第8話 スワングダッシュ

「お猫様は、どうすればご機嫌が治りますかねえ」


「だから、猫じゃないよ……我儘でも無いし」


「だから、我儘とは言ってねえよ。ちょっと可愛いなって思っただけ。それが猫っぽく見えたんだよ」


 隼人さんは軽く笑いながら、俺の目をじっと覗き込んでいた。よく考えたら、知り合ってからこんなにしっかりと顔を見合わせたのは、初めてかもしれない。俺を見ている目はとても穏やかで優しいのに、その奥の方にうっすらと寂しさが蔓延っているように見えた。


 俺もそうだけれど、隼人さんも前髪は割と長めで、普段あまりまじまじと顔を見ることもないから、どんな顔をしているのかと聞かれたら、答えられないくらいにその特徴を覚えていない。


 ただ、最初から声を聴いているとすごく落ち着いたし、仕草の一つ一つに余裕があってかっこよくて、その言葉遣いの荒さとは対照的に紳士的なイメージがある。タバコを吸いつつ、ダラダラと過ごしていることが多いのに、なぜかすごくかっこいい人だなといつも思わされてしまう。


「猫じゃらしでも取ってくるかな」


 そう言って、タバコに火をつけた。俺も昔は吸っていたので、この部屋は禁煙にはしていない。元バンド仲間のうち、今も仲良くしている奴らが泊まりに来ることがあって、彼らは全員ヘビースモーカーだから、灰皿も常に部屋に置いてあった。


 隼人さんはここを使い始めた時から、毎日のようにここでタバコを吸う。その匂いに、俺はいつの間にか懐かしさを感じ始めていた。


「ねえ、さっきの曲知ってる?」


「ん? さっきのって、爆音でかかってたやつ?」


 右手に挟んだタバコを少し吸い込んで、気だるそうに吐き出しながら、質問に質問を返してきた。なんとなく、その答え方に不快感がこもっているように聞こえて、俺は隼人さんの目に答えを求めようとした。


「……そう。チルカモーショナのスワングダッシュ。五年前くらいの曲なんだけど、俺あのバンドが好きで。何度かライブにも行ったんだよ。で、スワングダッシュ生で聴いてね。その時すごい経験したんだ」


「すごい経験? メンバーと目が合ったとか?」


「いや、そんなんで喜んだりするようなタイプに見える?」


 俺が軽蔑したような視線でそう返すと、隼人さんは思い切り眉を下げて笑い、「いや、ぜんっぜん見えねえ」と言った。そして、腰掛けていたベッドからヘッドボードに捕まりながら立ち上がり、松葉杖を手に取る。


 そのまま窓際の方へと歩いて行き、立てかけてあったギターを背負ってデスク前にある椅子へと座った。そして、ほんの少しの間、そのギターを見つめると、まるでそれが恋人であるかのようにふわりと笑いかけた。


「スワングダッシュ……懐かしいな」


「え? 隼人さんも好きなの? 俺、チルカモーショナの曲全部好きなんだけど、スワングダッシュは特に好きで……」


 俺のその言葉を聴いて、隼人さんはじっと押し黙ってしまった。でも、そこに不機嫌な空気は全くなくて、あの仲の悪い指たちがソワソワと何かを奏でたそうに動いているのが見えた。


 よく見ると、口は弾き結ばれている。でも、思い詰めたような強固さもなくて、むしろ俺に何か聴いてほしいことがあるように見えた。タバコを灰皿の上に置き、ストラップを肩にかける。左手でネックを掴むと、俺の方へと向き直った。


「スワングダッシュ聞いてると、どんな気分になる?」


 真摯な目を俺に向けて、そう訊ねた。あの曲を聴いてどんな思いになるか……それを説明するのは簡単ではない。でも、一つはっきりわかるのは、隼人さんは俺の感想を聞きたいわけでは無いんだろうということだ。


 あの手は、きっとスワングダッシュを弾きたがっている。それなのに、どんな気分になるかって、俺に聴いてくるってことは……。


『お前の歌の邪魔をしないように弾いてやるよ』


 あの事だろうか、と俺は思った。


 じゃあ、ギターを弾いてやるから、どんなふうに弾いてほしいかを言えばいいってことだろうか。でも、どんなふうにって、どう言えばいいんだろう。


 俺は歌を歌うけれど、即興とかは得意じゃない。原曲通りに弾いてもらわないと、自分らしく歌えない……。


——そうか、そういえばいいのか。


「げ、原曲通りに弾いてもらえると、聴いてても歌ってても、音に包まれて満ち足りた気分になるよ。スワングダッシュはアタックが強いのに伸びやかな音が繰り返されるから、いかにも波っていう感じがする。それを響かせて、響きたいところまででそうさせてあげて、消えたくなったら消してあげて。その繰り返しが生み出す空気の中に、真ん中に立っていたい。その時、すごく幸せな気分になれるから……」


