音の中へ

第11話 生き戻る

◆◇◆



 雑踏の中、ヘッドフォンを耳に当てる。流れてくる音楽は、横に進む楽譜とも、ロールされていくデータとも違う。音像は目の前で、まるで通りゆく景色のように過ぎゆき、その響きは俺の体を包み込むんだ。それはまるで、愛する彼の肌の温もりのように、この肌を粟立てていく。


「隼人さん」


 その高揚感を奪われて以来、生きている実感がなくなっていた俺は、この人によってたくさんのものを取り戻した。風が運ぶ季節の匂い、その温度、濃度。自分たちは、流れていく時間のうちの、ほんの一部でしかないこと。それを体に取り入れて、自分の中へ混ぜ込んで、外へと逃す。ただそれだけをして生きていくんだと言うことを、彼は再び俺に教えてくれた。


『難しく考えるな。お前はただそこにいるだけで、立派に生きてる』


 その言葉とあのギターが、俺を元の世界へと連れ戻してくれた。今や俺は、死のうとしていたこの場所へ、生きて舞い戻って来ている。これまでの数年間を考えると、信じられないくらいに幸せだった。時々本当に信じられなくなって、ぎゅっと頬をつねるのが癖になりつつあった。今も、両頬を軽くつねっては生きていることを確認している。


「おー孝哉、来たな。何やってんだよ、お前。ほっぺた、真っ赤になってるぞ」


 隼人さんと出会った、このビルの外階段の踊り場。手を駆けて乗り越え、そのまま落ちて行こうと思った。その時、ふと感じた風が、俺をそこに止まらせた。吹き抜けた風が、あまりに気持ちよくて、思わず少しだけそこにいたいと思ったのを覚えてる。あの時の風が、今も俺の心を撫でていった。


——あの扉を開けると、このあたりの空気が向こうに引き込まれるから、ここにも風が起きるのか……。


 それなら、俺を思いとどまらせた風も、隼人さんが起こしたことになる。あの日の俺は、一から十まで隼人さんに助けられていたってことだ。そして、それはまだ続いている。


 隼人さんが一緒にいてくれることで、俺の心の傷は随分と癒えた。そうなると、今度は隼人さんと離れることが怖くなった。だから、隼人さんの足が完治した後も、同居は解消せずにまだ一緒に住んで欲しいと俺からお願いした。隼人さんは、それを快く受け入れてくれた。


 おかげで俺は安定した生活を送れるようになり、今はこれまで以上に幸せに暮らせている。そして、その中心になっているものが、今の音楽活動だ。


「今日のレコーディング、随分アナログなやり方をするんですね」


 初めて一緒にスワングダッシュを演った時以来、二人でユニットを組んでやっていくことにした。そして、それから数ヶ月、ずっとその日々を楽しんでいる。お互いに失っていたものを取り戻して、そこから生まれるものをひたすらに享受してきた。


 そして、最近戻ってきた父さんにそれを聞かせた。父さんは、その場に蹲って大泣きしてしまい、軽いパニック発作を起こしてしまうほどに動揺していた。そして、その数日後には『記念に録音しておいでよ』と言ってスタジオの手配を整えて来ていた。


「親父さんの意向だよ。多分、配信するつもりなんじゃねえか。息子が息を吹き返したのが、嬉しくて仕方ねえんだろ」


 俺たちは、出会った日に立っていた場所で、今はのんびりと話をしている。隼人さんは俺の隣に立ち、タバコに火をつけた。ジリっと音がして、先端に真っ赤な火が灯る。数千度はある炎が物体を燃やし、その煙を吸うことで肺を苛めるという行動は、今や見慣れた光景となっていた。立ちのぼる煙は僅かに甘い香りがして、その毒性を誤魔化そうとしてるつもりが、寧ろ引き立たせているように俺は思う。


「……お前、ここから落ちて死のうとしてたよなあ」


 隼人さんは柵にもたれかかって、懐かしそうに目を細めた。笑いながら口から大量に煙を吐き出すと、それに翻弄されるように咳き込む。自分で吸っておきながら何をやってるんだろうと呆れつつ、俺はその背中を摩った。


