第20話 王女は神官長を困惑させる。

「ディランさま、よろしければこちらをお持ちください」


 いつものように体調の確認をしていたところで、ディランはマルグリットからハンカチを渡された。魔除けとして名高いナナカマドの花と実が丁寧に刺されている。不器用なマルグリットが刺繍の失敗を隠すために何度も刺すことになり、結果的にこの図案だけはすっかり得意となってしまったなんて、ディランは知る由もない。


 けれど以前よりもかたくなった指先に、王族の教養として必要な量よりもずっと多くの手仕事をしてきたのだろうと彼は判断した。今でも使っているかつてマルグリットからもらった古びたハンカチよりも、ずっとずっと上達した刺繍。本当は自分ではない誰かのために刺されたに違いない魔除けを見ているとどんな顔をしていいかわからなくなる。


「これは?」

「神官長さまもご存じの通り、日中に少しずつ針仕事をしておりますの。せっかくですから、神官長さまに日頃のお礼をと思いまして」

「なるほど。とても美しいですね。ですが、わたしがいただいてしまってもよいのですか?」

「もちろんです。神官長さまのために刺したものですから」


 当然のように微笑まれて、ディランはめまいがしそうだった。何も知らないマルグリットは、その一言が自分をどれだけ翻弄するかなんて、何にも気が付いていないのだろう。そもそも刺繍入りのハンカチの意味さえ、彼女はきっと知らないのだから。


「勇者殿には」

「はい?」

「勇者殿にはお渡ししなくてよいのですか? 神殿の伝手を使えば、手紙や贈り物を渡すことくらいできなくはありませんよ」


(ああ、わたしは馬鹿だ。どうしてわざわざ恋敵への繋ぎを提案しているのでしょうね。せっかく彼女が王宮への伝手を失ったのですから、黙って囲ってしまえばよいものを)


 そもそも帰国後のディランがもともと神官長をつとめていた神殿でも、目標にしていた中央神殿にも戻らず、この小さな神殿を選んだのも、マルグリットと勇者の一件があったからだ。


 魔王討伐に成功した勇者一行の神官長だ。望むならば中央神殿につとめることだってできた。そして大神官の地位に就くことも、夢物語ではなかっただろう。だが、魔王討伐の旅に出る直前、マルグリットから感じた勇者の魔力。彼女が勇者のそばにいることを望み、選んだのであれば、もう自分は王都で彼女を見守ることはできないと思った。神官として身も心も捧げた上で女神への信仰を守り続けることもできず、かといって愛したひとを見守り続けることも選べなかった自分はただの敗者だ。


(愛しているのなら、彼女の報われない恋も見守り続けるべきだというのはわかっていました。けれど、手に入らないものに焦がれ続けたわたしは弱かったのです。勇者に愛を乞い、その愛を得られずに悲しむあなたを見たら、わたしはきっとすべてを壊してあなたをさらってしまう。あなたの願ったささやかな幸せを否定してしまう。だから、あなたから離れようと思ったのです)


 それなのに予想外にマルグリットは彼の手の中に転がり落ちてきた。思いがけずに、ころりんと。その上、自分から望んで勇者の妻と入れ替わり、王女の身分を捨ててしまっているではないか。だからディランは迷ってしまうのだ。彼女の気持ちが少しでも楽になるように、何かできることはないかと考えてしまう。


「いいえ、神官長さま。私が勇者さまにハンカチを贈ることはありません。その必要もありません。私はただ神官長さまに贈りたくて、作っただけなのです。ご迷惑だったのでしたら、申し訳ありません」

「いや、そういうわけでは」

「もしもご不要ということでしたら……」

「ありがたくいただきます!」


 慌ててハンカチを受け取ると、マルグリットは少し驚いたように目を丸くしていた。そしてかつて神殿で魔法を教わっていた頃のように、楽しそうに笑い出したのだった。



 ***



(はあ、メグが何を考えているのか、さっぱりわかりません)


 ディランは神殿に併設されている書庫に閉じこもって、もらったばかりのハンカチをじっと見つめていた。かつて幼いマルグリットにもらったハンカチを隣に並べてみる。覚束ない手つきで必死に仕上げたであろう縫い目の荒い刺繍は、すっかり手慣れたものに変わっていた。


