第10話 その顔と、その声で。
もし具合が悪くなったらいけないからと、話はこのまま聞く事にした。それでも、中途半端に座った状態だと俺の腰が死ぬ可能性があったので、ヘッドボードに大きなクッションを当てて座らせてもらう事にした。
二人で弾き語りをしていた時に一番落ち着いていたと言うから、俺が孝哉を後ろから抱えた状態は変えないままにしておく。孝哉が話す間も、俺はギターを爪弾いている事にした。
小さく流れるアルペジオがあると、無言になったとしてもきっと心細くないし、もし震え出したりしたら、また落ち着くために弾くのを手伝って欲しいからと言われ、俺もそれを了承した。
「俺さ、何度か話してる途中に嫌な態度とったことあるでしょ?」
孝哉はすでにギターのボディに抱きつくようにして、不安を逃がそうとしている。話し始めたばかりでそうなるほど、嫌な思い出なのだろう。俺はその体にのしかかるようにしながら「骨折られた後すぐとかだろ? 確かに感じ悪かったな」と答えた。
「ちょっと、重いよ……。そう、その時が一番酷かったと思う。あの時、ごめんね。あれ、さ。俺、よく男の人に狙われること多くて……。ちょっと警戒してたんだ」
「狙われる? ……あー、そういうこと? なるほど、そういうことか。あの時、俺がケガさせた責任とって体で払えって言ったと思ったわけね」
孝哉は小さく顎を引くと「そう」と答えた。そして、左手の傷を右手の指先で摩る。その傷は初めてみた時から気になっていた。その見た目だけで、かなり深く切られたのだろうということが伝わる。
見た目で判断してはいけないのだろうけれど、この可愛らしい顔の男が、こんな大怪我をするような喧嘩をするわけもないだろうと思い、事故ではないのなら、誰かに一方的につけられたものなのかもしれないと思って、深く訊けずにいた。
「俺がバンドを崩壊させるって話をしたこと覚えてる? あの時、アーティスト気質の奴らとだからうまくいかないんだろうって話にしてたと思うんだけど……確かにそれもあったけど、それだけじゃなくて。俺、そうやって狙われるから。毎回バンド内でメンバー同士が揉めるんだよ。誰が俺を手に入れるかって言って」
「……奪い合いされるってことか? すげーな。……え、お前はそのうちのどっちかが好きだったりしたわけ?」
俺がそう問いかけると、孝哉は眉根を寄せて笑った。そして、ブンブンと被りを振ると「いや、全然。俺、まだ誰も好きになったことが無いし。俺の意思なんてまるで無視されて、バンドが揉めて、解散って感じ」と、呆れたように言った。
「なんか、昔のマンガとかドラマみたいな話だな。本当にそんなことがあるんだ」
「うん。あった。俺も、そういうのとは無縁の暮らしがしたかった」
そう言って、孝哉は左手をぎゅっと握りしめた。
「最初は顔なんだって。歌ってる時の顔がエロいってよく言われた。……そんなこと言われてもな。俺はただ音と言葉を思った通りに鳴らすのに精一杯なだけで、誰かに色気を見せつけようなんて思っても無いのに。しょっちゅうボケッとこっち見られてて、練習にならなくなって。そこから揉め始めるんだ」
「歌ってる時の顔ねえ……あ、俺あんまり見えてないな。真後ろにいるから。だから俺は無事なのか?」
妙なことに感心して手をポンと打っていると、「だから仕草がおっさんくさいんだってば」と突っ込まれた。俺にツッコミを入れている時の孝哉は、本当に楽しそうな顔をしていて、俺はその顔を見ていると多少ドキリとはする。
でも、今そういったことで悩んでいるという話を聞いているのに、そういう軽口を叩くのは良くない。いつもは反射で溢れる言葉を、しっかり考えてから飲み込んだ。
「エロい顔で歌ってるから、手に入れたくなって、邪魔者と揉める。俺たちは悪くない、お前の存在が悪いって言われ続けた。それで解散ってことが三回あって、もう一人でやろうって思って弾き語り始めたんだ。実はさ、父さんはギタリストなんだよね。クラシックの方の。塞ぎ込んだ俺を心配した父さんが、練習部屋を俺用にリフォームしてくれたんだ。それから歌をめちゃくちゃ磨いた。その一人でやってた期間が、多分一番幸せだったと思う」
そこまで言うと、孝哉は窓の方へと視線を移した。俺もそれにつられて同じ方を見る。分厚いガラスの向こうでは、一体どんな音が鳴っているんだろう。稲光が走るほどの雷雨にも関わらず、それは想像でしか聞くことができなかった。
「あの日もこんな天気だったんだ」
孝哉はそう呟くと、左手を抱えるようにして体を折り曲げた。ギターが滑り落ちそうになってしまって、それを掴もうと思わず手を伸ばした俺は、バランスを崩して落ちそうになった。
「おわっ!」
下に落ちると、足をぶつけるかもしれない。そう思って焦った俺は、思わず孝哉の服にしがみついてしまった。
