熊野地方へ

第7話「田舎でスローライフなんて、夢のまた夢だよ」

 あくる週の月曜日、わたしたちは浅倉家に向かった。


 わたしは最寄駅から電車に乗って向かい、瑠璃は片道十数万円かけてタクシーで来るそうだ。なんて素敵な愛の力だろう? 大学生にとっての数十万はかなりの大金であるのに、姉のためならそれを使いこむのもいとわないというのだ。


 自分ならあきらめていたかもしれない。その軽薄に心がなずんだ。

 実家の最寄り駅に着き、母の運転する車に乗った。窓外のひなびた、どことなく昭和の匂いのする町の景色をながめる。


 わたしのふるさとは、熊野地方に位置するちいさな海辺の町である。都会とはことなり、モールもなければこ洒落た服屋もなく、友人とあそべる場所も無にひとしい。ここには人間のつくった娯楽も流行りもなにもないけれど、その代わりに、おだやかな――時に荒れ狂う――自然のいとなみが無際限に広がっている。


 町を抜けて海ぞいの通りに出ると、わたしは窓を開けて、自然の景色を愉しむ。

 目の前に広がる海は小判のようなうろこをきらめかせ、雅やかな手を砂浜に伸ばしてはどこかへ引いてゆく。空に浮かぶ青みがかった叢雲は、風によって成すすべなく海へ連れさられ、徐々に青に溶かされてしまう。海と空のあいだには霞がかった島があり、それは濡れそぼれた幾千の青をその身に宿し、わたしをそっと見まもっている。


 わたしはこの美しい土地が好きだ。とこしえからつづく自然の営みが、街に疲れたわたしの心を癒してくれる。高校生のときまでは、その良さに気づきもせず、ぶつくさと文句を垂れていたのだけれど、離れてみて、失ってはじめて分かることがあった。空気の美味しさ、温かい気候、雨露にきらめく木々の葉――そしてなにより両親の心づかいに気がついた。また、ここでは髪のみだれも、化粧のくずれも気にする必要がない。あまり洒落た女が歩いていると、お年寄りがおどろいて昇天してしまうから、すこしくらいみだれているほうが健全なのだ。


 とはいえ、やはりここにも街はある。いい人もたくさんいるものの、同じくらいわるい人も住んでいる。道端にタバコを捨てる農業従事者、事実無根の噂話を流して他人を貶める人、脱税で税務署に入られる経営者など、本質的には都会となんら変わりはない。よく田舎でのんびりスローライフ♪ みたいなことを言う人がいるけれど、田舎に安寧があるというのは幻想にすぎないからやめたほうがいいと思う。


 そうこう思っているうちに実家に着いた。

 荷物を持って車を降り、家の正面に立って外観をながめる。

 なんの変哲もない見なれた普通の一軒家だ。二階建ての箱型の建物は、元は淡黄色だったのだけれど、今は潮風にさらされ、物憂い灰いろと化している。家のてまえには駐車場とせまい庭があり、あちらこちらに母の趣味である、家庭菜園用の植木鉢がところ狭しと並べられている。