「吸いながらしゃべるからだろ。おじいちゃんみたいだよ」


「ああ、すまないねえ。ありがとうね、孝哉くん」


 おどけて老人のような話し方をしながら、また激しく咳き込む隼人さんを見て笑った。


「絶望って、陥るまでは時間がかかるのに、回復が案外簡単で俺も驚いてる。ただ、その簡単なことが出来る条件が揃うか揃わないかだよね。俺は本当に運が良かったんだよ。あの時気にしてくれてありがとう」


 隼人さんの背中を摩る手を背中で止めて、その温もりを感じる。この人がいなかったら、俺はきっとまたここへ来ていただろう。この下へ落ちて、生きていくことから逃れる術を手に入れようと、ただそれだけを求めていたはずだ。


「ねえ、隼人さん。このスタジオさ、俺が襲われた場所なんだよ。ここで谷山から襲われたから、ここで死のうと思ったんだ」


 俺が柵の外に立っていたあの日は、襲われたその日ではない。ただ、心にこびりついて動かすことの出来なくなった澱が、俺をここへ連れて来た。どんなに頑張ろうとしても、声が出せない。手は動かない。その絶望から逃れる術も、音楽しか知らなかった。身動きが取れなくなって、息苦しくて、打ち上げられた魚みたいになって、ただ打ちひしがれていたら、いつの間にかここに来ていた。


「だから父さんはここを選んだんだろうね。元々は、ここで父さんの友人たちと遊びながら録音とかしてたから。それを嫌な思い出で上書きされてしまって、来れなくなった。今なら、いい記憶でまた上書きできるって思ったんじゃないかな」


 隼人さんは下を覗き込みながら「そうだなあ」と呟く。そして、煙を思い切り吸い込んでは吐き出すのを繰り返した。


「まあ、実は親父さんからそう聞いてた俺は、責任重大で緊張しまくってるんだけどな」


 そう言って、何度か吸っては吐き出すふりをしている。わざと緊張しているアピールをする姿を見て、「だから、そういうところがおっさんなんだってば」と俺は笑った。


「もういいよ、言ってろ。どうせ俺はお前よりはおっさんだからな」


 そう言ってまた煙を吐き出すと、今度は「はあ、腰が辛いねえ」とおじいさんのフリをする。そういう時の隼人さんは、子供のようで可愛らしい。


「待って……あんまり笑わせないでよ。俺、今から歌うんでしょ? 笑いすぎると喉潰れちゃううから」


「いや、お前が勝手に俺で楽しんでるだけだから。俺はいつも通りなだけなんだけどね」


 そう言って、今度は拗ねる。俺より五歳年上なだけなはずなのに、いつもの隼人さんからは、もっと年上のような落ち着いた空気を感じる。それなのに、こういうやりとりをしている間だけは、俺よりもずっと年下にも感じることが多い。そういうところが、一緒にいて飽きない。


 穏やかに笑う顔を見ながら、二人でどうでもいい話を繰り返す。この時間もまた、俺にとって生きている実感を得られる大切なものとなっていた。


「笑うとさ、生きてるなって感じするよね」


「あー? まあ、そうだな。尖って張り詰めて痛くなったものが均されていく感じもするな、俺は」


「あ、それわかる」


「だろ?」


 こうやって二人で笑っていられれば、きっとスタジオの中に入ってからも少しは耐えられるだろう。あのガラスドアを潜る。今日の俺は、それが最大の目標だった。


「孝哉」


 そのドアを見つめたまま固まる俺に、隼人さんが優しく声をかけて来た。「なに?」と答えると、両肩にポンと手を乗せられる。そして、二人で冷たく光るドアを見つめた。


「お前は、あの中で半身を失った。そして生きる意味を見失った。でも、今は俺がいる。俺はお前の半身だ。二人で一緒に行くんだ。一人で戦うなよ。いいな?」


 そう言って、背中に指文字を書き始めた。俺はその文字を頭の中で追いかける。


「……え?」


 隼人さんは、驚いて振り返った俺の手を握りしめて、優しく包み込むように抱きしめてくれた。

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