第3話 血と臓物の序曲を

呼吸を乱して、走る。

朝の照り付ける太陽の下、僕は走っていた。


一定の間隔で息を吸って、深く息を吐く。

同じ歩幅で、同じ速度で、体を動かす。


焦っている訳じゃない。

ただ、同じ形で、同じ時間で、同じように走っているだけだ。


河原が見える道路を走り、石の階段を登る。

ジャージの下のシャツは汗で濡れており、少し気持ち悪い。


そのまま、帰路を走って……自宅のドアを開けた。



「あ、お兄ちゃん、お帰り」


「……ただいま」



玄関に置いてあるタオルを手に取って、汗を拭く。

そのまま廊下を歩いて、浴室へ。

シャワーを浴びて、体を冷やす。

日課のランニング……それでかいた汗を流す。



鏡を見る。


……ちょっとだけ、筋肉付いてきたかな。

肌を撫で……いや、なんか恥ずかしいな。

ナルシストっぽいし……やめよう。



稚影を守れず、情けない姿を見せてから一年経った。



あの時は偶々助かったけど……次、もしまたあんな目に遭った時……運が悪ければ。

そう思うと、居ても立っても居られなかった。



強くなりたかった。

大切な友人を、家族を守れるように。



毎朝、結構な距離を走って……寝る前にちょっと筋トレして。

なんて、やってる意味があるのか、たいして意味はないのか。

きっと、それは自分の無力感を慰めているだけにしか……ならないのだろうけど。

それでも、何もしないよりはマシだ。


息を深く吐いて、頭からシャワーを浴びる。

毎朝のランニングは、身体を鍛えながら目が覚めて一石二鳥だ。


栓を閉めて、浴室を出る。

タオルで身体を拭いて……制服に着替える。


リビングに向かえば、希美が朝のニュース番組を見ながら菓子パンを食べていた。

ニュース……と言っても、バラエティよりの番組だ。


新しく出来たショッピングモールがどうだの、新型の携帯電話がどうだか、新作の映画が……そんな情報が垂れ流されている。


でもまぁ、それで良いのだろう。

朝から陰鬱なニュースを見たい人は少ない。


だから、決して流れないだろうけど……。



今も、死体を溶解させる連続猟奇殺人事件は続いている。

未だに警察は犯人を捕まえる事ができず、犠牲者の人数も9人となった。


しかも、一度、この街でも死体が発見された。


あの事件を僕は、どこか遠い場所の出来事だと勘違いを──


いや、違う。

ただ、そう思いたかっただけだ。

僕達には関係のない話だと信じたかったんだ。


僕は椅子に座り、机の上の菓子パンを手に取る。

袋を開けて、口に含み──



「お兄ちゃん?」



……手が止まっていたらしい。



「……どうかしたのか?」


「いや、何もないよ」



指摘をされても、知らないフリをして食べ進める。



「……変なの」


「…………」



ほんの少し、静寂があって、希美が目を逸らした。


平穏な朝。

安らかな日常。

怖がる必要なんて何もない。



筈なのに……。


ほんの少し、僕は怯えていた。






◇◆◇






家のドアを閉めて、希美と通学路を歩く。

希美も今年で中学生になった。

通学時間は一緒だから……毎朝、一緒に学校へ行っている。


……そうして学校へ向かう途中。

通学路から少し離れて、寄り道をする。


角を曲がって、視線を前に向けると……見知った少女の姿があった。

天使の形をした銅像の下で、本を持った少女が立っている。

本には手作りの布製のカバーがかかっていた。



「おはよう!稚影ちゃん!」



希美の声に、持っていた本から顔を上げて……僕達へ視線を移した。



「おはよう、希美ちゃん。和希も」



仄かに笑いながら、本を閉じて鞄にしまった。

自然体で、僕も返事をする。



「うん、おはよう。稚影」



僕の挨拶に稚影が頬を緩める。

希美が稚影に近付いて、ハグをした。

二人は仲が良い……まるで本当に姉妹みたいだ。


三人、並んで歩く。

希美が真ん中で、稚影と僕が両端だ。



「でね、稚影ちゃん──


「うん、うん」



