第18話「現代社会は何故生きづらいのか」
十九時になると、瑠璃を交えた四人で夕食をとった。母の宣言どおりのお寿司、それも高級感ただよう桶に入ったお寿司だった。
魚は地元の新鮮な海の幸が使われ、彩度の高い鮮やかな色あいが食欲をそそる。シャリの握りは絶妙で、箸でつかんでもくずれることはないけれど、口に入れるとたちまちほどけ、やわらかい脂と米の甘味、しょうゆのわずかな酸味が口内にしみ入った。
はじめは瑠璃が緊張しないかと心配したのだけれど、彼女は案外平気なようで、森にあたらしい木が生えるように、浅倉家に自然になじんでいる。むしろ気楽にかまえていた父が、瑠璃のすがたを見るなり錆びた機械のような、ぎこちない動きになってしまったので、わたしはなんとも言えない気持ちになった。
「どこ出身なん?」
と母が聞いた。
「三歳になるまでは静岡にいました。それから私立の幼稚園に入るのに東京へ」
「ははぁ、幼稚園に東京」
と母が驚嘆する。
「母が教育熱心だったので」
瑠璃は苦笑する。
「瑠璃ちゃんはかしこそうやもんなぁ。どこ大なん?」
「帝東大学です」
「まあっ、あの帝東? 美春にそんなお友達がおるなんてついこないだまでしらんかったわ。にしても帝東かぁ……あれ、あんたも志望してなかったけ、忘れたわ。なんにせよ、美春なんか第三志望にぎりぎりやねんで? あんた見習わなアカンで?」
「はいはい、そうですねぇ。不出来な娘ですみませんねぇ」
とわたしはむくれた。
「そこまではゆうとらんやん」
「そういうニュアンスを含んでたでしょ」
「まあまあ。熊野の地はどうだった? 中々いいところだと思うんだけどね」
と心やさしい父が話題を転じた。
「はい、空気が美味しくて、海が綺麗な所ですね」
「そうよねぇ。それが一番よねぇ。都会人は空気のわるいところにいるからイライラしてるのよ、きっと」
と母がまた長々と話しはじめた。
わたしは瑠璃の横顔をのぞき見る。精巧な彫像のように整った容姿はやはり一分のすきもなく、おそろしいくらいに美しい。雪の大地に咲く一輪の華のように可憐なくちびるは、ときおり朱の花びらをひらき、冬だというのに甘い薫りに引き寄せられた、哀れな蜜蜂を捕食するかのようにお寿司を食べている。その動作は静ひつな冬の空気にすら気づかれないくらいに静かだから、彼女の咀嚼に気づいているのはわたしくらいなのではないか、なんて思ってしまう。
食事を済ませてお風呂からあがり、みかんを持って自室にもどると、瑠璃は電子書籍を読んでいた。
瑠璃の前に腰かけると、彼女は電子書籍の電源を切って、わたしに向きなおった。
「みかん食べる?」
「うん、ありがとう」
わたしが指のあいだに差しこんだみかん――計八つ――を差し出すと、瑠璃は左手の中指と人差し指のところをすっと抜いて、皮をおしりのほうからむく。
「なに読んでたの」
「神武東征についての本。陰謀論めいた本なのだけど、今回の件に関しては、意外とそういうものの方が参考になるかと思って」
「それはそうかも」
わたしはみかんを手のひらで包んでころがす。
「神武東征ってどういう話だっけ」
「簡単に言うと、天照の子孫である
瑠璃はくたびれたヒトデみたいな皮を置き、身をひとつ取って口に入れた。
「へぇ、朝廷かぁ。なんのためにわざわざ九州から奈良に来たの?」
「具体的な記述はないのだけど、全国各地に高度な稲作の技術を広めて、人々が安らかに暮らせるようにしたのではないか、といった解釈があるみたい」
わたしは壁画を思い浮かべる。
「まあ、ちょっと怪しいよね」
「うん、打算のない人間はいないから、目的はそれだけではないと思う」
「そうだよねぇ」
みかんのへたに指を押し込んで皮をむく。
「ていうかごめんね、ウチのお母さん、めっちゃ喋るしデリカシーないし」
瑠璃は首をふる。
「賑やかでいいと思う。少し羨ましいくらい」
「そう?」
「うん、私の家は母も父も寡黙な人間だったから」
「となりの芝は青いのかなぁ」
「そうかもね」
と瑠璃は微笑した。
「瑠璃は普段なにやってるの? 暇なときとか」
みかんを三分の一に割って口にほうりこむ。
「最近は絵を描いたり、散歩をしながら考え事をしていることが多いかな。美春は?」
みかんを飲みこむ。
「わたしは……うーん、なにしてるかなぁ。大学行ってバイトして、友達とあそんだりして、ひとりのときはぼーっとするか、映画を見たりするかな。まあ、現実逃避みたいなね」
「現実逃避?」
