第10話「姉の記憶」
「あれ?」
なにもなかった。
あとから入ってきた瑠璃は周囲を見まわすとかぶりをふって、
「何も視えない」
と言った。
「まあ、そりゃそっか」
人間の記憶が消えているのだから、持ちものや記憶の粒子が消えているのは予想の範囲内だ(と言いつつも、実は気を落としている)。けれども瑠璃は、図書館で姉に関する記憶の粒子を見つけたのだから、春に雪が舞うくらいの可能性はまだ残っている、と思いたい。
わたしは備えつけのクローゼットを開け、中をたしかめるが、数本のハンガー以外はなにもない(ミニマリストもびっくりだ)。振りかえった先の窓辺にかかる、あわい青のカーテンが唯一のインテリアらしい物だった。
窓辺へ行ってレースカーテンを開けると、かすかに花の香りが薫った気がした。カーテンに鼻をあてがって息を吸うと、夢のなかの花の薫りと同じ匂いがきわやかに感じられた。
知覚的体験のともない夢に出現した、甘やかな花の匂い。やはりあの夢は単なる夢ではなく、瑠璃の言うように、どこかに在る記録かなにかを視たのかもしれない。
二年前の秋、わたしたちはあの夢の海岸線にいたのだろう。そこに重要な手がかりが残されていそうだけれど、海岸線とはいっても、このあたり一帯は海に囲まれていて、いたるところに浜があり、磯がある。くわえてちかくでない可能性もありうるから、もうすこし場所をしぼる必要もある。
それを瑠璃に告げると、彼女も同意した。
「わたしの部屋いこっか。あっちにもなんかあるかもしれないし」
ふたりして自室へ向かう。わたしの部屋は当然のことながら、前回帰省したときとほとんど変わりがない。
入って正面にちんぷな学習机が置いてあり、その右に質素なベッド、奥には平凡なカラーボックスがふたつ――中身はアパートに持っていったから、ほとんど空だ――そして中央にありふれた小卓を配し、そのそばの、いつもはひとつしかない座布団がふたつあるのは、母が置いてくれたものだろう。
「なんかある?」
「ベッドのあたりに大きなものが一つ。他にもいくつか」
と瑠璃はベッドを指差す。
「一応聞いておくけれど、視てはいけないものはない?」
「え?」
ちょっと考えて合点がいく。記憶の粒子の中身はわたしの痴態や醜態である可能性があるから、本当に視てもいいのかということだろう。
瑠璃の能力で感知できるのは、知覚的体験の記憶だけらしい。つまり、心のなかや脳裏に思いうかべた映像などの感覚的体験は視えず、五感で認識したものだけが視えるということだ。
わたしは過去に知覚的な痴態をさらすようなまねをしたことはなく、どちらかといえば、心理的、感覚的痴態をさらし続ける人生だったから、なにも問題はない。
わたしは瑠璃に了承の言葉を送った。すると瑠璃はいったん目を閉じて、深く息を吸い、それからおおきく目を見ひらいた。
その瞬間、瑠璃のまわりの空気が押しやられ、それが微風となってわたしの頬を撫でた気がした。濡れ羽いろの髪は海月の傘のように浮きあがり、流れゆく世界の理をさかのぼる。髪の基部から毛先にかけて青い粒子が流れゆき、やがてそれは沫雪のように儚く消えさってゆく。直立不動のその様は絢爛豪華な如来像を思わせ、それはまさに、いまこの瞬間に現存しうる数多の事物のなかでもっとも美しかった。
なんの変哲のない岩場が、たまたまある島の南端にあるというだけで特別視されるのと同じように、わたしの平々凡々な部屋も、瑠璃の存在とこの行いにより、神聖な意味をともなう場所となった気がした。
これが瑠璃の力か、とわたしは両手を組んで見とれた。
瑠璃はもう一度目を閉じると、記憶の内容を語りはじめた。
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