第35話 王女は女神の口から真実を知る。

 ふわふわと羽に撫でられるかのような優しい何かに包まれた気がして、マルグリットは目を開いた。先ほどまで泉の中にいたはずなのに、目の前にはディランの顔。自分が彼に抱きかかえられていることを知るやいなや慌てて地面に降りようとしたが、ディランは強く抱きかかえるばかりで、マルグリットを決して離そうとはしなかった。


(どうして、こんなことに? 泉が虹色に輝いて、それから何が?)


「水の女神さまが降臨されました」


 ディランの言葉の意味が一瞬理解できず、示された方角を見て目を見開いた。女神像があった場所には、光り輝く貴婦人の姿がある。数秒遅れて事態をようやっと飲み込んだが、ディランに問いかけることはできなかった。マルグリットの口からは声がでなかったのだ。代わりに、マルグリットによく似た、けれどまったく異なる神々しい声が辺りに響き渡った。


『今代の勇者よ。魔王討伐の旅、ご苦労でした』

「滅相もございません」

『世界のために己を捧げて尽くしてくれたあなたに報いたいのですが、それはあなたにとって不自由の始まりでもあります。それでも、わたくしの礼を受け取ってもらえるでしょうか』

「恐れ多いことでございます。どうぞ仰せのままに」

『あなたには、いつも苦労ばかりかけてしまっているわ。ごめんなさいね』


 水の女神の表情はよく見えないはずなのに、確かに微笑んだのだと理解できた。そして女神が国王を指さすと同時に、王冠が粉々に砕け散る。古の技術で作られたという再現不可能な王国の象徴は、まるで砂山のようにあっけなく消え去った。代わりに今度は先ほどのものとは異なる意匠の王冠が、勇者の頭上に現れる。


『もともと、本来の王族は今代の勇者なのです。いつの頃にか、今の王族の先祖が王の座に就いたのだけれど、これでようやく本来の王の元に玉座が返ってきたわ。王冠は縁起が悪いので、新しいものにしておきました。気に入ってもらえたかしら?』

「ありがたき幸せ」

『ふふふ、こんなもの要らなかったとでもいいたげね。でも、わたくしは、わたくしの子どもたちに幸せになってほしいの。そのためには、正しい王が必要だわ。それにあなたの大切なひとを守るためにも、その力は役に立つはず。違うかしら?』

「おっしゃる通りです」

『大丈夫。あなたなら、きっとうまくやれるから』


 何かの加護を与えたのだろう、黒く艶やかな勇者の髪がさらに一段深い色になる。あまりにも濃い青色は、一見すると黒にしか見えないのだ。勇者の魔力の強さを今さらながらに実感したマルグリットだったが、彼女の目の前で王冠を失くした父親は激高した。鮮やかな青い目は、不思議なことに片目が白く濁っている。


「儂の王冠が消えた! その上、ここにいる平民こそが本来王となるべき人間だと? そんなこと、ありえない! あっていいはずがない!」

『女神であるわたくしのいうことが信じられないと』

「当然だ。そもそも貴様が水の女神であるという証拠がどこにある! きっとこれもすべて、勇者と勇者の仲間の神官長が仕組んだペテンに決まっている! お前たち、何をぼさっとしている! この女をとっ捕まえて、化けの皮をはいでみろ!」


 先ほど輝く泉の水をかぶり、悶絶していたマルグリットの兄たちがよろよろと立ち上がる。誰もが恵まれた容姿をしていたはずが、水を浴びた部分が火傷でもしたかのようにただれていた。それでも父親の命令は絶対だと身体に刻まれているのか、彼らは死者の行進のように前に進み剣を振り上げる。


『静かになさい』


 愚かだと冷たく断罪する響きはなかった。ただ駄々をこねる子どもをたしなめるように、きっぱりと一言発しただけで、彼らは言葉を奪われる。


『わたくしが授けた加護を使って、わたくしを攻撃できるはずがないでしょう?』


 呆れたように指摘して、女神が宙で腕を一振りさせた。何もないはずの天井から、きらきらと雨が降る。その雨にうたれた王族たちが、次々に血反吐を吐きながら倒れていった。ディランの腕の中にいるマルグリットだけが、王族でありながら何ら変わりないまま。なぜこうなったのか理解できないらしい国王は、なおも懲りずに床に這いつくばりながら命令してくる。


