第3話「この社会が失敗したのは、経済の仕組みのせいなんじゃないかな?」
そんなことを考えているうちに、大学の正門に到着した。石柱に背中をあずけていた友人がわたしに気づき、腕をふって名前を呼んでくる。
「おっす美春、おはよう」
「おはよう、泉水。あのさ、あんまり目立つようなことはしないでほしいんだけど」
「え? 全然目立ってないよ。気にしすぎだって」
と泉水がわたしの背中をたたいて歩行をうながす。わたしは前につんのめった。彼女は長身の非常に体格のよい女性で、主にストリート系のファッションを好んでいる。
本当はフェミニン系の服を着たいと前に言っていたのだけど、女性用の服のセイズが合わず、男性用のXLサイズ以上でないと入らないから諦めたらしい。今日は白いケンバースのスニーカーを履き、そこから歴戦の名馬のような逞しい脚をのぞかせている。その肌には夏の残滓が朝焼けのかすんだ空みたく映じられ、病院のベッドとは対極の健康美がありありと感じられる。
上半身は白い長そでのシャツのうえから黒いオーバーサイズのシャツをかぶり、そのシャツの中心ではドクロが顔をのぞかせ、首から垂れさがるシルバーとともに、茶髪で綺麗目の服を着て終始にこにこしている――つまりはわたしのような――女子大生とは趣を異にするオーラを放っている。顔はちいさく、ぱっちりと開いた杏眼、細く秀でた鼻りょう、薄いくちびる――その端は、いつも三日月のように上がっている――と、はっきりとした眉、シャープな輪郭を合わせると、どこか中性的な印象をいだくのだけれど、ミディアムのつややかな黒髪としなやかな立ちい振るまい、美しい爪、ふとした時に香る香水の匂いが女性らしい(つまり、中身はものすごく女の子なのだ)。
「榛名はまだおねむ?」
ともうひとりの友人の所在をたずねる。
「そうそう。昨日遅くまでゲームしてたから」
「ふぅん」
わたしはとくに感慨のない返事をし、
「なんか面白いことないかなぁ」
と迫りくる無骨な校舎めがけてつぶやく。
「待つんじゃなくて、起こそうぜ」
「どうやって?」
「なんだろう。こう、旅行の日程組むとかさ」
「旅行かぁ」
「どっか行きたいとこないの?」
わたしはたまゆら考える。
「鏡の国とか」
「メルヘンチックだなぁ。まあ私もそういうのはよく考えるけどね」
「個人的には現実より夢のほうが楽しいなって思う」
「それはあれでしょ、現実の楽しさを知らないだけっていう」
わたしはうなる。
「現実にある楽しさはさ、刹那的な快楽みたいなのがほとんどじゃない? わたしもそういうのは感じるけどさ、もっとこう、永続的な享楽みたいなのがほしいんだよね」
今度は泉水がうなる。
「それなら夢を見るのが早いと思うな、現実のほうの夢ね」
「夢? 夢かぁ」
それができたら苦労はしない。
社会学科の講義室に入ると、すでに数名の学部生がすわっていた。友人と談笑をしている人、イヤホンをつけ、スマホを持って指をしきりに動かしている人、寝たふりをしている人と、それぞれがいろいろな動きをしている。
広々とした講義室にはなだらかな段差がもうけられていて、ゆるやかにカーブした長机に青い椅子が六つずつ置かれてある。開放感のあるおおきな窓からは、秋のすずやかな陽光が入ってきており、室内の温度はねむけをいざなう快適なものとなっていた。
わたしと泉水は中央の段の真ん中よりやや左にすわった。後ろや端のほうは意外と目だつから、このあたりがもっとも楽なのだ。
「まだ二十分あるよ」
と泉水が言った。
「いっつも早くきちゃうよね。ゆっくりしても間に合うってわかってるのに」
「ま、不真面目よりは健全でえらいっしょ」
「そだね」
そこで会話は途切れる。
わたしは爪で机をはじき、馬の走行音をまねる。リズムに合わせて宝石が美しくきらめき、それをながめているだけで、ちょっとした退屈しのぎになった。
泉水とは毎日のように会話をしているから、間が空いてもとくに話すことがなく、大抵いっしょにいるだけだ。それが苦痛に感じる場合は微妙な仲で、心地良く感じられるなら仲が良い。泉水とは後者の関係だ。
泉水はおもむろに本を取りだして読みはじめた。表紙をのぞくと、何度も見かけたタイトルだった。
「それ、まだ読み終わってないの?」
「五週目だよ」
と泉水は笑った。
「ふぅん。従妹が書いたやつだっけ、高校生の」
「そ。すごい素朴な話なんだけどさ、手垢のついてない鏡みたいな感じがして、何回も読み返したくなるんだよね。ていうか、美春も読んでよぉ」
泉水は肩を組んできて、わたしの身体を左右にゆする。
「読みたいなぁとは思ってるんだけどね、読んで想像して考えるのってけっこうしんどいじゃん? そういう能動的な活動は、大学のもろもろとバイトで手いっぱいって感じ」
「生命力がないなぁ」
「泉水のをちょっと分けてほしいくらい」
