第19話 王女は神殿で身体を休める。
棺の中で長い間仮死状態だったマルグリットは、ディランによってとある小さな神殿に連れてこられていた。馬車を使っても、数日の移動が必要になるかなり遠い場所だ。
ディランはマルグリットの体調を気にしているようだったが、マルグリットにしてみればディランの方こそどこか身体が悪いのではないかと言いたくて仕方がなかった。麗しい美貌の主が、少し気だるげにしている様子もまた見惚れるものではあったが。
(私は日ごとに寝起きが良くなっていて、魔力の流れもずいぶんとよくなりましたが、ディランさまは酷くお疲れのご様子。やはり討伐後休む間もなく、すぐさま厄介事を押し付けられたせいでしょうね。移動の最中にこっそり癒しの魔法をかけてみたら、毎回すぐに眠りに落ちてしまわれましたから……)
馬車から降りようとしたマルグリットを、有無を言わさず抱え上げたのもディランだ。
「長旅、お疲れさまでした。まだ、足元がおぼつかないのではありませんか? 失礼」
「デ……神官長さま、私、自分で歩けます!」
ディランさまと呼びかけそうになり、慌てて神官長さまと訂正する。ほとんど接点のなかった勇者の妻が、神官長の名前を親し気に呼ぶことなどありえないのだから。
「そう言って、転びかけたのは昨日のことでしょう? 落としてしまうので暴れないでください」
手慣れた様子で神殿に用意された部屋まで運ばれて、寝台に降ろされる。ディランは介護の一環だと認識しているから、気にもしなかったのだろう。水の国では、花婿は花嫁を抱きかかえて新居の扉をくぐるのだ。そしてそれが蜜月の始まりでもある。そんな些細な風習を気にして、密かに顔を赤くしてしまうくらいに、マルグリットはディランのことが好きで仕方がなかった。
(ディランさまときたら、私の気持ちも知らないで!)
ちらりと横目でディランを見るが、彼はマルグリットの様子など気にする様子もなく、てきぱきと周囲に指示を出していた。ぼんやりしているうちに、マルグリットにも数名のお世話係とやらがつけられてしまった。併設している孤児院にいる年かさの少女たちだ。
「男のわたしに言いにくいこともあるでしょう。そのときには、彼女たちに伝えてください」
「神官長さま、身の回りのことは自分でできますので」
「決して無理をしてはいけませんよ。何かあれば、子どもたちからすぐにわたしに連絡がいきますからね」
「は、はいっ」
慌ててマルグリットが返事をすれば、おかしそうにディランは小さく噴き出した。子どもたちも何が面白いのか、にこにこと笑っている。
(不思議ね。いつもの……いいえ、昔のディランさまみたい。優しくて、お口が上手で、少し悪戯で。出世なさるにつれて、どこか作り物じみた笑みになってしまったけれど、今のお顔は本当に昔のまま。懐かしい)
ああそういうことかと、不意にマルグリットは納得した。王都から離れたこの小さな神殿は、かつて幼いマルグリットがディランの元で魔法を学んだあの神殿によく似ている。あの神殿は、勇者とともに魔王を討伐した神官長が育ってきた神殿としてすっかり有名になって、当時の面影はなくなってしまった。
ずっと上を目指して走り続けたディランも、疲れてしまったのかもしれない。そんな彼が昔のことを懐かしんで、かつての神殿に似たこの場所を選んだのだとしたら、自分のことも懐かしい思い出のひとつにしてもらえたのだろうか。
「みんなありがとう。これから、どうぞよろしくね。わからないことがたくさんあるから、いろいろ教えてもらえると嬉しいわ」
マルグリットが挨拶をすれば、教えたがりの子どもたちがきらきらとした眼差しでいっぺんに話し始める。目を丸くして、彼らの話に相槌を打つマルグリットの隣で、またディランが少しだけ硬い表情になっていた。
(疲れから攻撃的になっていたのだと思ったけれど、やはり勇者の妻が厄介事であるという認識はあるのでしょうね。ディランさまにも、子どもたちにも迷惑をかけないようにしなくては)
