第5話「神隠しに遭った姉」

 正門前まで送ってくれた泉水と別れ、事務室をたずねると、来客はまだ応接室で待っているという旨を聞かされ、早足で向かう。


 いったいだれがたずねてきたのだろう、と期待半分不安半分といった心もちで校舎に入り、廊下を歩く。ジュエリーショップが指輪を回収しにきたのだとしたらガッカリだ。


 応接室に着き、扉を押して中をのぞくと、窓の外をながめる女性がすわっていた。どこかで見たおぼえのある姿だった。


 女性がこちらをふり向く。


「おぉ……」


 思わず声をあげてしまう、女性の瞳の美しさに。離れていても分かる瞳の輝きは、どんな青より綺麗だった。


 それもそのはずで、彼女は夢に出てきた妖精そのものなのだ。でも、夢のなかでは顔が見えなかったのに、どうしてそうだと分かるのだろう?


 扉をそっと閉め、女性のすわるソファの向かいへ歩く。心臓の脈うつ音が外側から聞こえるくらいに緊張は高まっていった。

 腕と足がそろって出るような、ぎこちない動きでソファへすわり、その佳しい顔を見る。


 視線の先にあるのは、この世の美そのものだった。


 寸分のくるいのない顔の造形は、神様が能うかぎりの技を尽くして生みだしたものにちがいなく、そのまわりの長い黒髪は、毛先にゆくにつれて波うち、麗しい肌との対比により、黒白の世界の住人を思わせる。それを際立たせる全身の黒装束は、あまねく色の中においてもっとも目立つ彩色と化しており、女性をこの世のものたらしめる瞳の色彩はまた、彼女をこの世の対極に位置させるものでもあった。


 瞳の白目の部分は妖艶な薄桃いろをしていた。その怜悧な眼ざしに射ぬかれたわたしは、きっと惚けた顔をしていたことだろう。

 女性は微量のアルコールの入ったような、それでいて冴えわたった声色でこう言った。


「私は白雪瑠璃。久しぶりだね」


 なんて返せばいいのかがわからなかった。久しぶりというよりは今朝がたぶりだし、実際に会うのははじめてなのだ。

 混乱したわたしは、かすれた声を絞りだしてこう言った。


「はい。えと、浅倉美春ですけど……はい」

 見当ちがいな返事に顔が熱くなる。けれども瑠璃は、海のように大らかな微笑で受けいれてくれた。


「知ってる、ずっと前から。何から話せばいいのかな」

 と瑠璃は寒光に照らされた氷柱のように美しい指を口もとにあてて考えこむ。


「そうだね。結論から言うと、私はあなたのお姉さんを探している」

「え、おねえさん?」

 すっとんきょうな声が出た。


「うん。おそらく身に覚えがないだろうけど、あなたのお姉さん、浅倉千夏は実在する人間。彼女は二年前の秋に神隠しに遭って消えた」

「神隠し、二年前……?」


 瑠璃の話を聞いたわたしの記憶群は、有機的なつながりを作りはじめた。異常なまでに抜けおちた思い出、空のように美しい目の女の子、片目の青い夢の天使、そして二年前の異常気象。

 瑠璃の話を信じるための証拠は十二分にそろっていた。


「でも、神隠しって」

「信じ難い話だけれど、彼女は肉体はおろか、私たちの記憶の中からも消えている。だから神隠しと呼称するのが適当だと思う。私はあまりスピリチュアルなことは信じない性質だけれど、世の中にはそういったものが少なからず在るみたい。私の特異な体質もそう」

「体質?」

 瑠璃はうなずく。


「端的に言えば、私は完全記憶能力を持っていて、且つ、過去視のような芸当ができる。そして私は純日本人であるはずなのに、生まれつき目が青い」


 わたしは混乱に混乱を重ねた。記憶力はともかく、過去視とはいったいなんだろう。また、わたしからすると、その美貌も充分特異であるように思える。


「その完全記憶とかって、どういう感じなの?」

 とわたしは社会に迎合するなかで身につけたコミュニケーション能力を思いだし、無難な質問をした。


「一度見聞きした事を忘れない力。これは生まれつきの体質。ただ、完全であるが故に不完全とも言えるかな。記憶というのは人間の認識によって形作られるから、自分の五感外の出来事は記憶できない。例えば美春は今、私の顔を見て、声を聞いているでしょう? 今の美春の認識はソファの陰影や外の音には割かれていない。そういった物事を記憶できないのは私も同じ。そして過去視のようなものというのは、私が中学一年生の時の五月二十一日に得られたもので、得た経緯は、どうしてか全くおぼえていない。その日以降、私には普通の人には視えない、記憶の粒子というものが視えるようになった。今もあなたの髪の辺りから次々に粒子が生まれ出ては消えたり、あるいは滞留したりしている。それに目を合わせて視ようと思うと、あなたの五感の体験を追憶できる。記憶の粒子は大小様々で、大きなものは大きな感情を伴った体験で、小さなものはちょっとした体験の記憶。その粒子には二種類の色があって、一つは青い粒子、もう一つは赤い粒子なのだけど、基本的に青いものは正の感情体験、赤いものは負の感情体験、つまりはそれぞれ幸不幸を司っている。あとは、そうだね、記憶の粒子は人工物にしか滞留せず、自然物のなかではたちまち消えてしまう。おそらく自然物には浄化作用か何かがあるんだろうね。だから、小さな粒子は時間が経つと消えてしまうし、大きなものも劣化してしまうの」

