(7)――「人間って難しいねえ……」
それから、猫塚君とは毎日会うようになった。
基本的には、午前中に河川敷で待ち合わせて、雑談に興じる。
私としては「今日」から脱出すべく、あれこれ試してみたいこともあったのだが、その全ては既に、猫塚君と居なくなった二人とで検証済だったのである。
たとえば、寝ずに日付を跨ぐとどうなるのか。
たとえば、日付が変わる瞬間に居る場所は関係あるのか。
たとえば、海外に向かうとどうなるのか。
結果、どこに居ようと、徹夜をしようとしても、日付が変わる頃には強烈な眠気がやってきて、気がつくと「今日」のスタート地点に戻されているということが実証されていたのだった。
こうなると、確かにやることがない。
次点の目標としていたはずの練習とやらが、最近はメインになっていた。
そうはいっても、なにか特別なことをしているわけではない。私も猫塚君も、基本的には好きなように喋っているだけだ。
お互いの悪癖を治すには、とにかくいろんな人と喋ってみるしかない。そう考えて、飛び込みでも参加可能なイベントにあれこれ参加しりたりしてみた。
だが、十数年の人生で癖ついたものは、そう簡単に解けるわけではない。
私は、どうしても反射で感情に蓋をしてしまう。いや、その癖が発動していることに気づき、蓋を開けようと試みているぶん、改善に向かってはいるのだろうけれど。結局、私は人の笑い声が不快で、どんなイベントに参加しようと、不快感から顔をしかめ、周囲から顰蹙を買うだけだった。
そうだ、だから、私は無表情になることで、自分を守ろうとしたのだ。
猫塚君は良い。
徐々に対人における緊張感が薄まり、今は、どこへ行っても愛想の良いイケメンになれたのだから。
「人間ってさ、完璧じゃなくても良いはずだと思わない?」
その日の夕方、いつもの河川敷でジュースを飲みながら、猫塚君は言う。
「一長一短、十人十色……あとは、なんだろう。とにかく、人にはそれぞれの良いところと悪いところがあって、全部のパラメーターが一定値に達していないと人間扱いされないのは、違うとは思うんだよ」
「だけど、明らかな欠陥は、排除されて然るべきじゃない?」
「そんなことしてたら、世界から人間は居なくなっちゃうよ。その果てにあるのは、ロボットだけの世界だ」
「それでも、実際に世間は完璧な人間を求めてるじゃない。私みたいな欠陥品は、変われない限りは、いつまで経っても邪魔者だよ」
「人間って難しいねえ……」
考えながら話しているらしい猫塚君は、ええと、と言葉を探しながら、続ける。
「俺が言いたかったのは、練習を通して思ったけど、狐井さんが変わる必要はあんまりないのかもしれないってこと。要は、狐井さんの良いところが相手に伝われば、問題ないような気もするんだよね。狐井さんって、言葉遣い綺麗だし、いろいろ考えて行動してくれてるし。そういうのが伝われば、学校でもあれこれ言われなくなると思うんだけど。うーん、難しいね」
学校。
そう言われて、心臓がぎゅうっと痛くなった。
そういえば、こうして猫塚君と会うようになってから、学校へ行っていない。
いつか「今日」から脱出するんだと意気込んでいたけれど、脱出した先にあるのは、あの息が詰まるような日常だ。今となっては、ずっと「今日」が続けば良いのにとさえ思っている自分が居て、それにまた心臓を抉られる。
最初は、これは罰なんだと思っていたくせして。
次第に、それがぬるま湯のように思えてきている。
気が触れないようにしていたつもりだけれど、その実、私はもうおかしくなってきているのかもしれない。こんなの、現実逃避の極地ではないか。
可能であれば、まだこのぬるま湯に浸かっていたい。
だって私は、「今日」に居残り猫塚君と会話している限りは、欠陥品ではないのだから。
だから、未だに「今日」から脱出したあとのことを考えている猫塚君は、先へ先へと前進する車のようで、徒歩の私は疲弊してしまいそうになる。
「猫塚君は良いよね、苦手を克服できたんだから」
それは、うっかり零れた意地悪な言葉だった。
違う、こういうことを言いたかったんじゃない。心の底では思っていたかもしれないことだけれど、わざわざ言葉にして伝えたかったことではない。
「……俺は、『今日』に閉じ込められたからこそ――いや、狐井さんと会えたからこそ、克服できたと思うけどね」
「そんなはずないよ、適当なこと言わないで」
ああ駄目だ、こんなところで、感情が暴走してしまうなんて。
今こそ、感情に蓋をしなければならないのに。
「……」
猫塚君は、小さく息を吐いて、それから、話題を変えるように、声音を意図して明るくする。
「そうだ、明日は久々に、ボランティアに参加しようよ。なんかこう、思いっきり身体が動かせる系のやつ」
「……そうだね」
必死に感情をせき止めて、私はどうにかそれだけ返した。
「それじゃあ、また明日の『今日』、ここに集合ね」
「うん。また明日の『今日』ね」
すっかり板についた別れの言葉を交わし、その日は解散となった。
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