第15話「海坂神社」

 あくる朝目を覚ますと、時刻はまだ五時すぎだった。身体はまだねむりを求めているのに、どうしてか頭は冴えていたから、おもむろに布団から這いでると、身体を覚ますのに外へ出た。


 思いきり伸びをしてから、冬の香りのかすかに混じった、爽やかな空気を肺いっぱいに取りこみ、辺りを見まわす。蒼空につつまれた街は黒く染まり、大地に濃い影を落としている。空にたなびくうすい雲は、宇宙に輝く星々とともに、静かに地上を見まもっているようだ。雲から透けて見える白い月は半分とすこしを影に侵され、光を失いかけていて、わたしはおぼえず左手を伸ばして掴もうとするが、遥かとおくのそれをつかむことは叶わない。


 昨日はとんとん拍子に事がすすんだけれど、今日はどうなるだろうか、などと無意味に考えてしまう。このまま順調に行けば、すぐにでも渡世家に辿りつき、彼女たちから姉の情報を聞きだし、姉を見つけられるかもしれない。


 もっとも、人生はそう上手くいかないことをわたしはよく知っている。幸せだな、と思った矢先にどこからともなく不幸がやってきて、美しい湖にヘドロを落とすようにすべてを台なしにする。だから、変に期待をするのはやめておいたほうがいい。はじめから諦めておけば、そのぶん心に受ける傷もちいさくなるにちがいない。


 わたしは深々とため息をはく。息はまだ透明だけれど、わたしの温度を奪うくらいの冷たさはあって、身体が急速に冷えて固まっていくのが感じられる。


 世の中には、明けない夜はないという慣用句があるけれど、現実とはちがって夜はながく、凍えて死んでしまいそうなときがある。目の前は新月の夜のように暗く、頼りになる明かりはない。暖をとりながら灯りを得るには、火を起こさないといけない。わたしはその火の起こしかたを知っているはずなのだけど、どうにも指がうごかない。きっと火傷が怖いのだ。


 わたしは自分の性格――臆病で泣き虫でどこか悲観的な性格――を変えたいと思っているけれど、みずからに与えられた名の意味を変えるのは、なにか世の中の理に反しているように思えて、踏みだせないでいる。


 たとえば廊下という名詞には、部屋と部屋とを行き来する通り道といった意味がある。その廊下を指す場所に、たくさんの物を置いてとおりづらくすれば、それは廊下の使用用途からはずれて不便になってしまう。この世に存在するひとつひとつの名詞には、それぞれ決まった意味が結ばれていて、それを個人が勝手な解釈で使用したり、変えたりすれば、円滑に物事が運ばなくなる。実際、わたしの人生はうまくいっているとは言えない。いっそのことこの役にたたない仮面をはずして、泣きわめきながら生きるほうが楽なのではないか、と思うこともある。


「無理だよなぁ」


 わたしがあの青い目の女の子――姉のように明るくて、頼りになる、強い人間だったらよかったのに。


 踵をかえして玄関まで歩く最中、庭が目に入った。その瞬間、わたしの脳裏に庭をいじっている映像が浮かびあがった気がした。わたしは立ちどまってじっくりと庭を見つめる。庭には母の育てている野菜や花が咲いているだけで特段変わったものはない。でも、姉が瑠璃の家の庭に痕跡をのこしたのなら、もしかすると家にもなにかを残していたのではないだろうか。


 わたしは家に入り、母の起きるのを待った。庭をいじっている母なら憶えている可能性は十分にある。お腹の空いたわたしは、キッチンに行って冷蔵庫を開き、ヨーグルトとハチミツ、冷凍庫からブルーベリー、棚から器を取りだしてそれらをてきとうに混ぜあわせる。ダイニングに行こうとしたときに、冷蔵庫と壁のあいだに折りたたみの椅子がはさまっているのが見えた。


「うーん?」


 六時半になると、二階から地鳴りのような足音が近付いてきた。母は膝がいたいからと、いつも後ろむきに下りてくるため、かかとと床のぶつかる音がたいへん響くのだ。


 リビングに入ってきた母に問う。

「ああ~、なんかあったなぁ。あんたがやったんちゃうかったん?」

「どんな形だった?」

「待ってぇよ、書いたるわ」


 母は紙と筆を持ってくると、いくつもの図形をもちいて記憶の花壇を書きあらわす。図形の外周、正方形の枠の左上からは、あたまのおおきいドラゴンの首みたいなのが生えている。上顎とあたま、あたまの真ん中あたりから生えた角は普通だけど、下あごはどうしようもないほど太っていて、おまけに歯抜けだった。花壇は植木鉢と石とで構成されていたらしい。


「あんたやったんとちゃうの?」

「ちゃいますよ」

 と生返事をする。


「お父さんはちゃうやろし、だれやったんやろ」

 と疑問符を浮かべる母にわたしは聞く。


「ねぇ、わたしってさ、一人っ子だよね」

「なに怖いことゆうん」

「いや、なんとなく」

「隠し子がおるとでも?」

「それは思ってないけどさ。なんかこう、部屋数とか椅子とかさ、ちょっと変じゃない?」


 母はぼんやりと椅子をながめ、

「たしかになぁ。なんか分かる気ぃするわ。もう一人くらい産んでるような覚えがあるんよね」

 とふくよかなお腹をたたきながらつぶやいた。


「もしわたしが夏生まれだったら、なんて名前にした?」

「夏やったら千夏やろな」

「なんで?」

「なんで言われてもな、それしかないやろ?」

「そっか」

「なにニヤついとるん」

「いや別に。まあ、お母さんの娘で良かったなぁ、みたいな」

「ふぅん。あ、そういえばその花壇、あんたがあっち行ってすぐに咲いたわ」

「なにが?」

「ネモフィラ。あれ日本語やと瑠璃唐草やな。瑠璃ちゃん」

「瑠璃……」

「そ。瑠璃ちゃんの花」

 偶然ではないだろう。やはり姉は、わたしに言伝をのこしていったのだ。

「はぁ」

「いそがしい子やねぇ」

「他にはなんか咲いてなかった?」

「ああ、あれに混じってギリアが一輪咲いとったなぁ」

「ギリア? どこらへんに?」

 とわたしは椅子から立ち上がり、声をあららげる。


「ここらへん」

 母はドラゴンの、首のあたりに印を書きたす。


「それとこっちに下手くそな字でイワって書かれた貝があったわ」

 と首の印のななめ右上、ドラゴンの後頭部に黒い点を打った。


 瑠璃の話を思い出す。

『ハート型に置かれた石と、四角に積み上げられた石の塊』


 そのイワが、たとえば岩屋をあらわしているのなら、ギリアの位置はどこになるのだろう?


 スマホを取りだしてマップを開き、神社周辺の海岸線と母の書いた線を見くらべた――わたしは息をのむ。


 やはり海坂神社にはなにかがあるようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る