「あんたなにしよんの? 入らんの?」

 と母が玄関から呼んでくる。

「いま行く~」


 わたしは甲だかい音の鳴る門を抜け、夜中以外は鍵のかかることのない不用心な玄関扉をくぐった。中から温かくやすらかな空気がただよってきて、おぼえずため息が出た。


「はあ、疲れたぁ」

 と上がり框のうえに荷物を置く。


「おばちゃんやないんやから。もうちょいしっかりしぃや? せやないと彼氏のひとりもできへんで」

「彼氏らいらへんって。恋愛なんて面倒なだけやし」

 とわたしは人前なら絶対に言わない言葉をはき捨てた。


「色気のない子やねぇ。浅倉家はあんたの代で終わりやな」

 と母は豪快に笑いながらリビングへ入っていった。


「子どもはほしいんだけどなぁ。産みたくはないけど」

 わたしは独りごちて、靴を脱いで母につづいた。


「瑠璃ちゃんはいつくるん?」

「一時間半前に大阪だから、二時くらいじゃない?」

 わたしはダイニングテーブルの椅子にすわってノビをする。


「ほうか。お昼ご飯はええんやろか」

 と母はわたしの昼食をつくるのに、家をゆらしながら台所へ向かう。


「食べてくるんじゃないかな。運転手の人が知り合いみたいだし」

「たのしみやなぁ。美春の友達なんてちゃんと見たことないし」

「そうだっけ」

「せやで。一回も連れてこぉへんかったやん、家に」

「まあ、そうだったかも」


 わたしは母の作ってくれた昼食を食べ、瑠璃を待った。予想どおり十四時に、瑠璃から間もなく到着する云々のメッセージが来たので、洗面所で化粧直しをして、家の表で待っておいた。


 しばらくすると群馬ナンバーのタクシーが家の前に止まった。運転手は大学で瑠璃を見おくったときと同じ、初老の紳士風の男性だった。


「こんにちは」

 と車から降りた高貴なる妖精こと白雪瑠璃があいさつしてくる。声からしてだいぶお疲れな様子だった。


「うん、こんにちは。疲れたでしょ? 荷物もつよ」

「ありがとう」

「いこっか」

 わたしは瑠璃のトランクを持って踵をかえす。


 玄関戸をくぐって母に瑠璃が来たことを伝えると、怪獣があらわれたかのような重厚な足跡がリビングからせまってきて、瑠璃のすがたを見るなり感嘆の声をあげた。


「あなたが瑠璃ちゃんね」

「はい、白雪瑠璃です。不束者ですがよろしくお願いします」

 と瑠璃は堅くるしいあいさつを済ませると、手元に持っていた土産物の袋を母に手わたした。


「あらあ、ありがとうな。気ぃ遣わんでもええのに、実家帰って来たみたいに思てもうたらええねんで。にしてもえらいべっぴんさんやねぇ。どこの女優さんが入ってきたんやと思うたわぁ。美春にこないなお友達がおったなんて知らんかったけど、どっかで見たことある気もするし、やっぱ女優さんなん? でも難儀やったやろ、ここ辺ぴなとこやし。まあなんにもあらへんよ。車ないと買い物ひとついけへんねんもん。そんなとこに興味あるゆう若い子なんかおらへんから、おばちゃん嬉しなってな。おすすめは岬の森やな、なんか木がソーシャルディスタンスをとってるみたいな感じでおもろいらしいで、あたしゃ行ったことないけどな。はっはっはっ。いつでも見れるおもうたら行かへんやろ? そういえば瑠璃ちゃんホテル泊まるんやて? 水くさいなぁ、遠慮せんといくらでも泊ってけばええのに。晩御飯くらいは食べてきな、お父さんにも見せたりたいし。びっくりするやろなぁ、こんなうつくしい子なんかめったとおらんし、なんせみんな枯れ木みたいにシワくちゃやからな。もう子どもおらへんようなって、みんな家でゲームしとんやろか。難儀な時代やなぁ。さ、こんなとこで立ってるのもなんやし、あがってゆっくりしてき」

 と母は一方的に喋りたおした。


「おじゃまします」

 瑠璃がうやうやしい微笑を母に送ると、母は満足げな笑顔をつくってリビングへ帰っていった。


「はぁ、いこっか」

「うん」


 玄関正面の階段をのぼり、二階へあがる。階段のすぐ右にトイレがあり、その右隣に私の部屋、そこから廊下を真っすぐすすむと、メインディッシュのひとつである、姉の部屋だったであろう場所に行きつく。二階にはほかに両親の寝室と三畳ほどの物置き部屋がある。


 わたしは自分の部屋に瑠璃の荷物を置き、彼女とともに姉の部屋の扉の前まで歩く。

 いま思えばたしかに不思議だ。わたしは一度もこの部屋に入ったおぼえがない。この部屋の存在理由を、せいぜい末子をつくる計画がとん挫したのだろう、くらいに認識していた。


 ちらと瑠璃に視線を向ける。瑠璃がうなずく。

 この先にはいったいなにがあるのだろう? 未知と期待に胸が高なる。わたしは扉の取っ手に手をかけ、下方へひねり、奥へと押した。戸のすき間から、しけった空気と白い光とが溢れだす。部屋に入るとそこには―――

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