(6)――「それは……褒めてる? 貶してる?」
朝になり、目が覚めて、母よりも先に家を出た。
私が早く来たからって、猫塚君もそうだとは限らないのに。
それでも、この繰り返しの手がかりとなる彼の話を、一分一秒でも早く聞きたくて、居ても立っても居られなかったのだ。
果たして。
息を切らして到着した河川敷に、猫塚君の姿は、既にあった。
「おはよう。早いね」
確か昨日の別れ際、「午前中には来れるようにする」というようなことを言っていたから、もっと日が高くなってから来るものだと思っていたのだ。
「おはよう。早いのは、狐井さんもでしょ」
「私は、いろいろと訊きたいことがあったから、猫塚君が来るまでに頭の中を整理しておこうと思って……」
言いながら、私も猫塚君の隣に座る。
遠く背後の遊歩道には、散歩や通勤通学の人が歩いている気配があるが、昨日と同じで、どこかに連絡されるようなことはないだろう。そういう心配がないとわかっているのは、この繰り返しで唯一の良いところかもしれない。
「ああ、まだ混乱してる感じ? まとまるまで待ってようか?」
「ううん、せっかく早くに集まれたんだし、猫塚君さえ良ければ、思いついた順にいろいろ訊いても良い?」
「良いよ。時間はたっぷりあるんだ。今日で終わらなければ明日の『今日』もある」
そう話す猫塚君は、昨日同様、上機嫌に見える。
学校では「無愛想な観賞用イケメン」なんて言われている猫塚君と、本当に同一人物なのか、若干疑わしいところはある。がしかし、突如として一日に閉じ込められた状況下で、同じ状況の人間に出会えたのだから、上機嫌になるのも頷けるというものだ。私だって、なんだか昨日から頬の筋肉が引き攣るような感覚がある。
「じゃあまず……、私たち以外に、『今日』に閉じ込められている人は居るの?」
「居るよ。いや、居たって言ったほうが正確か」
そう言って、猫塚君は右手の指を二本立てる。
「俺の知る限りは、あと二人、『今日』に閉じ込められていた人が居た」
「その人たち、今はどうしているの……?」
厳密に過去形で言い直した意図を読み取ろうと、私はごくりと唾を飲んで言った。
「わからない。その人たちとも、こういう交流会みたいな場を設けてたんだけど、ある日、突然来なくなったんだ。たまには来ない日もあるよなって思ったけど、結局俺はその日以来、あの人たちを見ていない」
「……『今日』から脱出したのかな」
「そうかもしれないし、消滅したのかもしれないし。どうなったのかはわからない。交流会で、脱出できる手立てが見つかったなんて話は、一切してなかったけどね。俺にだけそれを教えないような人たちとは思えないけど……。どちらにせよ、『今日』に閉じ込められたままの俺らには、あの人たちが脱出したのか消滅したのか、観測する術がない」
「なるほど……」
居なくなった二人と猫塚君との間で、どれだけの信頼関係を築けていたのかはわからない。けれど、猫塚君の言を信じるのであれば、そんな無作法な真似はしなさそうだ。
であれば、意図せず『今日』から居なくなったのだと考えるのが順当だろう。
それが脱出なのか消滅なのか、結局わからないという点が、ただただ恐怖を掻き立てる。ぞわりと背筋が冷えたような気がして、堪らず身体が強張った。
「こんなこと言うと、不愉快に思われるかもだけど」
不意に、猫塚君は言う。
「狐井さんって、普通に表情筋動くんだね」
「なっ……!」
それはこちらの台詞、というやつだった。
今の猫塚君は、無愛想のぶの字もないではないか。
「いやさ、クラスで狐井さんがいろいろ言われてるのは聞こえてきてたし、実際、狐井さんって本当に表情が動かないからさ。相当心が強い人なんだと思ってたんだよ。だけど、こうして話してみると、うん、なんていうか、普通だよね」
「それは……褒めてる? 貶してる?」
「褒めてるんだよ」
肩を竦め、猫塚君は言う。
「俺さ、人に囲まれると緊張して、ぶっきらぼうな態度を取っちゃうんだ。でも狐井さんは、どんな人にも同じ態度で話せるだろ? あれすごいなって、密かに思ってたんだよ」
「それは……」
敢えて感情を均して平坦にしようと努めていただけだ。
猫塚君は突然大きな声を出したりしないからだろうか、私としても普段からある嫌な緊張感のようなものはない。
「別に、私は強くもなんともないよ。私の反応は人を不快にさせるみたいだから、感情を表に出さないようにしてるだけ。今は、なんていうか、混乱してて、ブレーキが効いてないっていうか……」
「それって、普段は常にブレーキをかけ続けてるってこと? 疲れない?」
どうだろう。もう長いことこの状態が続いているから、そういう感覚は失って久しいのかもしれない。
これが私にとっての当たり前だから。
「ブレーキをべた踏みし続けてると、いざってときにブレーキが効かなくなりそうじゃない?」
猫塚君は重ねて問う。
「どうせ『今日』に閉じ込められて、やることもないしさ。狐井さん、俺と練習しようよ。狐井さんは、感情を表に出す練習。俺は、他人と話しててもぶっきらぼうにならない練習。どう?」
「構わないけど……」
楽しげに提案してきた猫塚君を無碍にしたくなくて、私は曖昧に頷く。
「あくまで、『今日』から脱出するのが第一目標だからね。練習は、そのついでってことで良い?」
「うん」
とはいえ、猫塚君の提案は理に適っていたのかもしれない。
どうやって「今日」から抜け出すかばかりを考えていた結果、私は気がおかしくなりそうだったのだから。適度に気を紛らわせることも、今は必要なことなのだろう。
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