「マルグリット、早く、儂を、治さんか!」

「陛下、もうおわかりのはず。絶対防御を持つあなたが傷を負ったというその意味が」


 国王に返事をしたのは、マルグリットを抱きかかえたままのディランだった。九死に一生を得たマルグリットを疲れさせたくないのだろうとわかっていたが、あえてマルグリットは父親の方を見た。


 治癒術を使うことが適切ではない、あるいは治癒術では治せない傷や病があることをマルグリットは知っている。本来治らないはずのその攻撃を受けたマルグリットが五体満足な状態で地上に戻ってくることができたのは、まさに女神の御業だ。ならば、その女神から裁きを受けた傷を人間ごときが治せるだろうか。


「魔法を使った治癒は不可能でしょう。この傷が癒えた後であれば、再び多少の治癒術を受けることはできるようになるかもしれませんが、相当な痛みが発生するでしょうね」


 あくまで治癒術師として淡々と診断する。そこに家族としての情は一切見えなかった。


『終わりの時が来たのよ』


 裁きというには、あまりに静かな女神の声だった。



 ***



 足元に崩れ落ちた国王たちには目もくれず、水の女神はマルグリットたちの方に向かって微笑んだようだった。


『未来の大神官よ、勇者を支えてくれたこと感謝しています』

「もったいないお言葉です。できることを致したまで。神官を退く前に、水の女神の僕として力を尽くせたことを誇りに思います」

『まあ、なんてこと。神官を辞めるなんて寂しいことは言わないでちょうだい』


 女神に乞われてその願いを拒むことのできる神官など存在するだろうか。マルグリットに出会わなければ迷わずうなずいたはずの頼みに、ディランがわずかに肩を震わせる。やはり一度神官を志したものが、道半ばで諦めるということは許されないのか。


 ディランの腕の中のマルグリットもまた、ぎゅっと目をつぶっていた。ずっと昔からディランを見ていたからこそ、マルグリットもディランがいかに誇りを持って神官をつとめているのか理解している。


(ああ、ディランさまの邪魔をしてはいけない。女神さまに未来の大神官と呼ばれるような方なのだから。寂しく思うのではなく、これからを応援しなくては)


 固まったままのディランとマルグリットに、女神はまるで笑い出しそうな明るい声で話しかけた。


『まあ、勘違いしないでね。別に結婚するなと言っているのではないのよ。素敵な奥さんをもらって、可愛い子どもたちに囲まれるなんて幸せなことじゃない』

「しかし、神殿で教わった教義では神官の妻帯は認められないと……。女神の僕たるものは、その身も心も女神に捧げるべきときいておりました」

『水の国の民は、わたくしの可愛い子どもたち。子どもの幸せを願わない親がどこにいるでしょうか』

「それは、ありがたい話ではありますが」


 思いがけない女神の言葉に、ディランとマルグリットは顔を見合わせあう。王族がいつの間にかすり替わってしまっていたように、神官の妻帯についても長い年月の間に教義がずれてしまっていたのだろうか。


『どこで暮らしてもよいのです。あなたがたが自分と同じように他者を愛し、慈しみ、日々の暮らしを愛おしく思ってくれるならば、これ以上の望みはないのだから』

「御意」

『それにわたくしは、わたくしのためと言って愛するひとと添い遂げることを諦めたり、愛するひとのそばにいるために神官を辞めてしまわれるほうが悲しくてよ。母への愛と妻への愛は、どちらも尊いものではなくって?』

「では、今日の話は各神殿に伝えておくということで」

『大丈夫よ、みんなもう知っているわ』

「それはどういう」

『ああ、もう時間だわ。またいつか会いしましょうね』


 言いたいことを言って忽然と女神が消えてしまった後には、まるで水でできたような透明な魔石、ディランのてのひらの中に残されているばかり。


「これを使って揃いの指輪でも作れということでしょうかね」


 ディランの言葉に返事はもちろん返ってこなかった。

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