第17話「謎の壁画」

 わたしたちは志津の岩屋に向かうべく来た道を引きかえし、先ほどの看板の立っていた林のなかへ入ってゆく。瑠璃が先に行き、わたしが背中を追いかけた。


 原生林に裂け目をいれたかのような難路の入り口には、おおきな群竹むらたけがいささか生えていて、その合間々々の蒼い影が、神妙な静けさを演じている。


足元には羊歯しだ植物が生いしげり、奥へすすむとむらだつ笹があらわれる。空気は町よりもずっと澄んでいて、そこここからのぞく木漏れ日が温かい。林をにぎやかす海の音、芳醇な土と潮の香り。目の前にいる美しい黒髪の佳人を見ていると、おとぎ話の世界に迷いこんだのではないかと錯覚する。


 潮騒が近づくにつれ、わたしの意識は現実から引きはなされていった。おとぎの国というよりは、あの夢の世界に惹かれていく。ここに似た場所、青い影のなかをだれかといっしょに走って――そう、左手に温もりを感じながら、息を切らして走っていた。瑠璃の手にしては体温が高いような気がする。彼女の手をにぎったことはないけれど、なんとはなしにそう思う。


 期待は歩みをすすめるごとに高まった。わたしの夢が、美しい世界がすぐそこにある! 


 たくさんの笹でできたトンネルをくぐると、海に出た。しかし、わたしの口から出たのは落胆の声だった。


 たとしえもなく美しかったあの景色は、宿に身を隠すヤドカリのように鳴りをひそめていた。浜にはペットボトルや瓶、一斗缶、空き缶、浮き玉、ビニール袋などがたくさん落ちていて、それらが自然の色味と痛々しく混ざりあっている。


「見覚えがある?」

「どうだろう。夢に出てきたのと同じ場所だと思うけど、でも……」


 音や香りは同じなのに、足の裏の感触や、見えるもの、感じることはまるでちがっていた。おそらくは、街が海流に乗り、新装開店したパチンコ店にならぶ客のように、大挙してこの浜に押しよせたのだ。そして街は美しい自然を食いつくし、ふたたび海流に乗って次の美を喰らいに行った。ここにあるのは街の残滓だ。生き残った美はわたしの心のなかに住まい、視られることを願っている。


 やるせなさを胸に浜に近づくと、また看板が立っていた。そこには『入陽いりひのガバ← 志津の岩屋→』と書かれてある。


 浜を西へ数十メートル歩き、凸凹とした岩場をこえたところに志津の岩屋はあった。岩と岩とが互いに支えあうようにバランスをとっていて、その奥、洞窟になった場所からは、わたしたちをいざなうかのように青い光が漏れている。足元には清らかな水が溜まっており、履きものを脱いで足をつけると、ひんやりとした質感につつまれた。


 狭い洞窟内に二人で這入ってゆく。瑠璃はスカートを膝のうえで結んでおり、鶴の首のようにほそく白やかな、美しい生足をあらわにしていた(わたしも同じようにしたのだけど、ほそめの大根がいいところだった)。


 青い光は水中では魚のようにおよぎ、空中では蛍のごとくたゆたい、岩壁では宝石みたくかがやいていた。


「すごいきれいだね」

「本当に。二年前に降ったものと同じものなのかな」

 瑠璃はかがむと、両手で光ごと水をすくい上げた。けれど、手のなかの水はかがやきを発しておらず、薄闇に沈んでいた。わたしも宙を舞う光を捕まえようとするも、それはするりと手を通りぬけてしまう。


 わたしはなんとなく文字に似ていると思った。文字は目で見て内容をうかがい知ることはできても、文字そのものに触れることはできない。そのときわたしたちが触れているのは、あくまで紙やインクでしかなく、文字そのものに触れているわけではないのだ。


 光は洞窟の奥から来ているようだけど、先は霧がかっていてよく見えない。わたしたちは岩壁を頼りに奥へすすみ、突きあたりに積まれたおおきな岩を慎重にのぼった。


 岩をのぼった先は霧が晴れていて、小屋をひとつ建てられそうな空洞が広がっていた。地面の中心からは水と光が湧き、それが岩の下へとゆるやかに流れでていて、その泉を囲むように青い綺麗な草花が咲いている(瑠璃も知らない品種らしい)。


