第9話「法定速度で走っているのに渋滞になるのはなぜ?」
先生に教えてもらった住所に向かうべく、わたしたちは一度実家にもどり、免許証を携帯して軽自動車に乗りこんだ。
母の言っていたとおり、田舎では最低でも原付の免許がないと身うごきがとれず、買いものひとつできないため、だれしもが高校を卒業する前に免許を取得しに行く。わたしは運転に向いていなさそうな性格だと自覚していたから、まだ取りに行きたくないと言ったのだけど、知らないあいだに母に申しこまれていて、いやいや取りに行くはめになってしまった。それが千日後に役に立つなんて、人生はなにが起きるかわからない。
運転自体がひさしぶりなうえ、助手席に瑠璃を乗せているから余計に緊張してしまう。わたしは深呼吸をし、教習所で習った手順を思いえがいてからそれを現実に反映させる。
動き出しの際にアクセルの加減をちょっと間ちがえてしまったが、いちど走りだしてしまえば滞りなく運転できた。これなら小学校にも車で行けばよかったかもしれない。
集落から県道に出て一分ほど走り、林に囲まれたせまい道へ左折する。道中、対向車が来ないかと肝を冷やしたが、道を抜けたさきにはちいさな、そしてひなびた廃集落があるだけで、人の生活の気配はほとんど感じられなかった。
住所までは瑠璃が(過剰なほど)完璧にナビゲートしてくれた。彼女は住所を暗記するのはもちろんのこと、スマホの地図の俯瞰図を見れば、道幅や距離感も瞬時に分かるらしく、その指示は精巧な人工知能より精巧だった。
雑草の生いしげった駐車場に車を止める。人が住んでいないことはあきらかだったが、いちおう降りてたしかめてみる。
建物は平屋で、左側の屋根が右よりすこし高くなっている。玄関や窓には木の板が貼られていて、とても入れそうにはない(入れそうでも入らないけれど)。
「表札もないね」
とわたしが言う。
「そうだね。聞き込みをしようにも人がいなさそうだし、今日はここまでかな」
「ま、お姉ちゃんの記憶と友人のひとりっぽい人が分かったんだし、贅沢は言えないか」
「でも、まだ一つ可能性は残っている」
「そうなの?」
「うん、この文を見て」
と瑠璃が件のメモ帳を開き、『女王の根城の正面に積もる雪』の一文を指差した。
「どゆこと?」
「私の泊まるホテルには、ロイヤルの名が冠されている。ロイヤルには王の、王室の、といった意味があって、根城はおそらく大きな建物であるホテルのこと。積もる雪はわからないけれど、正面はフロントのことかな」
「なるほどね」
とわたしは感心した。
「少し雑だけど、たぶん、いくつか書いた中で残ったのがこれだったんだろうね。今まで残っている手掛かりからして、直接的な証拠は残らず、間接的なものは残るのだと思う」
「だからすっごい遠回しな書きかたになってるんだね」
瑠璃はうなずく。
「じゃあホテルいこっか」
「うん、お願い」
わたしたちはふたたび車に乗りこみ、町の中心地にあるホテルに向かった。
国道に出てほんの数分走ると――法定速度で走っているのに行列ができるのはなぜだろう?――地域密着型のスーパーと全国チェーンの百円ショップがある。もうすこし先に行くと、広い道からストレスなく行けるのだけど、右折がこわいわたしはお店の駐車場を左折し、裏道の停止線や踏切できっちり一時停止して、それからなだらかな坂をのぼってシュロの木にまみれたホテルに行きついた。
ホテルは月曜であるためか、正面玄関前の駐車場でさえ空いていたので、そこに車を止めて(何回ハンドルを切ったかわからない)シートベルトをはずす。
助手席の瑠璃はねむたげな目をしていた。普段の凛とした佇まいとはことなる、歳相応の少女らしい雰囲気だ。
「疲れちゃったね」
とわたしは声をかける。
「うん、すごく。今日はよく眠れそう」
今日は、という言葉に引っかかりを覚えたが、追及はせずに車外へ出る。
色なき風がカラカラと音を立てて吹きぬけた。東の空には夜のとばりのせまる気配があり、それから逃れるように、蒼、橙、黄いろが空を緩行していて、それらが夕方独特の魔的な雰囲気を演出していた。
玄関から中へ入ると、暖色系の光が目いっぱいに広がった。時間が外よりゆるやかに流れている気がする。
フロントには白いおおきな柱が左右対称に立ちならび、その奥には洒落たラウンジが構えられている。てまえの柱には、トルコ風の硝子細工のしつらえられたオブジェが置かれていて、それが館内全体にやや渇いた、中東風の生ぬるい空気を運びこんでいた。
「なにかあるかな」
「それらしいものは無さそう」
と瑠璃は辺りを見まわす。
「なんだろね」
「女王……もしかすると従業員の女性とか」
ちょうどバックヤードから、若そうで綺麗そうなお姉さんが出てきた。
「あの人かな?」
「かもしれない。取り合えず、チェックインもしなければいけないから、行ってくる」
「はぁい」
瑠璃はフロントへ颯爽と歩いていく。ごく普通の絨毯が、ファッションショーのランウェイみたいに見えてきた。
わたしは玄関左の土産物屋をのぞく。両親にお土産のひとつも買っていなかったから、なにかないかと見ていると、
「あ~!」
と館内のたゆんだ空気を引きしめるような声がとよめいた。
目を向けると、瑠璃と従業員の女性がなにやら話しこんでいて、しばらくすると、瑠璃はこちらへ歩いてきた。
「なになに?」
「美春の言った通り、彼女が二人目の友人みたい。名前は楠本雪乃さん、渡世家と昔関わりがあったらしい」
「おお、ビンゴじゃん」
「二十時に退勤するらしいから、詳しい話は居酒屋に行って聞く事になった。時間が空いてしまうけど、どうする?」
スマホで時刻を確認すると、まだ十七時前だった。瑠璃が到着してから、かなり忙しく動いていたようだ。
「いったん帰ろうかな。お腹も空いてきたし」
「分かった」
「じゃあ、十九時五十分くらいにまた来るね」
「うん、ありがとう。じゃあまた後で」
「うん」
わたしはホテルの部屋へ向かう瑠璃を見おくり(彼女はエレベーターに乗りこむ前に振りかえってくれて、微笑しながら手をふってくれた)、お土産を買ってから帰宅した。
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