結局、手は届かずにギターを下に落としてしまった。落ちた場所には、毛足が短いながらも分厚いラグがあったため、傷はつかなかったようだった。ただ、衝撃で弦が弾かれて大きな音がなった。
それを聞いて、孝哉がパニックを起こし始めた。
「やめろー!」
引き倒してしまった俺の手を、左手で思い切り殴りつけてきた。握力が子供並みであっても、腕力は成人男子のそれだ。俺の腕は、ジンジンと痺れ始めた。
「っつ!」
俺は孝哉の豹変ぶりが心配になった。こちらを見た顔は、まるで殺人鬼のように恐ろしいものだったからだ。何をしてでも俺を痛めつけてやろうとしているのが伝わる。
でも、俺も腕は商売道具だ。大きな怪我をするわけにはいかず、なんとか体勢を整えると、後ろから孝哉を抱きしめた。
「離せっ!」
「お前……もしかして、襲われたことがあるのか? 今俺が倒したから、パニック起こしてるのか?」
瞳孔が狭まるほどに怒り狂う孝哉を、後ろから抱きしめたまま途方に暮れた。奪い合いされるほどの存在が、触れられるのを嫌がってパニックを起こしている。確認していないから、決めつけてはいけないのだろうけれど、襲われたのだろうと言うのは、容易に伝わった。
俺も鍛えているから、力は強い方だと思う。それでも、この状態の孝哉を力づくで大人しくさせるのは逆効果のような気がしていた。
——ミュージシャンなら、音に導かせるのが一番か?
そう思って、俺はスワングダッシュのイントロを弾いた。
ただし、それは簡単じゃ無かった。殴られながら、脇腹を肘でうたれながらも、弾く手を止めないようにしなければならない。演奏にブレがないようにするだけで、必死だった。
『ちょっとつまんなくなって来たって 結局どこかに潜んでる
そこに流れるエネルギーと ここで持て余してる力を
ちょっとうんざりしてきて もういらないからって言ってみて
後悔しては 傷つく
丸くて 光って 優しくて 冷たい雨たち
降ってくる
濡らしてく
集まって 大きくなって 流して 消し去っていけ』
ついさっき、孝哉が歌ったその曲を、今度は俺が弾きながら歌った。俺も元々はギターボーカルをやっていた。右目が無様に潰されてしまうまでは、売れるのは間違いないと言われていた。
「知ってるだろ? 俺だって、絶望したことあるからな。だから、こうやってパニックを起こすのも理解できる。だから、俺は逃げないからな。好きなだけ暴れろ。それですっきりしたら、また歌うぞ。それに……」
孝哉は俺の左手に噛みついた。
「ってえ!」
ギリギリと歯を立てていく。指先に痛みが走ってくる。それでも、今は演奏を止めるわけにはいかない。
「俺、全く歌えなかったんだからな! お前よりもっと長い期間歌ってなかったんだ。その俺に歌わせてんだ、ギターも歌えてる。二人でやんぞ! 俺となら出来るだろ? ぜってー楽しいに決まってんだろ? さっさと正気に戻れ!」
噛みついたままの孝哉の口に横から指を差し込んだ。少し力が緩んだところを見計らって、その体ごとグッと自分の方へと引き寄せる。それでもまだ俺を敵だと思って離れようとしないから、腹が立って横からキスをした。
「っ!」
驚いて孝哉が口を離した隙を狙い、傷だらけになった左手を開放した。そして、孝哉の体をまっすぐに正して座らせる。
「歌え! その顔とその声で」
それまでのゆるいアルペジオから一転して、激しいストロークの続くアレンジでチルカモーショナの曲を弾き続けた。最初は驚いて固まったままの孝哉を、音がだんだんと正気に戻していく。
ライブに足を運んでいたのなら、俺のアレンジを何パターンも聞いているはずだ。それはきっと、強烈な記憶になっているはず。あの頃の俺たちは、同じ曲をいろんなアレンジで楽しむことに夢中だったから。
「わかってくれない奴の呪いに縛られんな! わかるやつは絶対いんだよ。そいつらと楽しむために、お前のために、俺のために、歌え!」
音の檻に囲まれた手負の獣のようだった孝哉は、いつの間にか音のベールに癒されるように落ち着いていった。だんだんと目に正気が戻る。
そして、その口が戸惑いながらもゆっくりと開かれていくのが、目の端に見えた。
——そのままだ、そのままこっちに帰って来い。
「体を鳴らせ、孝哉。お前の全てをこの音の中に溶かしてしまえ! 俺とならお前は自由だ」
タイミングを合わせるために、ボディを二回叩いた。その音に反応して、躊躇いををなくした唇が大きく開かれた。
——俺と、一つになれ。
そして、その想いが通じたのか、孝哉は勢いよく息を吸い込むと、恐れの全てを吐き出すようなシャウトを放った。
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