 と瑠璃は淡々と言った。


 わたしは話の半分も理解できなかった。彼女はおそらく飛びぬけて頭の良いタイプの人間だ。


「なるほどね。つまりえっと、どう話が繋がってくるのかな?」

「千夏さんが消えたのは――」

 と瑠璃は国語の本読みをするように語りはじめた。


 以下は彼女の話をわたしなりに噛みくだいてみたものだ。

 瑠璃は二年前の十一月二十日の朝に、自分のこれまでの記憶の多くが抜け落ちていることに気づいたらしい。普通の人間にとってのそれは通常運転なのだけど、忘れない力を持つ瑠璃にとってのそれは異常だった。


 その前の晩に異常気象が起こっていたことを祖母づたいに聞いた瑠璃は、記憶の欠落と異常気象に関連性を見だし、ネットを使って調べてみたものの、それは過去に類を見ない現象であったうえ、どうしてか世間の人々は興味を持っていなかったから、手がかりはほとんどなにも得られなかった。


 混乱していた瑠璃は、あたまを整理するのに庭に出て、日課である草花への水やりを行った。しかしそれもおかしい。なにせ瑠璃は元々園芸に興味のない人間だったからだ。


 何故自分は興味のない園芸などやっているのだろう? 不思議に思った瑠璃は、庭の周りを観察した。庭には祖父母の作っている畑のほかに、ハート型に置かれた石と、四角に積みあげられた石の塊があり、その石の付近に一個の鉢が不自然に置かれていた。


 鉢からは芽が出ていた。何の植物であるかを特定できなかった彼女は、おとなしく花が咲くまで待った。春になって咲いた花の名前はギリアトリコロール、花言葉は『ここへ来て』である。


 どこへ来いというのだろう? 瑠璃は残された記憶のなかに答えがあると考えた。


 このときの彼女の記憶は混沌と化していた。物心がついてから十三歳までの記憶は、例の過去視を得た日以外は完璧に覚えているのに、それ以降は虫に食われたように穴が空いていたのだ。


 その穴のなかには、消えた何者かの不在の存在がしっかりと残っており、きっとその人がギリアを残していったのだと瑠璃は得心した。それから瑠璃は穴と穴のあいだの記憶を掘りおこすべくあたまを回したが、記憶を精査するには膨大な時間がかかったらしい。


 瑠璃曰く、完全記憶にはメリットもあるものの、デメリットもあるとのこと。記憶の量が膨大であるが故に、普通の人間より思い出すのに時間がかかるのだ。


「数週間前、私は本棚の奥に一冊のメモ帳を仕舞い込んでいたことを思い出した。そのメモ帳がこれ」

 と瑠璃は傍らの鞄から黒い革のメモ帳を取りだし、わたしへ差しだした。それを受けとって開く。


 そこにはびっしりと日本語や外国語が並んでいて、頁をめくっていくと、半分を過ぎたあたりで真っ白に変わった。

 空白の直前にはこう書かれていた。


・女王の根城の正面に積もる雪

・汗をかく牛は充たされ、また稜線を歩き始める

・池のほとりに佇む草は水面を覗く。忙しく慌ただしい風に吹かれて揺らめく心。やがて季節がいつもそうするように、草は花となって美しく咲き誇る。その花の名前はアマドコロ。それは水面に映る空を夢見てこう言うのだ。心を奪うことなかれ。剣を奪うことなかれ

・風鈴+西瓜+プール+お盆+かき氷*200

・港を志す舟はイサナに迎えられる

・三月と四月が出会うには?

