第11話「社会はだれかの犠牲のもとに成りたっている」
その記憶の粒子は私の視点だったらしい。時刻はあかとき付近、まだ日の昇りきらない時間帯に左肩を揺すられたわたしが目を開くと、カーテンからかすかに漏れたあわい朝焼けの光が目に入り、目を瞬かせ、おもいまぶたをこすった。しばらくまどろんだのちに気配のするほうへ目を向けると、懐中電灯を下から当てた姉がいた。古典的なおどかしに見事にひっかかったわたしはおおいにおどろき、壁に頭をぶつけそうになるが、姉の手がそれを阻んだ。目の前にある姉の左側の瞳は、日の明かりとも電灯の灯りともつかない幻想的な青を発し、わたしを慈しんでいた。場面が飛び、姉は誕生歌を歌いながら私に贈りものを渡した。わたしが礼を言い、その箱を開けたところで記憶の再生は終わったそうだ。
姉の顔はわたしとよく似ているらしく、濃い茶いろの長い髪に、猫のような瞳をしており、その右目は瑠璃と同じく青く、左目はわたしの両の目とたがわぬ黒で、瑠璃によると、冴えた涼やかな美しい顔だちから、温かみのある愛嬌がにじみ出ているとのこと。
わたしとのちがいは青い瞳と体格のふたつで、姉は長身かつ筋肉質な肉体を持っていて、わたしが猫であるならば、姉は虎のようなものである、と瑠璃は言った。
姉は父に似たのだろう、とわたしは思った。
一見すると仲のいい姉妹のたわむれに思えるけれど、わざわざおおきく感情をゆさぶるような祝いかたをするのは、男性の前でだけ猫なで声を出す女の子みたく不自然だ。図書館のときのように、姉は意識的にわたしたちへメッセージを残そうと動いていたと思われるから、きっと贈りものになにかあるのだろう。
わたしたちは、部屋にある持ちもののなかから贈りものの箱を探すことにした。
クローゼットを開け、中にある物を出していく。ゲームの筐体やお菓子の箱、紙袋、うちわ、小学校のときの修学旅行で買った、キンキラキに光った金閣寺のキーホルダー、卒業証書やアルバム、高校の教科書とノート、壊れたヘアアイロン、着なくなった洋服などが出てきた。そのほかにもたくさん物が詰まっている。
箱の捜索は瑠璃にまかせ、わたしはノートに目をとおした。なにか手がかりが書かれているかもしれない……。
ノートにはきっちりと授業の内容が模写されていた。落書きひとつない生真面目な、おもしろみのないノートである。
これは自慢なのだけど、わたしはもともとそれなりに勉強のできる人間だった。第一志望の難関大学も、実は三年の夏の時点でB判定が出ていて、高校の偏差値のわりに順調な仕上がりを見せていた。けれどもけっきょく最後は第二志望すら不合格になり、第三志望であった現在の大学へかようことになった。
合格発表のときは、大学なんてどこでも同じだろうと、不合格になったのを気にも留めてなかったけれど、姉の存在を知ったいまは、もしかすると姉か瑠璃に勉強を教わっていて、それが姉の記憶とともに抜けおちてしまったのではないかと思ってしまう。
だとすればなんという不運だろう。一生懸命にがんばった努力も、ありえたかもしれないキャンパスライフも、記憶を消したなにかによって消し去られたのだ。わたしはいつもそういう不運や、面倒ごとに巻きこまれて損失をこうむっている気がする。そのなにかを探しだして、落としまえをつけてもらわなければいけない。
とはいえ、第一、第二志望に落ちたおかげで、泉水と榛名のような、気の置けない友人と出会えたのだし、不幸中の幸いもあるからゆるしてあげてもいいかもしれない。
瑠璃のいるてまえ、機嫌を損ねるわけにもいかないわたしはそう納得することにした。
「あった」
と瑠璃がほんの少し声を弾ませて言った。
顔をあげると、瑠璃は胸の前に浮足だった柄の小箱をかまえていた。その箱のおおきさは漫画の単行本がちょうど入るくらいだった。
「それが例の箱?」
「間違いない」
どうやら姉のセンスはよくないらしい。
瑠璃が箱を開けて中をのぞく。
「何も入っていない」
瑠璃は箱をいろいろな面から観察し、
「でもこの箱……」
と箱の中の底面に触れた。すると中からバネのついた人形が勢いよく飛びだしてきた。
瑠璃はたまゆら氷塊のように固まったのち、何ごともなかったかのように人形をしまい、蓋を閉じた。
「これもおどかすためかな?」
「だと思う」
瑠璃の反応からして、記憶の粒子はなかったのだろう。であるならば、わたしはたいしておどろかず、贈りものの中身にもさして感動しなかったと推察できる。
その後も箱の中身になりそうな物を探してみたけれど、これといった物は見つからず、わたしのアパートにあるとの結論にいたった。
出した物を片づけるさなか、ふと気になって高校の卒業アルバムを開いた。
一貢目には二十数名のクラスメイトの顔写真が個別に並んでいて、女子の先頭には、いまよりやや幼く、髪のみじかいわたしが当たりさわりのない微笑みを浮かべていた。八方美人という言葉がよく似合う女だ。
貢をめくっていくと、グラウンドで撮った集合写真があり、それから春の学習会、体育祭、文化祭、二年のときの修学旅行、そして職場体験といった、いわゆる特別活動の様子が写しだされている。
普通の人がアルバムを見ると『あぁ、懐かしいなぁ。同窓会まだかなぁ』なんて思うのだろうけど、わたしの場合は苦々しい記憶が想起されるだけだった。わたしの記憶があいまいなのは、なにも姉の記憶が消えただけではなくて、苦悩や苦痛を忘れるための、ある種の防衛本能だったのかもしれない。