そのためにも、ディランの言う通りしっかりと身体を休ませることに決めた。
***
小さな神殿での暮らしは穏やかで心地いいものだった。心地よすぎて、マルグリットはときどき怖くなる。
「あの、神官長さま。本当に大丈夫ですから」
「まだ本調子ではないのでしょう。わたしのことは気にせず、どうぞゆっくり召し上がってください」
「ですが、お世話係の子どもたちもすぐに戻ってきてくれますので」
「彼らはちょうど、あなたの衣服の洗濯に出かけたところでしょう? もし食事の介助は子どもたちの方が良いということでしたら、わたしがあなたの洗濯を引き受けますが」
「……食事の介助でお願いいたします」
(ディランさまに食事の介助をされると、落ち着いて食べられないのですが……)
ようやっと討伐の旅から帰ってきた好きなひとに冷たくあしらわれたと思っていたら、今度は驚くほど優しく心を砕かれる。食事が口に合うか、胃に負担をかけていないか。夜はゆっくり眠れているか。事細かに確認されて、マルグリットは動揺していた。
(昨日など、髪まで洗っていただいて……。欲のないディランさまにはただの病人の介護なのかもしれないのですが、私は緊張してどうにかなってしまいそうだったのですから!)
孤児院の子どもたちを世話係につけてもらっているはずなのに、なぜか彼はたびたびマルグリットの部屋に顔を出した。清拭や御手水以外の世話を積極的にしてくれていたはずが、まさかの髪まで洗ってもらう羽目になるとは。
(本当にディランさまは、男女のことについて無頓着でいらっしゃるのだから。女性が髪を解くのは、伴侶の前だけなのです。棺の中で長い間過ごしていたせいで汚れているのも気になったのに、それ以上のことが起きるので放心状態になってしまったではありませんか)
しかも当の本人は満足げに乾いた髪を器用に結ってくれるのだから、マルグリットはひとりで緊張し、その夜は久しぶりに熱を出して寝込んでしまったのだ。その結果、こうやってスープを手ずから飲ませてもらう羽目になっているのだから、このままでは心臓がいくつあっても持ちそうになかった。
「さあ、おしゃべりはここまでです。どうぞ少しでも食べて、早く体力を取り戻してくださいね」
「は、はい、わかりまし、あふっ!」
緊張していたせいだろうか、舌を噛んだ。さらに変なところにスープを吸い込んでしまい、けほけほとせき込む。こんな風に子どもみたいな失敗が多いから、ディランは自分を女性扱いすることなくただの病人として介護するのだろうか。
「ああっ、すみま、せん」
「こちらこそすみません。もっと少なめにすくうべきでした。汚れてしまいますから、じっとしてください」
周囲に手拭がなかったのか、ディランが自身のハンカチを差し出してきた。そのまま口元に押し当てられたのは、神官長が使うにしてはあまりにも使い古されたハンカチだった。きちんと洗われてアイロンもかけられているが、それでもあんまりだ。
神官長という位なのだから、もっと豪奢なものを持っていてもおかしくないはずなのに、一体どうして。顔から首筋、そして手の甲と丹念にふき取られて、よくよくそのハンカチを確認し、マルグリットは目を疑った。
(あれは、ぼろ布なんかではないわ。かつて私がディランさまに差し上げた、下手くそな刺繍入りのハンカチではありませんか。ディランさまは、あんな拙い出来のハンカチを処分することもなくずっと使っていてくださったというの?)
自分のような恋情とは異なってはいたけれど、友人としては確かに大切に想ってもらえていた。それを知って、マルグリットは嬉しそうに微笑んだ。ディランがその微笑みに見惚れて、スープをひっくり返してしまうなんて想像もしないで。
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