・passcord:120815 and 150405

・瞳を閉じて、声をよく聞くこと


 行間のところどころには空白があり、主語や述語が抜けて意味が伝わらない文章も散見される。この暗号のひとつに見おぼえのあるものがあった。


「このパスコードの下の数字、わたしの誕生日だ」

「上は千夏さんの誕生日だと思う」

「ってことは八月、それで千夏? 四月だから美春って」

 両親の安直さを笑う。


「そして池のほとりに――からの内容はあなたの事を表している」

「わたし?」

 ふたたびメモ帳に目を落としてじっくり読んでみるけれど、なにがなんだかわからない。


「池のほとりの水面を覗くということは、浅瀬を覗くということ。忙しく慌ただしいは倉卒、草は花になりの件と心を奪うことなかれ云々は漢字の指定だと思う。ソウソツには他に草と怱という漢字があるから。美しいはそのままで、アマドコロは春の花。これらを繋げると……」

「浅倉美春になるってこと?」

 瑠璃はうなずく。


「よく分かったね」

 と感心する。

「時間はかかったし、最初は確信もなかったけれど、最終的には舌触りで判断した。浅倉はともかく、美春や千夏という語句は滑らかに発音できるし、何度も呼んだことがある気もしたから。それからSNSで名前を検索すると、あなたのプロフィールが出てきて、そこで確信した」

「なるほどね」

 と言いつつメモ帳をじっくり読みこむ。


 長文のとなりの文は夏を想起させるもの五つに二百をかけると千夏になるということだろう。ほかはよくわからなかった。瑠璃はつづける。


「私は『汗をかく牛は充たされ、また稜線を歩き始める』から汗牛充棟、蔵書がたくさんという意味から図書館を想起した。そこでようやく庭の石と鉢の位置関係が分かったの。ハート型の石は私の住む市のテーマパークのお城、四角に積み上げられた石は沼沢城の石垣で、鉢の位置を地図に当てはめると、沼沢市立図書館を指し示す。つまりギリアの花は沼沢市立図書館に来て、というものだった」

「おお~」

「察しのいい人だったらもう少し早く分かったかもしれない。ただ、私はあまり外界に興味がなかったから……。それで、私はすぐに図書館に向かった。そして図書館の奥の方に行くと、とても大きな記憶の粒子があった。それを視ると、その、千夏さんと私が接吻をしている映像が流れた」

「は? キス?」

 瑠璃はうなずく。


「おそらくは消えづらい記憶の粒子を残すために、インパクトのある事を起こしたんだろうね。私の表情や千夏さんの挙動からして、お互いに渋々やったわけではないだろうけど。

 まあ、それはどうでもよくて、大切なのは千夏さんがその後に言っていたこと。千夏さんは『私の妹の――――と友人二人を頼ってほしい。そうすれば、きっとなんとかなる。あの子とならきっと――私の夢は――だから』と言っていた。記憶の粒子は劣化していて、全部はわからなかった。そしてさっきのメモ帳の暗号を読み解いて、今日あなたのところに来たというわけ」


 わたしは瑠璃の言葉を要約する。

「つまり瑠璃は千夏を一緒に探してほしくて来たってことだよね」

 瑠璃はうなずく。


「あなたの実家やその周辺に何か手掛かりが残されているかもしれない。特に友人二人というのが気になる。私は場所を知らないから連れていってほしい。こんなに手の込んだ暗号を残せるということは、千夏さんや過去の私は彼女が失踪することを事前に知っていたのだと思う。もしかするとあなたも。きっと千夏さんは私たちの助けを必要としている」

「助けを……」

 わたしはわたしを助けてくれた、名も知らぬ女の子の言葉を思い出す。


『もう大丈夫。わたしに任せてよ』


 ああ、なるほど、そういう巡りあわせか、とわたしは得心する。かつてわたしを助けてくれたヒーローを、今度はわたしが助ける番なのだ。

 わたしは瑠璃に自分の記憶と夢の話をした。

「そんなことが。でも、よく覚えていたね」


「うーん、なんでだろうね」

 わたしが言うと、沈黙がおとずれた。わたしたちのあいだには泉水のときと同じような、心地の良い空気が流れている。瑠璃が久しぶりと言った理由がなんとはなしに分かった。


 瑠璃がおもむろに口を開く。

「さっき言った記憶の粒子は、約四年に一度、すべて消え去るの。その消えた粒子がどこに行くのかをずっと不思議に思っていたのだけれど、もしかすると、人間の記憶を始めとしたあらゆる出来事は、全体世界の何処かに記録されていて、美春は自分の記憶そのものではなく、その記録を視たのかもしれない。私が過去を視るように、何かの特殊な力を以って」

「なるほど?」

 全体世界とはなんだろう?


 それはさておき、瑠璃の要望をことわる理由をわたしは持ちあわせてはいない。千夏にはわるいけれど、心がおどっているくらいだ。


「いつ行こっか、わたしの地元。わたしは明日からの三連休はバイトがあるんだけど」

 正直アルバイトなんてどうだっていいのだけど、さすがに急に休むのはほかの従業員に申しわけが立たないから、休むわけにはいかない。


「私はいつでも大丈夫。美春や美春の御家族の都合のいい日で構わない」

「じゃあ、あとでお母さんに聞いてみるから、また連絡するね」

「分かった。ありがとう」

 と瑠璃は美しい微笑みを浮かべた。

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