希美が稚影に話しかけて、稚影は笑顔で頷いている。


昨日見たドラマが、今日の晩御飯は、お気に入りのリップクリームが。


あまり、僕の入り難い会話が続くけれど、別に嫌ではなかった。

僕の大切な妹と、大切な親友が……二人、仲良く戯れあっている事が嬉しかったからだ。


朝の日差しに目を細めていると、何かが僕を下から覗き込んだ。

思わず、口を開いた。



「稚影……何してるんだ?」



稚影がパチパチと、瞬きをしていた。



「うん?何だか元気ないなって」



元気、元気か。

何か嫌な事があった訳じゃない。

寧ろ、毎日平穏に楽しい日々を生きている。

何も困った事はない。

理想的な日常だ。


だからこそ……少し、怖い。

それが失われる事が怖い。

だって、当たり前の毎日なんて……ずっと続くとは限らない。


クソ親父の顔が、脳裏に浮かぶ。


幸せな家庭だと思っていた。

父と母と、僕と妹。

だけど……捨てられたんだ。


急に、突然……目の前から──


嫌な記憶を振り払い、無理矢理に笑う。



「何でもないよ、稚影」



そう笑うと……稚影は、希美を一瞥した。

そして、頷いた。



「ふーん?まぁ、いいけど……何か辛い事があったら、教えてね」



そう言って心配するような事を言いながら、頬を緩めた。

笑顔を作る唇の間から、白い歯が見えて……僕は目を逸らした。


内面で渦巻き、奥底で時折顔を見せる不安……それを無理矢理に押さえ込んで、僕は笑顔を返した。






◇◆◇






下駄箱で下履きに履き替える。

すぐ後ろで、稚影も下駄箱を開けていた。


僕とクラスが異なるから、背後の下駄箱だ。

希美は学年が一つ下だから、そもそも下駄箱の場所が違う。


だから、この場にいるのは僕と稚影だけだ。



「あっ」



短く、驚くような声が後ろから聞こえた。



「……どうかした?」



稚影の方へ振り返ると、何か、懐に隠した。

白い紙のような、封筒のような……。



「な、なんでもないけど?」


「なら、良いけど」



訝しみながらも、何でもないという言葉を信じて頷く。


下駄箱に入っているのは上靴ぐらいだ。

それ以外に、それこそ懐に入れられるような物なんて無い筈なのに。



「もう、ほら。希美ちゃんが待ってるし、はやく行こうよ」



稚影が身振り手振りで誤魔化して、指差した先には希美が待っていた。



「まぁ……そう、だな」



……まぁ、こんな所で無駄な時間を過ごしても仕方ない。

僕は上靴を履いて、稚影と共に希美と合流した。



校舎を三人で歩く。

僕は意図的に歩幅を狭めて、足取りを合わせる。

希美が途中で別れて、自分の学年のクラスへ向かう。


……二人、並んで歩く。

さっきの話を訊き直したい。

だけど、言いたがらないって事は……訊かない方が良いのだろう。


だってこれは、心配してる……訳じゃなくて、ただ好奇心で訊きたいだけだからだ。



やがて、稚影のクラスの前まで来た。

僕のクラスは、もう少し奥の方にある。

だから、ここで短いお別れだ。



「和希、今日なんだけど……」


「うん?」


「少し、遅くなるから先に帰ってて良いよ」



僕も、希美も、稚影も部活には所属していない。

放課後に用事がある事なんて無い。


だから、僕らは毎日、三人で揃って下校している。

なのに……今日だけは、用事があると言う。



「……用事があるなら、手伝おうか?」



何の用事があるのかは知らない。

だけど、彼女の手助けがしたかった。


しかし、彼女は首を振った。

セミロングの髪が揺れた。



「ううん、大丈夫だから。ね?」


「……分かったよ。じゃあ、晩御飯は?」


「えっと、それは食べに行くよ。大丈夫」



稚影は僕が心配している事に気付いたのか、少し微笑んだ。

思わず目を逸らした。

見つめ続けていたら、変な空気になりそうだったからだ。



「じゃあ、また晩御飯の時にね」


「うん、またな」



軽く、小さく、手を振った稚影が教室に入っていった。

同級生達に挨拶して、男女分け隔てなく楽しそうに会話を始めた。


