第14話 王女は祈りの儀式を行う。

「いたっ。また刺してしまったわ」

「姫さま、大丈夫ですか?」

「ええ。指の痛みには慣れたけれど、白いハンカチが血染めになってしまいそうで困ってしまうわね」


 マルグリットは、刺繍の手を止めて苦笑いした。昔から乳母以外の侍女や下女がついたことはないため、身の回りのことは自分でやってきている。それでも人間には得手不得手というものがあるらしい。最低限の繕い物はできるものの、刺繍に関してはなかなか「淑女の嗜み」として求められるものを仕上げることは難しかった。


(それでも、その昔ディランさまに差し上げたハンカチに比べれば、刺繍の腕前もずいぶん上達したかしら。今ならば、何の図案を刺繍しているのかくらいは推測できるのだから)


 抽象画を刺繍したようなハンカチにもかかわらず、笑うことなく受け取ってくれたディランの優しさを今さらながらに思い知る。「頑張って刺繍をほどこした」と言いながら、実際はややこしい刺繍の大部分をお針子に任せるような貴族らしい女性がたくさんいることをディランは知っていたのかもしれない。


(下手くそでも、自分の手で作ったことに価値を認めてくださったのなら、それはきっと幸せなことね)


 酷い出来だったし、もうずいぶん昔の話だ。きっともう雑巾か何かにされて処分されていることだろう。どうせなら出発前に新しくハンカチを渡しておきたかった。血の染みがついてしまったハンカチを膝に置き、休憩を兼ねて小さく伸びをする。


(でもそれは無理な話。勇者さまとの結婚の話が出ているというのに、面倒事に巻き込むわけにはいかないもの。こうやって毎日無事を祈る儀式をさせてもらえるだけでも幸せだと思わなくては)


 勇者一行が魔王討伐に旅立ってから、マルグリットとエマは毎日ハンカチに刺繍を刺し、女神の泉に納めている。戦争に旅立った男の帰りを待つ女性たちの祈りの儀式だ。どれだけの効果があるのかはわからない。けれど、込めた想いの大きさが男たちの力になると思えば、自然と手は動いた。あるいは、くよくよすることなく刺繍に励むことで、心を落ち着かせる効果があるのかもしれない。


 ハンカチを見て思案するマルグリットに、エマがいいことを思いついたと言わんばかりに微笑んだ。


「それでは、姫さま。血が付いてしまった部分はナナカマドの実を刺繍してはいかかがですか。ナナカマドには魔除けの意味合いもありますし、花と小鳥に合わせてもおかしくありません。何より赤い色を覆い隠せます」

「ナナカマドの実は季節的におかしいのではないかしら。花も小鳥も春のものなのに、実は秋のものでしょう?」

「気にするひとは気にするかもしれませんが。大事なことは、相手のことを大切に想うことですから」

「そうね、そうかもしれないわね」


 マルグリットが赤い刺繍糸を取り出した。ひと針ひと針に祈りを込めて刺繍をほどこしていく。どうか無事でいてくれますように。どうか帰ってきてくださいますように。マルグリットにとって、ディランは彼女の世界そのものだ。だから、少しでも可能性があるのならばどんな迷信にだって全力ですがるしかない。


「姫さま、今日の分は出来上がりそうですね。それでは、そろそろ参りましょうか」

「エマ、姫さまはやめてちょうだいな。うっかり外で言い間違えたらどうするのです」

「大丈夫ですよ。外では小声でペギーと呼びますから」

「じゃあ、私はエミーと呼んだらよいということかしら。って、そんな隠す気のない愛称じゃ駄目でしょう」

「ペギーとエミー、小声なら全然わかりません!」

「本当にエマったら」


 離宮の外は嵐の夜のような恐ろしい世界。それでも、ふたりはそんなこと気にもならないかのようにころころと笑い続けていた。



 ***



 以前ならめったに離宮から出ることのなかったマルグリットだが、ハンカチを奉納するために毎日必ず女神の泉――正確には王宮内の儀式の間――に出向かなければならない。


 末王女マルグリットの振りをして面紗を被ったエマと、勇者の元妻の振りをして面紗を脱ぎ捨てたマルグリットが並んで歩けば、嫌でも人目を引いた。


「マルグリットさまだ。毎日、勇者殿の無事を願い祈りを捧げに行かれているらしい」

「昔は本当に地味で大人しくて恥ずかしがり屋のお姫さまだったのが、恋はひとを変えるのね」

「あんなに華奢で、儚げでいらっしゃるのに。愛するひとを待つ王女さまのなんと美しいこと」


(とりまく雰囲気が変われば、かけられる言葉もかわるものね。ちびでやせっぽちで陰気臭い末王女さまも出世したものだわ。あるいは、エマの美しさは面紗を被っていても誤魔化せないのかしら)