名も知らぬ女の子に憧れたわたしはにこやかに笑う能面をかぶり、周囲と和するべく、ほかの子が嫌がることだったり、苦手とすることを代わりにやってあげるようになった。そこで気がついたのは、社会はだれかの犠牲のもとに成りたっているということだった。
たとえば運動会では、だれかが一番をとって褒められれば、だれかが最下位になってみじめな思いをする。文化祭でみんながたのしむためには、面倒な実行委員をだれかがやらなければならないし、中学までの劇なんかでは、台詞のおおい役を決めるときに、だれも手をあげずに長びけば、先生の機嫌を損ねることになるため、そうならないよう配慮せざるを得ない。また、修学旅行のグループ分けでは、どうしても最後まで余る人が出てきてしまうから、そういった子たちを落ちこませないよう気を配らなければいけない。
わたしがあの女の子――つまりは姉のように――率先してまわりを助けられる人間だったらどれだけよかっただろう。わたしがやっていたのは主体的な行動ではなくて、仕方なく、しぶしぶといった、消極的な行動だ。本当はやりたくないし、内心面倒だなと思いつつも、他人の顔いろが気になって行動をする。それは卑しいやりかたなのではないかと思ってしまう。
アルバムの最後の貢に辿りつくと、生徒と先生からの寄せ書きが色とりどりに書かれていた。わたしの未来の安寧を願う文章や、感謝をつづっているもの、またそのうちあそびたいというお誘いなど。
それらを読みこんでいくうちに、わたしの心に蟠った芥は取りはらわれていった。
「美春?」
「ん?」
わたしは顔をあげる。
「片付けが終わった」
「あ、ごめんごめん。ちょっとノスタルジーにひたっちゃってた」
「うん。それで思ったのだけど、卒業アルバムを調べれば、千夏さんの友人が分かるかもしれない」
「あぁ、たしかに」
姉の写真が消えていたとしても、アルバムそのものが消えているとはかぎらない。ハンガーやカーテン、姉から贈られた箱が残っていることから考えて、消える消えないの境界線は、所有の意識があるかないかが肝なのかもしれない(と瑠璃が言った)。
わたしの部屋、わたしのベッド、わたしの本などとは言っても、わたしのハンガー、わたしのカーテンという認識を持っているのは、よほど持ちものやインテリアにこだわりのある人くらいだろう。浅倉家の面々の性格を鑑みれば、姉がこだわりのうすい人間であることは想像にかたくない。そして贈りものは当然、相手のものであると認識している。となれば、姉の所有していたアルバム以外のアルバムは残っていると言えるはずだ。
姉の生年は瑠璃のメモ帳から、平成十二年だと分かっている。アルバムは学校に行って見せてもらえばいいだろう。
「これを見てほしい」
と瑠璃が唐突に自撮り写真を見せてきた。
そこにはいまよりやや幼い、白いブラウスにジーンジャケットを着た瑠璃が、澄みやかな笑顔でピースをしているすがたが写っていた。
「可愛いね」
わたしは心からそうつぶやいた。
「……そうではなくて、腕の位置を見てほしい」
「ん?」
言われたとおりに見てみる。
写真は俯瞰の構図で、瑠璃の左側の手はピースを作っており、右側の手は下におろされている。つまりこれは瑠璃が自分で撮ったものではなくて、だれかに撮ってもらったものだ。しかし、よく考えるとそれはおかしい。なぜなら普通、だれかに写真を撮ってもらうときは、カメラマンの目の位置がアイレベルに設定される(らしい)。それはカメラでもスマホでも同じで、被写体を綺麗に撮ろうと思えば、その対象をじっくりと見なければならない。
けれどこの写真は、男性の平均身長はある長身の瑠璃を完全に見下ろしたかたちになっており、もしも人が撮ったのだとすれば、推定身長は二メートル五十センチと予測される。
瑠璃はヒグマに写真を撮ってもらったのだろうか?
……ありえるとすれば、瑠璃と同じくらいの身長の人間が、彼女といっしょに写りながら目いっぱい腕を伸ばすか、自撮り棒かなにかをもちいて写真を撮った場合、こういった構図が考えられる。そのあとにシャッターを押した人間が写真からすがたを消すことができるなら、という条件つきではあるけれど。
瑠璃はスマホの画面を美しい指でなぞっていった。そこにはやはり構図のおかしなものや、恋人目線的な瑠璃の日常のすがた、そしてこれはあまり関係ないだろうけど、自然の風景、かわいい猫の写真などもところどころにあった。
見おわると、大容量の写真集を見たかのような満足感をおぼえた。
「つまり私が言いたいのは、千夏さんが撮った事実そのものは消えていない。もしかすると美春のスマホの中にも何かあるかもしれない」
「なるほど、ちょっと見てみるね」
とわたしはスマホの写真をたしかめる。あまり写真を撮らない人間だから、泉水たちと撮った写真のすぐ上に二年前のものがあった。
そのなかの一枚に、奇妙な写真があった。全体が霧のようなもので覆われていて、かろうじてわたしと見られる影が写っているのが確認できる。日付や時刻は文字化けしていた。
「撮った覚えは?」
「ぜんぜんない。いままで気付きもしなかったし」
これもまた、姉の残したメッセージなのだろうか。
謎が謎を呼ぶばかりだった。
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