裏側に誰かが立っていることにきづいた。


それは長い黒髪をゴムで止めている、癖毛の女性だ。

歳は……僕より一回り年上か。

それでも若そうだ。



「……おい、結衣。車で待っておけって言ったよな」



隣の啓二さんが忌々しげに呟いた。

その言葉遣いは僕とは違い、親しげな……気を許した相手への言葉遣いだった。


結衣、と呼ばれ女性が啓二さんを見た。



「……フン、手っ取り早く、確認した方が良いと思ってな」



結衣……さんが、僕の方を見た。

底冷えのする鋭い目付きだった。

まるで僕を信用していない、突き放すような視線。


そして、その手には──



「……お前、見えてるな?」



緑色の半透明な素材で出来た、細身の剣が握られていた。

橙色の筋が走っていて……まるで……昨日、見たバケモノが持っていた剣と似ていた。



息を呑んだ。

日常に帰ってこれたのだと、そう思っていた。

だけど、どうやらそれは思い違いだったらしい。



非現実が、僕の日常を侵しに来たのだと……逃げる事は出来ないのだと、僕は悟った。

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