(メグがハンカチをくれたのは、前回わたしがこのハンカチを使っていたからでしょうね。ずいぶんと昔の話ですし、彼女も忘れてしまったでしょうか)


 自分の気持ちを悟られずに済んだことに安心しつつ、思い出が自分だけのものになっていたことを少しだけ残念に思う。


(彼女も言っていたではありませんか。これは、日頃のお礼だと。勘違いしてはいけません)


 彼女は神殿に付設された孤児院の子どもたちへ刺繍を教えている。女の子なら針仕事ができると将来の役に立つ。そう言って体調がいい日には、彼女はせっせと教えてやっている。いつまでもお客さま待遇でいるわけにはいかないのだと笑って。


 ディランはマルグリットを働かせたいわけではないのだ。ただ静かに心安らかに暮らしてもらえればそれでよかった。だが、彼女のやりたいことを邪魔する気はない。マルグリットがやりたいことは何でもさせてやりたい。とはいえ、これは予想外だ。彼女がハンカチをくれたのは、材料が身近にあって準備が簡単だったから。それだけのはずなのに、ついつい期待してしまう愚かな自分がいる。


(まさかメグは、年頃の女性が刺繍入りのハンカチを異性に渡すのは告白の意味を持つのだけだと知らないのでしょうか。それでは、きっとわたしがなぜ馬車から降りるときに歩かせたくなかった理由も、髪を洗う役割を世話役の子どもたちに譲らなかった理由も気にならなかったでしょうね)


 マルグリットは勇者を愛しているはずなのだ。そうでなければ、すべてを投げ捨ててこんなところにいるはずがない。


(ああいっそ、あなたが何を考えているのか。それを直接聞くことができたならどんなにいいでしょうか)


 マルグリットの真意が知りたい。けれどどの面を下げて聞けると言うのか。気持ちを切り替えるために、ディランは書庫の中で聖なる教えの書かれた書物を読み漁っていた。王都から離れたこの小さな神殿には、中央神殿にもないような変わり種の書物がいくつも保管されている。


 中央神殿の神官たちからは、もちろん鼻で笑われることもある。信憑性が薄いだとか、土着の伝説だと馬鹿にされている書物だが、新しい知識はディランを現実の苦しさから逃れさせてくれた。神殿に納められた文献に恋を紐解く蔵書などあるはずがないというのに。だが、ディランは見つけてしまったのだ。


 その古びた本には、かつて水の女神によって起こされた奇跡について記されていた。かつて、魔物の襲撃によって離れ離れになった恋人たちがいた。だが何としても愛する男に会いたい。再び一緒に暮らしたい。男の無事を願い、女は水の女神の泉に毎日祈りを捧げていた。


 その強い気持ちに心打たれた水の女神が、ある日女の声を男に届けてやったというのだ。女の声を聞いた男は力を振り絞って魔物を倒し、無事に女の元に帰ってきたという。逸話はかつてのディランの体験と酷似していた。


(あまりにも、似ている。この逸話は、わたしがメグの声を耳にしたあの状況と重なる部分が多すぎます)


 あの時、耳に届いた甘く柔らかい声。その言葉を、ディランは一言一句覚えている。


 ――ディランさま、あなたに会えないことが寂しくてたまらないです。あなたは、世界を救うために過酷な旅に出ていらっしゃるのに――


 ――私は勇者さまと約束した通り、エマを守るだけで精いっぱい。みんなの視線と言葉が痛いのです――


 ――ディランさま、お声が聞きたい。それだけで私は頑張れるのに――


(文献を当てはめるというのなら、まるでメグがわたしのことを愛しているとでも言っているようではありませんか。勇者との約束は、まさかわたしの元に来るためだったとでも? いくら初恋をこじらせているからといって、あまりに都合が良すぎる妄想を広げるほどわたしは彼女に飢えているのか)


 恥ずかしくなり、思わずうずくまる。床に座り込んで、壁にもたれかかるなんて、神官見習いの頃でさえやらなかった不作法さだ。けれど、今だけはもう何も考えたくなかった。

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