このまま、ここに居ればストーカーみたいだ。

僕は彼女のいる教室から離れて、自身の教室へ足を進めた。



頭上にあるプレートを一瞥する。


2-A。

教室のドアを開けて、中に入った。


既に何人も居て、騒がしくしている。

僕が入ってきた事なんて誰も気付いていない。

いや、気付いていても……気に掛けないだろうな。


自身の席まで到着して、椅子を引く。

鞄を掛けて、一限のノートや教科書を取り出して──



「よっ、おはよう。和希」


「……おはよう、沢渡さわたり



前の席に座っている奴が、僕に挨拶をして来た。


こいつは『沢渡さわたり 雄吾ゆうご』だ。

同級生の男で……お調子者の……まぁ、そうだな、僕の友人だ。



「今日も陰気臭いな……何かあったか?」


「何か?いや何も──



ふと、先程の出来事を思い出した。



「稚影の様子がおかしかったんだ」


「楠木さんの?何でだ?」



同級生の女の子の、それも下の名前を呼び捨てにしているのは僕ぐらいだ。

少し恥ずかしいが……まぁ、沢渡相手なら今更だ。



「いや……分からないんだが、下駄箱の中に何か入ってた。それが原因かも知れない」


「下駄箱か……なるほどな?」



沢渡がニヤ、と笑って頷いた。

何かに気付いた様子だ。



「……何か分かったのか?」


「そりゃあもう。ずばり、それはアレだよアレ」


「アレ?」



俺が目を細めると、沢渡が親指を立てた。



「ラブレターって奴だな」


「は?」



思わず呆れた声を出してしまった。

眉を顰める。



「何を馬鹿な事を──


「馬鹿言ってるのは和希の方だぜ。間違いなくラブレターだ」


「そんな漫画じゃあるまいし……」



確かに。

希美が買って来た少女漫画に、確かにそんな描写があったが……それは創作の話だろう?



「それに、稚影がまさか、そんな……」



だって、稚影だぞ?

あの……いや、でも……あれ?

……でも、だって。



「和希さぁ……楠木さんと仲が良いんだよな」


「あ、あぁ。そう、だと思うけど」


「だから慣れちゃって気付いてないんだよな……」



沢渡がしきりに頷いた。



「楠木さんって、まず可愛いじゃん?」



そうか?

と分からないフリをしようとしたが……いや、実際、確かに……それは、認めるしかない。

彼女は可愛らしい容姿をしている。



「で、性格も良いじゃん?」



確かにそうだ。

誰にでも分け隔てなく、優しい。

それに明るくて、誰とでも仲良くなれる。



「だからさ、モテるんだよ」



理屈では分かる。

分かっているが……何故か、納得したくなかった。


心に嘘を吐いているような気がしたが、それでも認めたくなかった。

理由も分からないのに。


……僕の様子に、沢渡がため息を吐いた。



「楠木さんは彼氏を選び放題って事だな」


「……なんか、嫌だな」



思わず、口にした。

何が嫌なのか、それは少しだけ分かった。



「独占欲って奴?」


「……違う」



いいや、そうだ。

口で言っていても、心は誤魔化せない。



学校で楽しそうに笑っている稚影。

明るく振る舞う稚影。

クラスメイトが知っている稚影。



……ふとした時に見せる憂いを帯びた稚影。

疲れた表情で、ソファに横たわる稚影。

希美に叱られて慌てて逃げ出す稚影。

僕を見つけて、嬉しそうに笑う稚影。



きっと、僕と希美しか知らない稚影が……誰かに知られるのが嫌なんだ。

家族だからか……それとも。



「ふーん……?」



ニヤニヤと沢渡が笑う。

何だか見透かされた気がして、眉を顰める。



「なんだよ?」


「気にならないなら、楠木さんがラブレター貰ったって関係ない話だよな」


「それは──



チャイムが鳴った。

教師が入って来て、沢渡は前を向いた。

話は中断されて、授業が始まる。



僕は……どうしたいんだ?

邪魔をしたいのか?

彼女の恋路を……実らせたくないのか?

それは何故?

どうして……僕は、僕は……彼女と、どうなりたいんだ?


