第18話 王女は王宮に別れを告げる。
遠くでさざ波のような音が聞こえた。雨が降っているのかと思ったが、やがて何か大きな破裂音が身体を揺らした。一度や二度ではなく、次々に鳴り響く重低音。
(……これは、花火?)
それに気が付けば、先ほどまで正体のわからなかった音が人々の拍手なのだということに思い当たる。絶え間なく打ち上がる花火に鳴りやまない拍手、沸き起こる歓声。これらの現象が導くことはただ一つ。勇者一行が帰ってきたのだ。
心臓に意識を集中させれば、刻まれていたはずの勇者の魔力はすっかり消えうせていた。まるで最初から、女神の契約など交わしていなかったかのよう。
(契約の証が消えたと言うことは、約束が守られたということ。つまり、勇者さまはエマと再会できたということで間違いないでしょう。そして、ディランさまも無事に王都まで戻ってこられたということ……ああ、本当に良かった)
あとは、勇者とエマに迎えに来てもらうだけだ。死んだ勇者の元妻の振りをして王宮を去り、ディランが管理する神殿でひっそりと余生を過ごす。それが、マルグリットと勇者、そしてエマが一緒になって考えた計画である。
果たしてうまくいくものなのか。何より、ディランが勇者の元妻の保護などを引き受けてくれるものなのだろうか。監視という名目があろうとも、迷惑がられる可能性を心配するマルグリットとは対照的に、勇者は何とも軽い口調で、「何があろうと、あんたの大好きな神官長がどうにかしてくれる」などと言っていたが。
(本当は私とエマが入れ替わった事実をディランさまにお伝えするべきなのでしょうけれど、保護をお願いするだけでも申し訳ないのに、これ以上ごたごたに巻き込むわけにはまいりません。万が一の際に、ディランさまは入れ替わりを知らなかったのだと言えるようにしておかなければ)
それにしても盛大な歓迎っぷりだ。棺の中にいてさえ、人々のざわめきが耳に届くとは。感心しつつ小さく息を吐き、ゆっくりと吸い込む。久しぶりに吸い込む太陽の香りを身体の隅々まで味わい、そして悲鳴を上げそうになった。
(おかしいわ。棺の中にいて、こんなにはっきりと周囲の音が聞こえるものなの? 閉じられたままの棺の中でお日さまの匂いを感じることだって難しいでしょう。それにどうして、背中には硬い棺の感触がないの? まさか既に棺から回収されていて、目的地に運ばれようとしている?)
長い間眠っていたからだろう、マルグリットの身体は思うようには動かない。それでも薄皮を剥ぐように、少しずつ力の入れ方を思い出し始める。恐る恐るまぶたを開ければ、彼女の様子に気が付いていたのか、仏頂面でマルグリットを見つめているディランと目があった。
面紗をつけない状態で顔を見るのは、いつ以来だろうか。目の前にある愛しいひとの姿に、気が遠くなりそうだった。
(ディラン、さま)
遠くで沸き上がる歓声が一層強くなる。命を懸けて魔王を倒した勇者と彼の無事を祈り待ち続けた美しい王女の再会を誰もが喜んでいるのだろう。けれどマルグリットはそんなことに構わないまま、ただひたすらディランの胸元でしゃくりあげた。
あなたの帰りをずっと待っていました。
そう言いたくて、けれど、勇者の元妻という身分になったマルグリットが口にするにはおかしいような気がして、何も言えないまま涙をこぼす。言葉にできない苦しさのせいだろうか、勝手につかんでいたディランのマントが皺だらけになっていた。
「泣くほど悔しいなら、こんな日も当たらぬ場所で泣かずとも直接文句を言ってきたら良いではありませんか。その男の隣に立つべきなのは、本来自分なのだと」
泣き続けるマルグリット――ディランから見ればエマだ――を持て余したのか、ディランが眉間の皺をさらに深くする。
どうやら、勇者の元妻が、王女に夫を奪われたことを嘆き悲しんでいると思われているらしい。
(なんてことなの。あのお優しいディランさまにさえ、嫌われてしまっているなんて。勇者の元妻という微妙な立ち位置の女には居場所なんてないのかもしれない)
あるいは、長年の友人だったマルグリットがようやく手に入れた幸福を喜んでくれているのだろうか。マルグリットは嬉しいような悲しいような受け止めきれないディランの態度に、余計に涙が止まらなくなってしまった。
「はあ、まったく」
うんざりした声を出すわりにそれでも突き放してこないのは、彼がエマ扮する王女殿下直々にマルグリットの世話が命令されているからなのだろう。特に勇者の振る舞いを見るに、かなりの勢いでマルグリットの面倒を押し付けていそうだ。
マルグリットは練習のし過ぎでぼろ雑巾のようになったハンカチで涙を拭きながら、ディランに向かってぎこちなく笑いかけてみせた。久しぶりに喉を使ったせいか、発した言葉はひどくかすれている。
「……お見苦しいところを申し訳ありませんでした」
「本当に酷い顔です。無理矢理笑ったところで、見られたものではありません」
ディランの口から出てくる辛辣過ぎる言葉に、神殿での暮らしも穏やかなものとは程遠いかもしれないとマルグリットは残念に思った。だが、自分で決めたことなのだ。今さら、後悔しても仕方がない。ぼんやりとした不安を感じつつも、マルグリットはディランにその身をゆだねることにした。
誰もが王女と勇者の再会に注目している間が、一番目立たないに違いない。そんなディランの考えのもとマルグリットが王都を離れたのは、魔王討伐を果たした勇者が王都に凱旋したその日のことだった。
***
「尻尾を巻いて逃げ出してきてよかったのですか?」
会話が弾むはずもない馬車の中、黙って外を見ているとディランが尋ねてきた。あたりのきつさにマルグリットは首をひねる。この方は、どんな立場の人間に対してもこのような無礼な物言いをする方ではなかったはずなのに。
それとも、勇者とともに魔王討伐の旅を続けていく中ですっかり擦れてしまったのだろうか。王家の人間だって常にかしずかれて暮らしているわけではない。場合によっては、毒を盛られたり、泥団子や石を投げられたりする。ディランが勇者一行として辺境を目指し、いろいろなものを目にしていたことを考えれば変わらずにいることのほうが難しい。
まあもしかしたら、ようやっと偉業を成し遂げて辺境から王都に戻ってきたばかりだというのに、勇者の元妻の保護――正確には監視――という、つまらない仕事を押し付けられたことに腹を立てているのかもしれないが。
とはいえディランは、マルグリットの体調には気を遣ってくれている。神殿から持ち出したらしい特別性の魔力補給薬を飲まされ、ひとまず多少の会話程度ならマルグリットにも可能になった。
「勇者さまは真に大切なかたのお隣を選ばれたのですから。祝福こそすれ、私が何か言うことなどございません」
「そうですか」
「神官長さま、魔王は討伐され平和が戻り、復興の象徴として勇者と王女が結婚する。それで良いではありませんか」
マルグリットの言葉をどう受け取ったのか、ディランがつまらなそうにため息をつく。指先の動きから苛立っているのがわかり、思わず顔を強張らせた。
自分に同情してくれとは言わない。こちらを蔑んでくるような人間は論外だが、いたましいものを見るような視線もそれはそれで辛いものがある。ただごく普通の人間として接してくればそれで十分なのに。ディランにとっても、マルグリットはやはり煩わしい存在なのだろうか。
それでもマルグリットは幸せだった。たとえ嫌われていたとしても、愛するひとのそばで生きることができるというのなら、それ以上の幸福はないのだとそう素直に思えた。
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