第9話 聞いて欲しいんだ
平日に大学を飛び出して、初めて授業をサボった。同じ教室に谷山がいると知った日から、あの教室は俺にとっての地獄へと変わってしまった。
どれほど言い聞かせても、心臓は大人しくなることが無く、迫り上がってくる吐き気との戦いに敗れて、トイレに籠ることが増えていった。
今日はそれでも、隼人さんとの朝メシが楽しくて、あの人の世話をすることで気持ちが強く保てそうだったから、もう大丈夫だと思っていた。
でも、トラウマというものはそう簡単には消えてくれないもので、やっぱりあいつに触れられるだけで、気を失ってしまうほどに体が拒否反応を示してしまう。
多分、谷山がしたことも問題だけれど、そのことが原因で歌えなくなってしまったことが大きい。俺にとっては、どんなことよりも自分を癒すことが出来るもの、それが弾き語りだったからだ。
出来なくなったことを嘆いていても仕方がないからと、何度かカラオケに行ってみたりもした。それはそれで楽しいけれど、歌がもつ熱と演奏に込められているものがずれていても、修正が出来ないことが少しずつストレスになっていく。
——俺だったら、ここはこのくらいに抑えて、後半で手数増やすんだけどな。
そんなことを思いながら歌っていると、いつも優太が悲しそうに笑う。
『辛いなら、やめておこうか』
あいつがそう言ってくれるのを、いつもただ待っているだけだった。
ライブハウスでのセッションに誘われて、歌おうとしたこともあった。
ただ、人前で歌おうとするとその後に襲われると思ってしまうようで、結局一声も発することができずにその場に座り込んでしまった。
それ以来、一度も大きな声で歌っていない。それが、こんな形で叶うなんて……。
あの日の俺に教えてあげたい。
——お前、死んじゃダメだぞ! あのハヤトと一緒に歌えるんだぞ!
今、俺の体には、隼人さんの右腕が絡みついている。左手でコードを抑えるのに右手が遊んだ状態では、体が安定しない。その状態だと、余計な力が必要になってしまい、手を痛めてしまう。
それに、グルーヴのある演奏がしたければ、ギターと体の距離は近いほうがいい。そのために、隼人さんは俺の体に右手を巻き付けていた。
演奏に昂りが出てくると、体を左右に揺らしたりもして、そのタイミングが俺とピッタリであることに感動する。それが俺も高揚させて、足の裏から頭の先まで、金色の泡がぶわあっと駆け抜けていき、その喜びに体が震えるのがわかった。
——生きてる……! 俺、今めちゃくちゃそれを感じる!
『すり寄せて、繋ぎ合わせ、混ざり合わせ、一つに』
俺と隼人さんの弾き語りへの渇望が合わさって、飢えていた心にじわじわと染み込んでいく。息が切れて、汗が散って、それでもこの体の中に流れていくエネルギーと、ギターから溢れ出す響きの粒を、二人で受け取って、落としあって、それが最高に気持ちいい。
『集まって、大きくなって、流して、消し去っていけ』
このまま何度か歌い続けていれば、この人と一緒にやっていれば、もしかしたら、いつかあの恐怖は流れて無くなるのかもしれない。
そんな期待を胸に、ちらりと隼人さんの顔を見た。残っているフレーズは、最後の一言だけ。シャウトとは違った、体の裏側から前に向かって広げていくような、力強くて柔らかいロングトーン。
『swung dush』
エンドまで走り抜けて、その音が全ての響きを止めて、その場で落ちて消える頃には、俺は滝のような涙を流していた。
久しぶりに全力で歌えた。
こんなに幸せな気持ちになったのは、初めてだった。
肺活量は笑えるくらいに落ちていて、最後は体がガタガタと震えていた。それでも、こんなにしっかり歌えたのはあの事件以来で、どうしても涙を止める事が出来なかった。
嗚咽を漏らすことも出来ないくらいに、放心して泣いていた。口は開いたままだし、目なんてこのまま抜け落ちてしまうんじゃないかっていうくらいに開ききっている。
隼人さんの腕が、俺を支えてくれているからずり落ちずに済んでいるけれど、それがなければ、多分このまま顔から床に落っこちていただろう。
「……すっげえ」
ゼーゼーと息を切らせている俺の後ろで、隼人さんが小さく感嘆の言葉を漏らしていた。ふと気がつくと、隼人さんも震えていた。それは、俺のように夢中になりすぎたことでの酸欠でというわけではなく、純粋に感動しているからのようだった。
気がつくと、背中が少し冷たくなっていた。服が濡れるくらいには涙を流しているみたいだ。
「……泣いて、る?」
ぎゅっと詰められて熱くなった息を吐き出しながら、そっと振り返ってみた。そこには、眉根を寄せて涙の筋を作り、言葉にならない思いを噛み締めている隼人さんの顔があった。