僕は教科書を読むフリをして、思考の渦に飲み込まれていった。






◇◆◇






チャイムが鳴る。

放課後になって、鞄を持って席を立つ。

今日は……一年生は一限多い曜日だ。

つまり希美だけ、僕らより下校時間が遅い。


先に、稚影と一緒に……いいや、違う。

彼女は今日、放課後に予定があるんだった。


僕には関係のない話だけど、一緒には帰れない。

そうだ。



鞄を持って、稚影のいるBクラスの横を通り抜けて……廊下の端で、物陰に隠れる。


あー、もう。

全く……何をしてるんだ、僕は。

馬鹿なのか?


今すぐ止めなきゃならない。

こんなの、稚影は喜ばない。

彼女は僕に手紙のことを言いたがらなかった。

なのに、それを盗み見ようなんて……良くない事だ。



稚影が、ドアを開けて出て来た。

そのまま、人混みに合わせて歩き出して……僕は後ろを離れて歩く。


歩いて、歩いて。


僕の心臓ははち切れそうなほど、動悸していた。

これは悪い事だ、悪い事だ、悪い事だ。


稚影が知ったら、悲しむかも。

嫌がられるかも。

嫌われるかも。


なのに、だめだ。

足は止まらない。

隠れて、そのまま後ろを歩く。


彼女が人混みから離れて、校舎の裏へ進んでいく。



そして──



知らない男が立っていた。

多分、学年が違う。

恐らく、一つ上の先輩、だろうか。


僕は隠れて、息を殺して、耳を澄ませる。

……何か喋っている。

だけど、聞き取れない。


少しして……男が勝手に盛り上がっているようで、何やら声を荒げている。

稚影は彼を落ち着かせようと、手振りで示している。


尋常じゃない様子に、僕は思わず身を乗り出した。

だけど、ここから出ていく事はできない。


ここで僕が現れたら、彼女の隠したがっていた事を暴こうとしたって知られてしまう。



それは──




男が、稚影の肩を掴んだ。

僕は飛び出して……男の手を握った。



「なっ──


服の上から、骨張った手首を掴んだ。



「なんだよ、お前!」



強く、強く握った。

骨の感触を強く感じる。


捻り上げて、軋ませる。



「っ!痛ぇ、離せよ!」



僕は握っていた手を離して、男を押し退けた。

……見たところ、この男は運動部などに所属していないようだ。

握った手の感覚に、鍛えている様子は無かったからだ。



「…………」



無言で睨みつける。


稚影を好きな男なら、稚影を幸せに出来る人間なら……稚影が、その男を好きになれるなら……僕は出てくるつもりは無かった。

嫉妬はしただろうけど、それでも。


だけど、コイツは……稚影に手を上げようとした。

それだけは絶対に許せなかった。



「なん、だよ……お前、関係ないだろ!」



情けなく喚く男が、稚影に近付かないように割り込む。

顔を向けあって……それまで、攻撃的な表情をしていた男が、途端に怯えた。



「……く、くそっ、後悔すんなよ!ブスが!」



そう捨て台詞を吐いて、男はその場を離れていった。

手を抑えている様子から……それだけ、強く握ったのだと自覚した。


……日頃の筋トレの賜物、なのか?



「和希?」



背後から、そう言われて振り返った。



「稚影……」



その表情は状況が理解出来ていないような、不思議そうな顔だった。

対して僕は……目線を逸らした。


罪悪感があった。

気まずかった。


だから、口を開いた。



「その……ごめん、稚影」



出て来たのは謝罪だ。



「勝手に後ろから……えっと、尾行してたんだ。気になって……それで、その」



幾つも言い訳が思い浮かんで、それは誠実ではないと捨てて行く。

何を言えば良いか分からなくて、僕は──



「ぷっ」



稚影が笑った。

思わず、といった様子で笑ったんだ。



「な、何で笑うんだよ……」


「だって……」



稚影が目を擦った。

先程までとは違う、心の底から嬉しそうな顔で笑った。



「別に、和希は悪い事してないのに、謝るから」


「いや、悪い事はしてるよ。だって勝手に……」


「それって私を心配してくれたんでしょ?」



それは……違うけど。

いや、でも心配はしていた。

それ以上に、どうなるのか気になっていただけで。



「……まぁ、心配もしてたけどさ」


「だから良いよ。それに、助けてくれたしね?」



目を細めて、稚影が笑った。



「アレって……先輩、だよな?」


「まぁね。おかしいよね?たった数回話しただけで、私のことを分かったつもりになって……告白だなんて」



稚影が男の去った方を見た。

僕は彼女の横顔を見ていた。



「……まぁ、おかしいよな」


「うん、変な人だよ」



稚影の眉が顰められた。


分かったつもり……か。

僕は……稚影を分かっている、のだろうか?