 スマホの電灯をつけて薄闇を照らし、四方を囲む岩壁に光を向ける。特筆すべき点はなにもない。


「これは……」

 と瑠璃が入り口と反対側の壁を見て驚嘆していた。


「どうしたの、なんかある?」

「見えていないの?」

「え? 壁は見えてるけど」


 瑠璃は考えるそぶりを見せて「ここに壁画が描かれている」と壁に触れた。


「壁画? そんなもの見えないけど」

 わたしは壁をのぞき込む。電灯を消してみてみると、ほんのうっすらとなにかが見える気がしなくもない。


「うーん?」

 わたしは梅干しみたいに眉間にしわを寄せて凝視する。やはり固い岩しか見えなかった。


「美春、ここに指輪を嵌めた手で触れてみて」

 と長身の瑠璃が背伸びをして、わたしの左ななめうえを指さした。


「こう?」

 わたしは瑠璃より十センチとすこし下に触れた。


「もう少し上」

「よぉし」


 わたしは必死になってタクシーを呼ぶ人みたいに、何度も飛びあがって壁面に触れた。しかしなにも起きる気配がない。


 瑠璃がはっと息を飲み、わたしの左手をつかんで手の甲を壁に向け、それからわたしの背後にまわり、

「抱き上げてもいい?」

 と言った。


「べつにいいけど」

「じゃあ、いくよ?」

「う、うん」

 瑠璃に抱きあげられたわたしは、どうしてか感動で泣きそうになった。


 先ほど瑠璃が指さしたところに宝石の面を向けてじっとしていると、周囲の青い光がそこに集まり、夜空に花火が咲くように、まばゆい光を放った。

 わたしの身体は――そして心は――青い炎に包まれたみたいに温かくなった。


 その光は壁に染みこみ、やがて彩り豊かな色彩を描きはじめた。地面におろしてもらい、壁からすこし離れると、両の眼が抽象的な色の塊を具体的な形として認識し出す。


 瑠璃の言うとおり、そこには古い具象画と思われる、おおきな壁画が描かれていた。


 壁画の右側に描かれる甲冑を着た人々は、太陽を背に行軍中のようだ。彼らのまわりにはおおきな烏が無数に飛び、その中心の、赤い宝石の首飾りを身につけた男性の弓の先には、ひときわおおきな赤い鳥が止まっている。彼らは左側に向かって弓矢をはなち、その矢の軌道の先に位置する人々は、青やかな月――先ほど瑠璃が指差したところ――へ向かって哀れにも逃げまどう。その人々の装いは、上下白の布に炎、つる、雷、鳥、動物などが描出された上着に、首飾りやイヤリング、紫いろの腰巻、革とみられる靴を身に着けていて、現代人のわたしの目から見てもオシャレである。そんな哀れな彼らを護るべく、兎と蛙、青い鳥が甲冑の男性たちに相対していた。


 電灯をさらに左にすべらせると、青い宝石を着かざった、瓜ふたつの麗人ふたりが葦舟あしぶねと見られる舟に乗り、青い月が描きだす、光の道へ向かっていく様子が描写され、その女性のひとりは藤いろの髪の、白地に紫の模様をした重厚な着物を着て船首に立ち、手に乗せた青い水晶玉を月に向けて差しだしている。もうひとかたは紫紺しこんの袴の装束を着用した、船尾でかいを漕ぐ巫女だった。彼女たちの髪や目は渡世家や瑠璃、姉の特徴と同じに見える。また、画面全体には青い粒子が点綴てんていされていた。


 瑠璃は言う。

「右側はおそらく神武東征の場面を捉えたものかな。左側はわからないけど……」

 輝く瑠璃の瞳と目が合う。

「だよね」

 言外の意をくみとる。


 これこそが姉が伝えようとしていた本命にちがいない。


「写真に撮れないかな」

 わたしはスマホのカメラを起動し、壁に向けてみるけれど、画面は真っ暗でなにも写らない。瑠璃が電灯で照らしても、岩壁以外はなにも見えなかった。


「大丈夫、私が完璧に覚えているから。なんだったら絵に描いてもいい」

「おぉ、さっすが」

 瑠璃は微笑し、踵を返してしゃがむと、

「勿体ないけど、この花を摘んで持って帰ろう」

 と言った。わたしも恋人と線香花火をするように、彼女のとなりにかがんだ。


「調べ終わったらさ、押し花の栞にしようよ。すごいきれいになりそうじゃない?」

「そうだね。じゃあ、お揃いにしよう」

 わたしたちは花を一本ずつ摘み、洞窟を出ることにした。


 電波塔より足の長い瑠璃は、岩を階段を下りるみたいにするすると降りていったのだけど、わたしは濡れている岩を素足で降りるのがこわくて尻込みしてしまった。すると瑠璃がわざわざもどってきてくれて、わたしに肩を貸して支えてくれた。彼女の心遣いに心が躍る。お揃いの栞を作るのがどんどん楽しみになってきた。


 しかし、幸せなひと時はあっけなく終わった。洞窟を出た途端に、手に持っていた花が灰と化して消えてしまったのだ。


「そんな……」

 わたしは肩を落として深々とため息をつく。


「太陽が嫌いなのかな」

 瑠璃は手でひさしを作って太陽をあおぎ見る。まぶしそうに目をほそめ、白い肌をきららに輝かせるすがたが美しい。見ているうちに、瑠璃まで太陽に溶かされてしまいそうで怖くなってきた。


「はぁ~あ、栞つくりたかったのに」

 わたしはことさら落ちこんでみせる。すると瑠璃はわたしに寄りそい、背を優しく撫でてくれた。瑠璃の手の確かな感触がわたしを安心させる。


「栞ならあの花でなくても作れるから、一緒に作ろう」

「ホント? やった、すごい嬉しい。わたし、ふだんはあんまり本を読まないんだけど、栞ができたら読めるかも」

 睡眠がたっぷりとれた日の朝みたいに、わたしの心は満たされる。


「私も」

「え? 瑠璃って読書しないの?」

「昔はしていたけど、今はあまりしない」

「へぇ、意外かも。博学だからたくさん読んでるのかと思ってた」

「読書をするよりも、自分の体験から生じた疑問を突き詰めていく方が、私の感性には合っている。知識に関しては一度読めば覚えられるし、トリガーさえあれば思い出すことも可能」

「あーね、卒業アルバムを見たら高校のときのことを思い出すみたいな?」

「そういうことだね」


 わたしたちは談笑をしながら浜辺を歩く。なにげない会話をしているだけなのに、心の底から潤いがあふれてくるようだった。瑠璃がとなりにいることは、海が水で満たされ、山に木々が生いしげり、空に雲が浮かぶような、ごく自然なことのように感じられる。


 わたしを抱きしめてくれた妖精は、やはり瑠璃で間ちがいない。たとえすがたが見えなくても、背中に残る感触が彼女のすべてを教えてくれた。

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