第15話 王女の知らないところで神官長は怒る。
ディランを含めた勇者一行は、四王国のどこにも属していない魔境を目指していた。どこの領地にもなっていない理由はただひとつ、そこが魔王の復活する場所であり、再び封印される土地だからだ。四王国が四方から監視するような形になっているのも、女神たちがそうなるように望んだからなのだろう。
最初は水の国で飼われている竜に乗っていたものの、戦闘が激しくなるにつれて移動手段は変化していき最終的に徒歩になった。長時間の移動に突発的な魔獣との戦闘。先の見えない行軍にどうしても皆疲れがたまっている。
珍しく今日は、魔獣に汚されていない清浄な泉が見つかり、一行はしばしの休息をとっていた。休めるときに休まねば、次の戦闘で致命傷を得るかもしれない。だからこそ、ディランは泉を通して水の女神に祈りを捧げることにした。神官の祈りは自然と人々の心を安らかにさせる。女神による癒しを分け与えることになるらしい。
(少々疲れがたまってきていたところだったので助かりました。本来は魔王と戦うにあたって数で立ち向かうのが人間としての正攻法なのでしょうが、この行軍に耐えることのできる人間は少ない。今の一行をいかに失うことなく、最終戦まで持ちこたえることができるか。難しい戦いです)
神官である彼が平常心を失えば、騎士たちの心も揺らぎかねない。ディランは魔力の回復を行いつつ、精神統一につとめていた。そのときだ。予想もしていなかった声が耳に飛び込んできたのは。
――ディランさま、あなたに会えないことが寂しくてたまらないです。あなたは、世界を救うために過酷な旅に出ていらっしゃるのに。――
それは確かに、水の国の王都にいるはずのマルグリットの声だった。久しぶりの彼女の声は、時間も忘れて聞き入ってしまうほど甘く柔らかい。思わず泉の中にマルグリットの姿を探してしまった。もちろん、彼女の姿はない。
(わたしに会いたいと思ってくれているのですか。寂しいと思ってもらえることに嬉しいと思ってはいけないのでしょうね。それでもあなたの心に隙間ができるほど、わたしという存在を置いてもらえていたなんて)
思わず胸を高鳴らせたディランは、続くマルグリットの言葉に浅はかな己を恥じた。
――私は勇者さまと約束した通り、エマを守るだけで精いっぱい。みんなの視線と言葉が痛いのです。――
(王女殿下は勇者にその身を捧げていたはず。『勇者さまと約束した通り、エマを守る』? 一体、どういうことですか)
にわかに人々の間に流れた王女と勇者の噂話のことなど、ディランははなから信じてなどいなかった。勇者本人が末王女を娶ることを拒み、国王が実の娘を王笏で打ち続ける現場を目撃しているのだ。甘ったるい夢物語を受け入れられるほど、彼の頭の中はお花畑ではない。
だが、マルグリットの体内に勇者の濃い魔力があったのは事実。無理矢理身体を暴かれたのであれば、魔力の譲渡や交換は難しい。だから少なくとも、受け入れたマルグリット側は勇者への好意が多少なりともあったはず。そうでなければ、あの魔力に説明がつけられない。そこまで考えて、ディランは息を呑んだ。
(まさか、勇者殿の妻……エマ殿を守るという条件で、抱いてもらったのですか? 子種を分け与え与えてもらうという最低限の役割を果たしてもらえれば、勇者の心は求めないと? そこまで勇者に囚われてしまっていたのですか?)
――ディランさま、お声が聞きたい。それだけで私は頑張れるのに――
(恋い慕う勇者ではなく、友人であるわたしに助けを求めるほどの苦境にあるなんて……)
あの見下げた王族の中では、「勇者と婚約した王女」という肩書では、マルグリットを守るには足りなかったということなのだろうか。あるいは、元妻への攻撃を払いのけることが精神的に負担で、苦しくなってしまったという可能性もある。何が悲しくて、愛するひとの恋い慕う相手を命がけで守らなければならないのか。
(そもそもどうして、わたしにマルグリットの声が届いたのかも不明です。わたしの固有魔法ではないことは確か。ということは、何か女神の加護が働いているのかもしれません)
いずれにせよ、勇者に話を聞かねばならない。ディランは慌てて、勇者の元に走った。
***
「勇者殿、確認したいことがあります」
「なんだ、藪から棒に。祈りとやらに出かけていたのではないのか?」
武具の手入れをしている勇者には、いつもと変わった様子は見られない。
(あの声は、自分にしか聞こえなかったということですか?)