それこそ、程度の違いはあっても、先の男と一緒で、分かったつもりになっているだけ……なのかも知れない。


本当の彼女とは……彼女にしか分からないのだから。

だから、もしかしたら、僕は知らないだけで……彼女には──



「稚影はさ……」


「うん、どうしたの?」



思わず、口から言葉が漏れた。



「稚影は、誰か好きな人って……いるの?」



慌てて口を塞いだとしても、もう遅い。

一度出て来てしまった言葉は、取り消す事なんて出来ない。


失態だ。

恥ずかしくて、情けなくて、思わず目を逸らしかけて……稚影が口を開いた。



「うーん……和希はさ、どっちがいい?」


「どっち?」


「うん。私に好きな人が居る方がいい?それとも、居ない方がいい?」



質問したのは僕の筈なのに、気付けば質問を投げ返されていた。


僕は……焦る。

何でこんな質問を返して来たのだろう?

何で僕が、どちらが良いか答えなければならないんだ?

それは……もしかして、きっと、彼女も……僕を?

いや、違う……自意識過剰だ。


僕は返事をしようと口を開き──



「ふふ……冗談だよ、和希」


「じょ、冗談?」


「そ、冗談。だから、本気にしなくて良いよ?」



思わず、眉を顰めた。

冗談?

何が?

どういう事なんだ?



チャイムが、鳴った。

それは次の授業が終わった合図だ。



「あ……丁度いい時間だし、希美ちゃんを迎えに行こうよ。一緒に帰ろ?」


「あ、えっと……あぁ」



何だかモヤモヤした気持ちのまま、僕は稚影に連れられて歩き出した。

結局、彼女に好きな人は居るのか、居ないのか……それも分からない。



だけど──



「あ、そうだ」



稚影が振り返った。



「さっきは、ありがとう。和希」


「い、いや……まぁ……どういたしまして?」



ニッコリと満足そうに笑う、彼女の姿。

揺れる髪の毛。

日陰から出て、太陽の光を反射する艶。

風が吹いてフワリと、スカートが揺れた。



……あぁ。

きっと、僕は──



「うん、カッコよかったよ。まるで物語の主人公みたいだった」



僕は、彼女の事が……好き、なのだろう。


思わず頬が赤くなりそうなのを、顔を逸らして隠す。


言えない。

言える筈がない。

好意は伝えられない。


彼女が僕や希美の家に来てくれて、共に過ごしていられるのは『友達』だから……いや『家族』だからだ。


もし僕の好意が、稚影にとって迷惑だったら?

彼女と過ごす穏やかな時間は、二度と戻って来ないかも知れない。


僕の身勝手な好意で、稚影の居場所を奪う事になってしまう。

僕の身勝手な好意で、希美の友人を疎遠にしてしまう。


それは出来ない。



僕は校舎の裏から出て、希美のいるクラスへ足を進める稚影を見て……歩き出した。


僕は失う事が怖い。

何も失いたくない。

大切な人も、大切な関係も、時間さえも。


だから、これで良いんだ。

僕が僕の心に嘘を吐いていれば、何も失わずに済むのだから。






◇◆◇






私の後ろで歩く……和希を一瞥し、思わず頬が緩んだ。


中学校の先輩に告白されたのは予想外だった。

そして、断った結果、私に暴力を振るおうなんて……それこそ、思っても居なかった。


振るわれたら、まぁ……その時は、そう。





殺してしまっていたかも知れない。

だって、生きている価値なんてないでしょ?