 俺がそう言い終わるか終わらないかのうちに、優しくて控えめでキラキラした音がアルペジオを奏で始めた。楽譜も無い、音源をきちんと聴いたわけでもない、それなのに、俺の中のイメージと寸分違わぬスワングダッシュだった。


 音が生まれては伸びて、それが隣でも発生して、重なり合って、消えていく。消えた側から、また新しく生まれて、隣でも……アコギ一本で曲の世界観を壊さずに、それを表現していく。


「すごい……めっちゃ好きでしょ、チルカモーショナ」


 下から上に昇るときに、弦の響きが残る具合が好き。降ってくる時も、薄く居座ったままの音が下で待ってる音を包み込む。それを、かき消すように、時折ストロークが感情をぶつけてくる。


「感情込められないんじゃなかったっけ?」


 俺がそう呟くと、隼人さんは弾きながらニヤリと笑った。


「これは、原曲通り。お前が歌ってた歌のグルーヴを生かしただけだよ」


 そして俺を、その世界へと呼び込もうとしている。


『入って来いよ、この音の中に。包んでやるから、飛び込め』


 音色がそう言っていた。鳴り響くスワングダッシュが、隼人さんの目が、俺に安心して飛び込めって言ってる。


『やめてよ! いやだ……誰か助けて!』


 それでもあの記憶が、俺の声を奪っていく。響かせてはならない、鳴らしてはならない。この身を守るためにも……二度と歌ってはならない。


『お前がそんな声で……そんな顔で歌うからだろ!』


 頭の中に響く呪詛を追い払いたくて、拳を握ってこめかみに押し付けた。


——この音の中でなら、生きてるって思える。


 だから歌いたい、そう思って口を開いた。声を出そうとして、息を吸い込んだ。それでも、言葉を発しようとした瞬間に、頭の中に情欲に囚われて俺に襲いかかって来る、谷山の姿が浮かんだ。


「……うっ!」


 顔を手で覆い、俯いた。好きな音が目の前で鳴っている。それをくれる人がいる。それなのに、俺の体は、やっぱり歌うことを拒否している。


 こんなにいい状況でも歌えないなら、もう絶対に歌える日は来ないんじゃないか……そう思っていると、突然パタリと音が消えてしまった。


「え……」


 欲しくてやっと手にしたおもちゃを、意地悪にも目の前で壊されたような気分だった。隼人さんは眉根を寄せて俺を見ていた。さっきよりも一層厳しく唇を引き結んでいて、その中から優しい音は出てこないような気がするほどに、怖い顔をしていた。


——怒らせたんだろうか……。


 そう思って、謝ろうとした。すると、隼人さんが俺を手招きしていた。


「な、なに?」


 驚いて思わず近づいていくと、隼人さんはデスクに手をつきながら立ち上がった。そして、ギターを下ろして俺の後ろに立った。


「これ背負ってみろ」


「え?」


 そういうと、俺の返事を聞かずにストラップを乱暴に俺の首にかけた。右手をピックガードに置かれる。そして、左手を隼人さんの手首を掴むような形にセットされた。


「バランス取り辛えな。座るぞ」


 そう言って、右手で俺を抱き抱えるようにしてベッドに座る。隼人さんに後ろから抱き抱えられるようにして、ギターを持つ形になった。


「な、何してんの、これ?」


 後ろを振り返ってそう訊くと、隼人さんはまるでイタズラを始める小学生のような顔をして笑っていた。


「お前が弾き語りを出来ないのは、左手が使えないからなんだよな? だから、俺がお前の左手になってやるよ。右手は自分でやれ。手持ち無沙汰だろうから、俺の手首を押さえてポジショニングしてろよ」