「お前……、すごい声してるんだな。この曲がこんなにいいんだって、初めて知ったぞ」
そういうと、両手で俺の体を力の限り抱きしめてきた。内勤のくせに思ったよりも力が強くて、思い切り締め上げられて窒息しそうになってしまう。情けないけれど、俺も手の力が弱くて振り解けず、どこかで一瞬ゴキっという音がした。
「いってててててて! ちょっ、死ぬ! 力つえーよ……」
それでも構わずぎゅうぎゅうと締め上げながら「だって、すげー良かったじゃねーか! 信じらんねえ!」と言って、俺を左右に振り回す。
「ちょっと! 危ない、危ないから……」
「うわー、すげえ、なんだこれ……気持ち良すぎんだろ、お前とヤんの」
そう言いながらうっとりとする隼人さんを見て、「いや、言い方! それなんか違うものに聞こえるから……気持ち悪いだろ!」と俺がいうと、隼人さんはとても楽しそうに大きな笑い声を上げた。
「だってよー。俺、すごい感動してるんだぜ? お前の歌が凄すぎてさ、久しぶりに演奏に感情が乗ったんだよ。あれだけ何やってもダメだったのに……なんだよ、お前、精神安定剤かなんかなの?」
そう言いながらくつくつと笑っていたけれど、だんだんと言葉に詰まり始め、いつの間にか大声をあげて泣き始めていた。ギタリストに多い、大きな手の長く繊細な指が、顔を覆い尽くしている。それなのに、その隙間からはたくさんの涙がこぼれ落ちていた。
「こんな……こんな風に弾ける日がまた来るなんて……。もう一生ダメだと思ってたのに」
「隼人さん……」
俺だって、そうだった。もう一生、あの声は出せないと思っていた。体の奥から湧き出すような、血の通った声。体の骨の全てが共鳴するような、全ての筋肉が躍動するような、思いの乗った声。
『お前がそんな顔とそんな声で歌うから! 我慢できなくなったのは、俺のせいじゃない!』
あの日……俺が谷山に襲われた日。この身勝手な声と歌い終わった体の熱が、俺から歌を奪っていった。
殴りつけられる頬、引き裂かれた衣服。見つけられたからこそ途中で解放されたけれど、縛られて全裸で弄ばれているところを、数人に見られてしまった。
しかもこの時、連れ込むためにナイフを持ち出した谷山は、抵抗する俺の腕を切りつけた。脅すだけなら浅く切ればいいものを、狂っていたアイツは俺の左手の神経がダメになるほどに深く切りつけてしまった。
それから、俺はギターが握れなくなった。さらに、その日は人生で一番とも言えるような、いい歌が歌えていた日だった。その日に歌った曲もこの曲だった。
それからは、いくら努力してもswung dushはおろか、チルカモーショナの曲は全て歌えなくなった。オリジナルの曲を作ってもそれを歌うことができず、歌わずに作った曲は全てがなんとなく物足りないと言われ、曲を作ることもしなくなった。
いくら頑張っても、あの悍ましさは抜けていかない。唯一の癒しを奪われた俺は、人生への希望を失ってしまった。
隼人さんは、俺にとっての救世主だ。そして、どうやら俺も隼人さんの救世主になれたらしい。目の前で鼻水を垂らして泣くサラリーマンが、俺にはとても愛おしく見えた。
「ちょっと、鼻垂れてるよ! あんた本当にあのハヤトかよ……ほら、ティッシュ」
「ザンギュー。あーもう、止まんねーんだけど」
まだグスグスと鼻を鳴らしている隼人さんを見ていると、少しだけ前に進みたくなってしまった。この人なら、俺と同じペースで歩いてくれるんじゃないだろうか……そう思ってしまった。
「隼人さん」
一生懸命に鼻をかみながら、隼人さんは「んー?」と間抜けな声を返してきた。そして、顔をあげて俺の方を見ると、ふわりと優しい笑顔をくれた。
「……なんか話したいことがあんの?」
俺は黙って頷いた。そして、左手の傷をそっと抑えた。
——話したって、何にもならない。でも……。
「聞いてもらえますか? 重たい話だけど、隼人さんになら話せる気がして……」
窓の外に、ピカっと光ものが見えた。どうやら、雨が降り始めたみたいだ。それも、結構激しい雷雨のようで、落ちて窓が少しだけビリっと震えている。
楽しい話をするわけじゃない。ある意味、ちょうどいいシチュエーションかもしれない。話す覚悟は決まった。
「いいよ。お前も俺のこと知っちゃったしね。秘密の交換と行こうか」
そう言って笑ってくれたその優しい笑顔を、この先ずっと見ていたい。俺はいつの間にか、そんなことを願っていた。
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