想いが成就しなかった程度で人に暴力を振るうような存在が、これから先、どう生きていけるというのか。


それなら、死ぬ事に意味を持たせてあげた方が、まだ有意義だと思う。





だけど、実際は和希が助けてくれた。

私の肩を掴んだ手を握って……その時、私は彼の横顔しか見えなかったけど。

私の事を心配していて、守ろうとしてくれて。


別に殺す程でもないなって、思いとどまれた。


うん。

カッコよかった。

まるで……いや、本当に『ゲームの主人公』そのものだった。


頬を緩める。


嬉しいからだ。

安堵からだ。


大丈夫。

私のしている事は間違っていない。

彼なら……きっと、どんな巨悪にも逃げずに立ち向かってくれる。


後は彼に必要なのは力……『異能』だけだ。

つまり、覚醒の為の精神的な苦痛だけ。

安心して、私はこの道を歩んでいける。


目を離して、下駄箱を開けている希美を見つけた。



「希美ちゃん!」


「え?あれ?稚影ちゃん?」



希美が驚いたような顔で首を傾げた。

普通なら私達は一限早く下校している筈なのだ。

それなのに、こんな時間にいるから不思議がっているのだろう。



「一緒に帰ろ?和希もいるし」


「お兄ちゃんも?」



希美が私の背後にいる和希に気付いたようで、目を瞬いた。



「……え?何かあったの?」


「まぁ、いろいろね。用事があったんだよ」


「……ふぅん?」



私の言葉に希美が鼻を鳴らして、首を軽く捻って……頷いた。

納得はしてなさそうだけど、頷いてはくれた。



「和希、ほら、早く」


「え?あぁ」



和希を手招きして、靴を履き替える。

そして、靴を取ろうと屈んだ彼の耳元に近付く。



「さっきのこと、私達だけの秘密ね?」


「……あぁ、希美を心配させたくないしな」



和希は頷いた。

彼の頬は少し赤かった。


……思春期だなぁ。

なんてちょっと思った。


彼も、もう中学生だ。

子供から大人へ、身体が作り変わって行く。

心も同様に。


まだ私にとっては、子供のように見えるけど。


私も、いや、私は……私は元男だ。

そして、ゲームにおいてヒロインでもない。

この世界はゲームの世界だ。

主人公には、主人公に相応しいヒロインが存在する。

清く、綺麗で、優しいヒロインが。


だから、私と彼が結ばれる可能性はゼロだ。

いつかきっと、彼は……彼のヒロインを見つけるだろう。


それまでの短い間の夢でしかない。

私への好意なんて。



「さ、帰ろう」



だから私は気づかないフリをする。

彼の好意に。




三人で並んで、歩く。

朝来た時に通った道と、全く同じ道を。

巻き戻すように、歩いて行く。


ここにあるのは平穏だった。

希美が笑って、和希が笑って、私も……心の底から、笑えていた。


三者三様で、同じ笑い方ではなかった。

きっと思っている事も違う。

笑っている理由も違う。


だけど、これで良かった。


ずっとこうして、穏やかに生きていければ良いけど。


彼は大きな使命を抱いていて。

彼女は将来的に死ぬ未来が待っていて。

私は薄汚れた罪人で。



この時間は一時の、夢でしかない。

だけど、夢の中だとしても幸せを噛み締めたい。



ゲームの始まりは、和希が高校二年生になってからだ。

それまで……もう、3年しかない。


希美の死も、あと3年の間に来る。

私は……それを回避したい。


だけど、その出来事が無くなれば、和希はきっと『異能』に目覚めない。



私は……思い付く限りの残虐さを、嗜虐を、彼の心を苦しめる景色を……創造して、代用しなければならない。


少し歩いて、私は和希を見た。


笑っている。

この、笑顔を歪めなければならない。


何も悪い事をしていない、善なる少年を苦しめなければならない。


今更、後悔なんてない。

躊躇う事もない。


だけど、私は……私は……。



私は。







◇◆◇






夜が更けていく。

稚影と希美、僕の三人で食卓を囲む。



「希美ちゃん、お醤油とって」


「はいはーい」



焼き魚に箸を入れて、身を取る。

口に入れて、咀嚼する。

骨から取って、また口へ。


ちら、と稚影の皿を見る。

身と骨が綺麗に分かれていた。


比べて希美は……お世辞にも綺麗とは呼べない。

ぐちゃぐちゃになっていた。




三人で囲む食卓は、僕が最も幸せを感じる時間だ。

穏やかで、安らかで、掛け替えのない日常。


『家族』のようだ。

血の繋がっていない妹、そして親友。

だけど、『家族』だ。


血の繋がりなんかよりも、よほど……僕にとっては『家族』なんだ。


食器を片付けて、皿を洗う。

晩御飯は希美と稚影が作ってくれた。

だから、これぐらいは僕の仕事だ。


稚影と希美はソファに座って、二人でバラエティ番組を見ている。

仲良く二人、会話をしながら見ていた。



その様子に頬を緩めて……食器を置いた時。



背後の机に置いていた携帯電話が鳴った。

眉を顰めた。


だって、希美も稚影もそこに居る。

それなら、この電話は誰の電話なんだ?