ふと、勇者の手元に見慣れない組み紐があることに気が付いた。
「それは?」
「ああ、これか。いつもは失くさないように懐にしまっているのだがな。妻の髪を結っていた組み紐だ。小さくて目立たないおかげで、王家の近衛にとがめられることもない。これを持っていると、すぐそばにエマがいてくれるような気がする」
「あなたが心配をしているのは、エマ殿だけですか?」
「は?」
「王女殿下について、思うところはないのですか?」
だが、勇者は激高するディランを不思議そうに見返すばかりだ。
「王女殿下? 彼女は強い。大丈夫だ。心配するな」
「……ふざけるな!」
「……理由もなく、いきなり怒鳴りつけてくるとはどういう了見だ」
「王女殿下を縛り付けておきながら、彼女の身を案じることもしないなんて。どうして殿下は、お前のような男と!」
「馬鹿野郎、こんな場所で魔力展開するんじゃない」
勇者が剣を掲げると、女神の加護が働くのか魔法が無力化される。舌打ちしたディランが、殴りかかろうとするがその拳はあっさりと止められた。
「だがそれは、マルグリットが望んだことだ。俺が強制したわけではない」
「この下衆が!」
「だから落ち着け」
魔法なしの体術で、神官が勇者にかなうはずがない。適当にあしらわれたあげく、したたかに背中をうった。神官服が泥にまみれる。
(王女殿下、どうしてあなたはこのような男を選んだのですか。国王の望む勇者との婚姻ならば、白い結婚でもよかったはずです。石女という不名誉な呼び名は与えられるかもしれませんが、あたたかい家庭に憧れたあなたが無駄に苦しまずに済んだはず。他の女を愛する男に恋焦がれるなんて、地獄の業火でその身を焼かれるだけだ)
どうしたものかとこちらを見下ろす勇者を睨み返し、ディランはゆっくりと身体をおこしかけた。
(この男は、あなたがどんなに苦しい気持ちで、勇者の愛する妻を守っているかなんて、想像もしていません。当然のようにあなたの愛を受け取り、踏みにじっている。わたしを選んでくださっていたら、そんな思いはさせなかったのに)
マルグリットが勇者を選んだあの日の晩に感じた心の中のもやもやが、明確な形を持った。ああ、自分は神官でありながら、女神さまへの祈りの道ではなくただひとりのひとを選んでしまっていたのだと気づかされる。
なぜマルグリットをあれほど守りたいと思ったのか。
友人のはずなのに、勇者を選ばれたことにどうしてあそこまで動揺したのか。理解したときにはもう遅い事実にめまいがする。いや、これはきっとしたたかに身体をぶつけたときの痛みに違いない。そう思うことにした。
(王女殿下、この男は自分の元の妻であるエマ殿のことしか頭にない。あなたの献身すら、当然のことだとみなしている。そんな男に心を預けて、それで本当にあなたは幸せになれるのですか)
それでも、マルグリットの願いがこのろくでもない勇者の帰還なのだと言うのなら、ディランにできることはひとつしかないのだ。この男を守り、魔王を封印する。そのために全力を尽くすだけ。結局、選んだことはマルグリットと大差がない。愚かな自分たちはよく似ていると、ディランは小さく笑った。
「なんだ、もういいのか」
「あなたに勝てないことはよくわかりました」
「勝ち負けではないような気がするが。俺たちは、自分たちの信じるものを守るために進むだけだ」
「あなたにだけは言われなくありません」
「それだけ俺を睨みつける元気があるのなら、問題ないな」
勇者と神官長の喧嘩は、偶然誰にも目撃されることはなかった。それでもふたりの間に何かがあったらしいと周囲が察するくらいには、雰囲気が悪かったらしい。その日の夕食は、食事係がどう工面したのか、酒までつけての大盤振る舞い。それを黙々と食べる勇者の顔面を頭の中で何度も殴りつけなりながら、ディランは抑えのきかなった自分をひとり反省するのだった。
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