第34話 王女は泉の中で愛を捧げる。
泉に突き落とされ、身体を動かすことさえできないまま、ゆっくりとマルグリットは沈んでいく。身体を貫いた刃はただの水魔法ではなかったらしい。マルグリットがどれだけ治癒をほどこしても、身体の内部が崩れていくのがわかる。
(切られているのでもなければ、毒でもない。それなのに、治癒魔法をかけるたびに身体の中を傷つける何かが増え続けているかのよう……)
少しずつ加速しながら身体の中がだめになっていく恐ろしさ。混乱しているのだろうか、マルグリットはどちらが水面なのかさえわからなくなっていた。どれだけもがいても、水面にも水底にも到達できないのだ。息苦しさと痛みで叫んでしまいそうになるのを、必死でこらえる。
守るどころか、足を引っ張ってしまった。目の前で攻撃を受け、泉に沈んでいくマルグリットを見て、ディランはどう思っただろうか。あの優しいひとを守るどころか傷つけてしまったことが、マルグリットはただ申し訳なかった。
マルグリットは祈った。
ディランを守れるように。
勇者とエマを救えるように。
横暴な国王たちを止められるように。
こんなときに神頼みしかできない自分が歯がゆかった。
(私が助からないのであれば、せめて魔力をディランさまに)
孤児院の子どもたちと魔力の使い方について学ぶ中で、魔力の譲渡についても訓練してきている。本来は肉体的接触が譲渡の条件だが、水を媒介にすることで任意の相手が受け取ることも可能なのだと知った。渡し手と受け取り手の相性と繋がりが必要とされるが、ディランならば問題なく受け取れるだろう。
持てる力を惜しみなく放出する。すべての魔力を一気に手放せば、意識を失うことになるとわかっていながら、マルグリットは一瞬たりとも迷わなかった。
(ディランさま、ごめんなさい。ああ、どうせなら私の想いももう一度あなたに届けられたらいいのに)
どこまでも続く深い泉の中を沈みながら、かつてこの泉に、祈りを込めた刺繍入りのハンカチを捧げていた時のことを思い出す。遠くにいるディランの無事を願って祈りを捧げていたけれど、一度だけ、マルグリットの声がディランに届いたことがあるらしい。どんな内容だったのかについては、何度聞いてみても答えてはもらえなかったけれど、女神さまは遠い存在ではないのかもしれないと信じられた。
(ディランさま、一緒に神殿に帰ることができそうにありません。本当にごめんなさい。どうかディランさまだけでも、逃げて)
国王は、マルグリットのことを『清貧の聖女』だと呼んでいたが、それは間違いに違いなかった。本物の聖女さまならもっと大きな平和を願うだろう。けれど、マルグリットが一番に願ったのは他の何でもなくディランの無事だった。だって彼女にとってディランこそが世界だったのだから。
魔力に満ちた泉の水は、ほんのりと温かくなったような気がする。息苦しさに目の前が霞んだ時、マルグリットは見た。泉の水が虹色に輝くのを。光は泉の中に満ち、眩しさで目を開けていられなくなったマルグリットを巻き込み大きく揺れ始めた。
***
「メグ!」
泉に落ちたマルグリットを助けるため駆け出すディランの邪魔をしたのは、マルグリットの兄たちだ。腹違いの兄だけでなく、同腹の兄でさえ当然のようにマルグリットを見殺しにしようとする姿に、ディランは怒りに震えた。マルグリットを貫いた水の刃が襲い掛かってくるが、それをそのまま逆に辿り相手まで凍りつかせる。頭に血が上っていたからの反撃だったが、ディランの攻撃がエマに反転された様子はない。国王の固有魔法にも制限があるのか、あるいはマルグリットの治癒に何か特別なものがあるのか。
そのままディランは前に進もうとするが、何せ相手は数が多い。いくら魔王討伐の旅に同行した神官とはいえ、魔力が無尽蔵にあるわけではない。一方でマルグリットの兄たちはもともとの魔力に加えて、王家が保有している数々の魔石を身に着けている。これでは、自分の魔力と体力が削られていくだけだ。焦るディランは、そこで急速に魔力を帯びていく泉の気配に愕然とした。
(どういうことですか。女神の泉が、自然と魔力を帯びるはずがありません。何より、この魔力の型には覚えがある。メグ、あなたは一体何を考えているのです。この量の魔力をいっぺんに放出すれば、意識を保つことさえ難しいのでは? まさか自分の命と引き換えにでも、わたしに魔力を譲渡するつもりだと?)
そんなことは、受け入れられなかった。
マルグリットを幸せにするために、神殿での出世を目指した。魔王討伐の旅にも出た。マルグリットと勇者の仲を邪推し、それでも彼女が望むのならばと無謀な入れ替わりの計画を陰ながら支えた。その結果が、こんな結末なのか。
(水の女神よ、あなたが望んだのはこんな世界なのですか! こんな外道な輩が人々を踏み潰し、治めている国が、あなたの理想の国なのですか! 女神よ、わたしが信じてきたあなたの教えは嘘まやかしだったというのですか!)
きんと耳の奥がおかしくなる。心臓が掴まれたように痛い。天に唾する振る舞いだと判断されたのか。けれど、自分の想いが呪詛だと判断されたのなら、それはそれで構わなかった。何より大切なひとを守れないのだとしたら、きっともう自分は女神さまを信じることなどできないから。
「そこをどけ! 彼女を死なせはしません!」
そしてディランは見た。普段は静かに青くきらめくばかりの泉が、勢いよく噴きあがる姿を。泉はまるで水面に浮かぶ花びらのように、マルグリットの身体をふわふわと浮かび上がらせている。
慌てて近づいたディランがマルグリットの身体を受け取ると同時に、泉は何の予兆もなく周囲に弾け飛んだ。あまりの出来事に避ける暇などなかったが、その飛沫は驚くほど柔らかく、清らかだった。水とはいえ、あれほどの速度があれば大きな衝撃を感じてもおかしくはないはずなのに。けれど泉の飛沫は、痛みを覚えるどころか戦いで負った傷のほとんどを回復させていた。だが、すべてが不思議な恩恵にあずかったわけではないらしい。
「ぐあああああああ」
「誰か、助け」
「息が、できな」
先ほどまで勇者たちをいたぶっていたはずのマルグリットの兄たちが突然地面に転がり悶絶しはじめた。ある者は顔を、ある者は腕や足を押さえながら、まるで拷問を受けているかのように絶叫する。その中には勇者と対峙していたはずの国王も含まれていた。
(一体、何が起きているのですか?)
マルグリットを抱きかかえたまま呆然とするディランの目の前で、泉のそばに建てられた女神像がゆっくりと光を帯び始めていた。真っ白な大理石のはずの女神像は、少しずつ色味を帯び、やがて神々しい貴婦人の姿を現す。
(水の女神さま!)
ゆっくりと、祈りの間は神々しい雰囲気が満ちていく。ひざまずかずにはいられない、あまりにも荘厳な世界だった。
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