蛇口を閉めて、手を拭く。

携帯電話を手に取り、着信相手を見る。



「……クソ親父」



そこには『望月もちづき 正人まさと』という名前が書いてあった。


僅かに躊躇い、電話に出なければ怒鳴られそうだと思い直し……ボタンを押した。



「もしもし……」


『あぁ、和希!少し話がしたかったんだ!』



明るい様子で、明るい口調で話しかけてくる。

まるで、久しぶりに話す息子との会話が嬉しいかのような素振り。


こんな奴に、そんな態度を取れる資格なんてない。



「何の用事……ですか?」


『うん?どうしたんだ、そんなに改まって』



思わず、話し方が丁寧になってしまった。

取り繕わなければ、罵倒や暴言が出てきてしまいそうだったから。



「なんでも……ないです」


『ん?まぁ良いか。用事ってのはな──



嬉しそうに、クソ親父が語る。



『これから帰る事にしたんだ』



僕にとっての、悪夢を。



「え?」


『いやぁ、一緒に過ごしてた女の人がな?何故か、何処かに居なくなったんだよ。だから、ちょっと帰る場所がなくてな』



何を言ってるんだ?

何様のつもりなんだ?



『な?嬉しいだろ?そういえば希美とも随分会ってないなぁ、大きくなったか?』



何なんだ?

何でこんな事を言えるんだ?


お前は、お前は……僕と、希美と、母さんを……もう一人の母さんも捨てたんだぞ?