 面紗で顔を隠すことになれたマルグリットは、素顔のまま王宮の悪意にさらされて震えあがっていた。伸ばした前髪で顔を隠しつつ、下を向いて歩く彼女に向けられる視線も言葉もひどく冷たい。マルグリットは生まれてきてからずっと虐げられる生活を送ってきていたが、それでも王族という立場がどれだけ自分を守っていたかを思い知った。


(あれでも私は、ディランさまをはじめとしてたくさんのひとに守られていたんだわ)


 国王に近い者たちは、冷ややかな目で勇者の妻を名乗るマルグリットを見つめている。そこには、鬱陶しい羽虫を見つけたような苛立ちが含まれていて、マルグリットはそのような視線にたびたび射すくめられた。


(王女だった頃に向けられた苛立ちとは異なる。こんなに明確で、冷ややかな殺意というものがあるのね)


 政治的な判断とは遠い、嫉妬ややっかみからなる姉王女たちからの嫌がらせは、陰湿だが馴染みのあるものだった。どんな時も様子のかわらない姉王女たちに、妙な切なさを感じてしまう。


(お姉さまたちにとっては、自分以外が幸せになることは、自分たちが損をすることに繋がるのかしら。本当に昔から変わらない。でもその自分勝手さにほっとすることがあるなんて思わなかった)


 そしてマルグリットの心を一番すり減らしたものは、王族や高位貴族以外の人々の声だった。味方のいないマルグリットのことを気にかけてくれる者たちは意外といるものだ。貴族としてはそれほど地位の高くない者、苦労して王宮勤めに潜り込んだ平民たちなどは、虐げられるマルグリットに人知れず親切にしてくれた。


 自分たちよりも可哀そうな生活をしている王族を憐れむのは、心地よいから。もちろん彼らはもともと総じて善良で、心根の優しいものたちだ。そんな彼らは王家が流した噂に踊らされ、マルグリットの幸運を喜び、そして善意から勇者の元妻を邪魔者扱いした。勇者の元妻に扮しているのは、自分たちが密かに見守ってきたお可哀そうな末王女だなんて思いもしないままで。


「あの陰気な顔を見てごらん。あの顔で、王女さまの幸せを引き裂いているのさ」

「離宮に住まわせてもらっているなんて、なんて恥知らずな」

「さっさと出ていけばいいものを」


 彼らの優しさを知っているからこそ、投げられる言葉が身体に突き刺さる。


「ひめ……」

「マルグリットさま、儀式の最中です。口を慎んでくださいませ」


 ぴしゃりとあえて周囲に聞こえるように、マルグリットがエマを注意する。おかげでますますマルグリットへ向けられる敵意が強くなった。


 儀式の間には、限られた人間しか入ることが許されない。王族ではない勇者の元妻が立ち入ることに咎めるような視線を感じる。女神の泉の前まで来ると、マルグリットはようやく息を吐いた。


 この小さな泉は、女神の御元に繋がっていると言われている。実際に刺繍を刺したハンカチを沈めると、淡い光になって消えてしまうのだ。想いが届く、力になると言われれば、そうなのかもしれないと信じたくなるような神秘的な光景だった。


 春も間近だというのに急に冷え込んだせいなのか、指先がひどく冷たい。泉の中にハンカチを沈めていると、どうしてだか不意に泣きたくなった。火傷を治してもらったときに触れたディランのてのひらの暖かさを思い出す。


(ディランさま、あなたに会えないことが寂しくてたまらないです。あなたは、世界を救うために過酷な旅に出ていらっしゃるのに。私は勇者さまと約束した通り、エマを守るだけで精いっぱい。みんなの視線と言葉が痛いのです。ディランさま、お声が聞きたい。それだけで私は頑張れるのに)


 無事を願う祈りとともに、ディランへの想いは女神の泉へと溶けて、静かに消えてゆく。

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