「は!? そんなの、どっちもやりにくいに決まってる……」


「お前、死のうとしてただろ?」


 そう返してきた隼人さんの声は、さっきまでより少しだけ冷たかった。いや、冷たいというよりは、厳しかった。ただ、そこには間違いなく深い愛情の存在も感じられる。


 それに、多分初めてだった。あの日の俺のことを、まっすぐ聞かれたことはなかったように思う。


 こんなにはっきりと「死のうとしていた」という言葉を使った。そのことで、この提案が安易なものでは無いことはわかった。


「あの日……でしょ?」


「おう。俺たちが出会った日な」


 そう言いながら、左手でコードを押さえ続けている。C、F、G……基本のスリーコード。ゆっくり何度も繰り返されるその動作は、ギターを始めて練習した日のことを思い出しているようだった。


「この格好で弾くのがどんなにやりにくくてもさ、生きがいなくして死にたくなるほど辛いのに比べたら、楽じゃねえか? これでお前が歌えるなら、やってみる価値はあるだろう? 俺の骨折療養生活のお返しだとでも思ってさ。あなたのために協力致しますよ」


 そう言って少しだけおどけて笑ってくれた時、この人は神様なのかと思った。死のうとしていた俺を助け、自分が怪我をしたのに、俺のことは一切責める事はなかった。その上、俺のトラウマの克服を手伝うという。


「なんでそこまでしてくれるの……」


 どう考えても、めんどくさいことだろう。あれだけ自由に弾けるのに、俺の左手だけをやるなんて。右と左で別の人間がやれば、タイミングだって合わせられるかどうかわからない。


「お前がスワングダッシュが好きだって言ってくれたからだよ」


「え? どういうこと?」


 隼人さんは悲しそうに笑うと、Tシャツの襟元をぐいっと引っ張って胸元を見せてくれた。そこには、夥しい量の火傷の跡があった。


「何それ……」


「お前、チルカモーショナのファンだったんだろ? じゃあ聴いた事ないか? デビュー直前にギターボーカルの交代があった事。その交代の理由が、バンド内での暴力沙汰だったこと。ギターボーカルが、右目の眼球破裂で人前に立てなくなったこと」


 そう言って、人差し指でトントンと右目を見るように促してきた。


「こ、これ……義眼?」


「そう、義眼」


 もう一ヶ月以上一緒にいるのに、今まで全然気が付かなかった。隼人さんの右目は、義眼だった。右にかけて長くなっているアシンメトリーの前髪で、わかりにくくしてあるようだ。


 俺はその目の近くの傷跡に手を触れた。縫ったような跡がいくつかある。それにすら、気がついていなかった自分に、正直なところ驚いていた。


「……眼球破裂って、何されたの?」


「普段から俺に火傷させるようなやつだったんだけど、激昂した時にマイクぶん投げられた。それが少しだけ当たって、それだけで眼球破裂。破裂って言ってもパーンって飛び散ったとかじゃないぞ? 治療は出来たんだよ。これ、コンタクトみたいなやつだからな。でも、ほとんど見えてないし、暗闇だと全く見えない。だから、ライブに出られなくなったんだ」


 チルカモーショナはデビュー直前に、メインギターとコーラスを担当していたハヤトが脱退していた。期待の大型新人だと言われていたバンドだったけれど、デビュー前に作られていた曲しか売れず、今はほとんどランキングにも登ってこない。


 時折、スワングダッシュが誰かの紹介でバズってランクインしたりするけれど、それはハヤトが作った曲だった……。


「隼人さんて、あの、ハヤトなの? チルカモーショナの?」


「そうだよ。ファンなら早く気づけ。……まあ、俺当時金髪だったしな。メイクもしてたし。気づきようがないだろうけど……」


「でも、さっき音でもしかしてって思ったんだ! だって、ライブで聴いたそのままだった。音源も同じ熱量だった。でも、まさか本物だとは思わないだろ……嘘だろ、俺、あのハヤトの世話してんのか……」


 困惑している俺を見て、隼人さんはまた楽しそうに笑った。すごく愉快そうに笑うから、俺もそれを見て嬉しくなった。


「ファンだった男の腕の中で、ギター一緒に弾きながら歌えんだぞ? 幸せじゃねーか?」


 そう言ってニヤリと笑った。少しカッコつけすぎたのか、照れが現れていて、それが俺には可愛らしく見えた。


「ぷっ! 何照れてんの……。そうだね、本当に幸せだよ。うん、練習しよう!」


「うし、じゃあまずはイントロの……」


 思いがけず出会った人が、憧れのミュージシャンだった。その人が、自分の生きがいを取り戻す手伝いをしてくれるという。


——なんて幸せなんだ。


 俺は、心底そう思った。


 今から鳴らすワンコードに、これからの人生が素晴らしいものになるという期待を、乗せずにはいられなかった。

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