憤る。


だけど、この怒りは言葉に出来ない。



「あ、あぁ……分かったよ。準備してるから」


『おぉ、俺は優秀な息子を持って嬉しいよ。じゃあ、日が変わるまでには帰るからな』



ブツリ、と電話が切れた。


この家の家賃を払ってるのは誰か。

僕達の食費を払っているのは誰か。

父だ、望月もちづき 正人まさとだ。


クソ親父だとしても、アイツが居なければ僕達は生きていけない。



……クソッ。



携帯電話を机に置いた。

思ったよりも、大きな音がした。



「お兄ちゃん?」



ソファから立っていた希美が、机の向かい側に立っていた。

きっと、僕の電話の様子から、只事ではないと思ったのだろう。



「……希美」


「何か、あったの?さっきの電話?」



僕は……躊躇って、震える口を開いた。



「……親父が帰ってくる」


「お父さんが?」



希美は不思議そうな顔をした。

親父が僕達を捨てていった時、まだ僕も希美も幼かった。


だけど、僕は……家の、お金の為に何度も親父に会っている。

代わりに、希美は会っていない。


僕が合わせたくなかったからだ。


だから、親父がどんな人間か知らない。

顔の知らない父親……とだけ。



視線を上げると……稚影と目が会った。



「和希、大丈夫?」



大丈夫なんかじゃない。

だけど、僕は……彼女に、こんな弱い姿を見せたくなかった。



「大丈夫、だよ」


「……そっか。いつ頃帰ってくるの?」


「今日、日が変わるまでには」



僕の言葉に希美が驚いた。



「えっ!?今日なの!?……いつまで?」


「それは分からない……けど、一日や二日では無さそうなんだ」


「そ、っか……」



希美が細い指で、自分の口を覆った。

そして、眉尻を下げた。



「……稚影ちゃんと、こうやって夕食を食べられるのも……」


「やめた方が良いかもね」



稚影が口にした。



三人で作った、安らかな時間は……ほら、たった一つの介入で崩れてしまった。

僕はまた、失って──



「でも、大丈夫だよ。希美ちゃん」



励ますように、稚影が希美を撫でて……僕を見た。

その目は、笑っていた。



「きっと直ぐにまた、一緒に居られるようになるから」



それは何も根拠がない筈だった。

なのに、まるで筋の通った確定事項のように……稚影は口にした。


そして、希美と稚影が抱きしめあった。



「稚影ちゃん……」


「稚影……」


「うんうん、大丈夫だよ。和希もハグしてあげよっか?」



頬は笑っていた。

朗らかな笑みだった。


だけど……目は──



「大丈夫だよ、何とかなるから」



目は、笑っていないように見えた。


僕は驚いて瞬きをして……彼女の目は笑っていた。

見間違いだ、ほんの一瞬の幻覚だ。


稚影が希美から手を離して、希美はそれを名残惜しそうにしていた。

するりと、抜けて……稚影が僕達から離れた。



「二人とも、今日はもう帰るね?」



いつもより、早い時間だった。

だけど、僕は頷いた。

稚影とクソ親父を会わせたくなかったからだ。



「稚影ちゃん……」



希美が寂しそうに声を漏らした。



「希美ちゃん、和希も……また、明日ね」


「あ、あぁ……」



稚影は玄関へ向かい、そのままドアを開いた。


……何だか、無性に止めなきゃならない気がした。

だけど、止める理由が思い浮かばなかった。

それに、止める必要もなかった。


手を伸ばそうとして……その手を僕は握った。



稚影が出ていったドアを、僕はただ、眺める事しか出来なかった。






◇◆◇






夜道を歩く。

一人、街灯に照らされて、私は歩いていた。


望月もちづき 正人まさとか。

知っている。

よく、知っているとも。


希美の死の原因で、和希が『異能』に目覚めた原因だからだ。


奴は無類の女好きの……性欲が肥大化した屑だ。

そして、自己中心的なサディストだ。


奴がふらりと望月もちづき家に帰って来て……希美は彼を嫌う。

好かれる要素なんてないからな、分かるよ。


だけど、その態度はプライドの高い正人を逆上させた。


その結果、希美は……。








それは性欲からではない。

ただの躾のつもりだ。


彼は知っている。

女を屈服させたければ、どうすれば良いか。


それを実行したまでに過ぎない。




私は無意識のうちに眉を顰めた。

生理的悪寒からだ。




希美は和希に打ち明けられず、何度も何度も……そして、彼女はやがて……死ぬ。


自身の通う学校から飛び降りて、死ぬ。

死んでしまう。


あの、優しく、可愛らしい、朗らかな彼女が……自ら、死を選ぶ。




自らの手を握る。

ギリギリと、音を立てた。



その原因を遺書から知った和希は、怒りと悲しみ、己の無力感から『異能』に目覚めて……父を、正人を斬り殺す。


それが物語の始まりより前に発生した、彼の原初の罪……そして、和希の『精神的苦痛』だ。



だが、そんな過去は認められない。

私がぶち壊す。

私がぶち殺す。


彼に罪を背負わせない。

彼女を苦しませない。

その為に、私はここにいる。



手を解く。

握っていた手に、少し痕が付いていた。



自宅のドアを開けて、中に入る。

引き出しに閉まっていたビニール袋を開ける。


真っ黒な、レインコートを手に取る。

それを掴んで、私は踵を返す。




殺す。

私が殺す。

私が助ける。

必ず、私が。


だけど、それだけでは不十分だ。

和希が『異能』に目覚めなければならない。


大丈夫だ。

ずっと、考えて来た、私の演劇を見て貰えば良い。


陰惨で、残酷で、嗜虐的で、精神を抉り取るような惨劇を……和希に見せるだけだ。



「和希……」



出会ってから何度も見て来た笑顔を思い出す。

胸が痛む……これから行う事に……彼を傷付けなければならない事に。


だけど、私に傷付く資格はない。

ずっと、無関係な人間を殺してきたのに……今更、何を苦しんでいるんだ。


そんな普通の人のように、ただの女の子のように、一人前に苦しむ事が許される訳がない。


そうだ。


私は大丈夫だ。

必ず、殺せる。


私は問題ない。

必ず、傷付けられる。


私は省みない。

必ず、成し遂げられる。


私は突き進む。

必ず、幸せにしてみせる。



だから、見て欲しい。

目を逸らしたくても、見て欲しい。


和希には見て欲しい。

見なくちゃならない。



私の作った、血と、臓物に塗れた……物語の序幕プロローグを。

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