「うん。なんかさぁ、別にすごい不幸だとか、イヤなことをされるとか、そういう経験はあんまりないんだけどさ、なんとなく現実と向きあうのが辛いときがあるんだよね。言葉にするのがむずかしいんだけど、やるせなさを感じるっていうか、うーん、わかんないけど」
「気持ちは分かる気がする」
「ほんと? どういう感じ?」
「私の場合はコントロール感の欠如、のようなものを感じる」
「コントロール感?」
そう問うと、瑠璃はゆるやかな口調で説明してくれた。
「人間は社会的な生物だから、社会に和して生きなければならないでしょう? 今現在の社会では、自己犠牲の伴う集団主義が推奨されていて、周囲の思うような行動をしない人間は、空気を読めないというレッテルを貼られて排他される。けれど一方では、十人十色と言うように、皆違って皆良い、といった、一人々々の個性を尊重する道徳教育が行われている。けれど、また一方では、全員一律の教育が施され、受験戦争や就職活動を代表とする、他人を蹴落として自分が勝ち上がるといった、利己的な個人主義者としての優秀さを社会に証明なければいけない。
こういう風に、現代社会では集団を尊重しつつ、他人の個性を尊重しつつ、個人が勝ち上がることが求められている。この集団主義と個性主義、そして個人主義の三方に挟まれると、自分の人生は制御不能な対象として認識される。何故ならどれを選んでも何かしらの文句を言われるため、何を選べばいいかがわからなくなるから。それを繰り返すうち、人は自分で選ぶことを躊躇するようになり、最終的にはどれも選べなくなってしまう。そして人は退廃し、虚無に陥る。
そんな不安定な状況下でも、人生は生きることを日々強いてくるから、人々は互いに疑心を抱き、他人の顔色を窺い、心の繋がりがないままに人間関係を構築しなければならない。結果、顔は笑っているのに心は笑っていないような、非本来的な生き方になってしまう。私はそこにやるせなさを感じている」
わたしは秘孔を突かれたように息を飲む。
「すっごい分かる。わたしもそういうことが言いたかったのかも。わたしはたぶん、集団や他人を優先しすぎなんだろうなぁ。でもね、心のなかではこのままじゃイヤだなって思うの。なんかこう、ありのままに生きたいとは思わないけど、もうすこし裁量権があってもいいんじゃないかって。どうすればいいんだろうね」
「自分を曝け出せるコミュニティを作るしかないと思う。集団に対する個人は無力だから、いくら悩んでも状況は変わらない。だからこそ、個人同士が手を取り合うのが重要なんじゃないかな。おそらく私にとっては美春や千夏さんとの時間がそうだったのだと思う。私は普段、あまり真剣な話はしないけれど、美春にならできるから」
と真っすぐに言われたわたしは照れてしまう。わたしがそういう居場所になれていたのなら幸いだ。
「さらけ出すかぁ。それもなかなかむずかしいよね。わたしもさ、信頼してる人はいるんだけど、そういう人にも自分の率直な想いとか、考えみたいなのはあんまり言えないんだよね。自分が傷つくのが怖いから。はぁ、ほんとイヤになっちゃうな」
わたしは苦笑する。
「気に病む必要はないと思う」
「そう?」
「この世界は三次元に属する立体的な面の世界だから、どんな物事にも良い面があれば必ずわるい面もあると思う。それは逆もまた然り。美春は認知力が高いから、自分の負の側面もきわやかに見えてしまって、それに辟易してしまう。でも、そういった性格にも良い面はあるんじゃないかな」
「なるほど」
わたしは『立体的な面の世界だから』という言葉に納得した。
たしかに自分では、自身の八方美人的な性格を忌避しているけれど、卒業アルバムの寄せがきに記されてあったように、わたしの性格は他人にはそれなりに好かれている。
性格にいろいろな面があるとすれば、浅倉美春という人間そのものにも数多の面があると言えるだろう。もしかすると、わたしの見せる顔はすべて、わたしの本当のすがたの別な側面であり、その数ある面をサイコロをふるように使いわけているだけで、そこには仮の面などないのかもしれない。自分にとっての良い面をもうすこしおおく出せれば、こんなに悩まずに済むのではないだろうか。
「なんかこう、心の霧がちょっと晴れた気がする」
「それは良かった」
と瑠璃は目をほそめた。
Forget-it-not~愛と夢の消えた街で、生きてゆかなければ~ 愛咲蒼春 @aoharu_aisaki
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