「私は美春の女の子らしさが欲しいなぁ」
「自由に分け合えたらいいのにね」
と苦笑し合う。
その間にも学部生がぞろぞろと入ってきて、わたしはあいさつをしてくれる子たちに(意識的に)元気よくあいさつを返す。隣で自然にあいさつを返している泉水が羨ましい。講義は時間ピッタリにはじまって、中年男性の講師がマイクを片手に、ほとんど雑音のような声で話し出す。
講義は正直言ってつまらない。失敗した社会の仕組みを学んだとて、得られるものはあまりないと思うのだ。手に入るのは、退屈な授業の思い出と新卒カードくらいだろうか。
なにをもって失敗と言うのかはともかく、この社会が成功していると云う人をわたしはほとんど見たことがない。成功していると主張する人の大半はおそらく、ぼんぼんのおぼっちゃまおじょうちゃまだろう。彼らにはわたしのような下民の気持ちなど想像もつかないにちがいない。
現代社会の失敗の元凶は、個人的には経済の仕組みそのものにあると思っている。現行の経済システムを採用している限り、ほかのなにを変えてもどうにもならないような気がするのだ。
ある辞書によると、経済の第一の定義はこう書かれている。
『物質の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体』
とりわけ重要なのは前半の部分だ。ここには人間というくくりがないので、経済というのは人間に限定されたものではないことが分かる。
たとえば自然界では、蜜蜂と花が経済的な関係にあると思う。まず花という生産者が太陽エネルギーを糖質に変えて花蜜という物質を生産し、それを花粉とともに消費者兼労働者である蜜蜂に提供する。蜜蜂は花蜜を使って巣を生産したり、蜜を蓄積したり、食べて消費したりしつつ、別な花に飛んで花粉を流通させ、花の繁殖の手助けをしている(他にも諸々の生態があるらしい)。ここには両者に需要(問題)があり、また双方に供給(解決)がある。
わたしはこのような経済のかたちを問題解決型の経済と勝手によんでいる。経済学科っぽい用語で言うと、ウィンウィンの関係だろうか。これを人間の関係に変換するとこうなる。とある農村に畑をつくろうとしているAさんがいる。Aさんは農業の知識はあるものの、体力がない。そこに底しらずの体力はあるが農業の知識のないBさんがやってきて、畑をいっしょにつくってくれることになった。数か月後、無事に作物は実り、Aさんは助けてくれたお礼に収穫した作物をBさんに贈与する。そうするとAさんもBさんも得をするといった形になるのだ。実に真っ当な経済の形だとは思わないだろうか?
しかし現代の資本主義経済はそうではない。資本主義の特徴は、本来存在しなかったはずの問題を事業者が作りだし、問題と同時に解決策を提示するといったものだ。
ファッションなんかはその最たる例で、昨年なんの問題もなく来ていた服を今年着ていると『それはもう廃れた服だからダサいよ』というささやきがどこからともなく聞こえてきて、自分は周囲に不格好に思われているのではないかという不安が生じる。そこに新しい、今年流行っているとされるアイテムを提示され、そのアイテムを購入し、着用することで不安は解消されたかのように思われる。けれども解消されるべき不安は端からでっちあげられたものでしかないし、また次の年になれば今年流行っていたはずのアイテムは時代おくれになってしまう。これはなにもファッションに限った話ではなくて、街の看板やネット広告などでは毎日のように〇〇しなきゃ損、何々でお困りではありませんか、何名様限定、いまさら聞けない××、まだ△△をやっているのですか、生活の安心のために、もっと健康に、といったキャッチコピーを見かけるだろう。あるいはそれは心理学のテクニックを応用した無言のキャッチコピーかもしれない。でも、よくよく考えてみれば、そのコピーを見るまでは不安もなにも感じていなかったのではないだろうか?
この自作自演型の経済とも言うべき経済圏にいると、心身をすり減らして稼いだなけなしのお給金は泡沫のように消えてしまう。お金はたくさん使っているのに、人間にとっての本質的な問題である幸福でありたいという欲求は満たされないままで、結果、金銭的、精神的貧困におちいるのだ。
資本主義の構造は食物連鎖に近い現象だけれど、明確にちがうところがひとつある。それは食物連鎖の頂点に位置する肉食動物が、草食動物に飽きたらず、植物まで食らいつき、動けなくなるまで肥え太っているところだ。そういった自然の摂理に適わないことを繰りかえしていれば、乱獲された草木はやがて大地からすがたを消し、草食動物が飢え死に、最終的には肉食動物も死んでしまう。いまの社会はその過渡期にあるのだとわたしは思っている。そしていまの社会には植物を育てる太陽エネルギーもなければ水もないので、生産者が増えることはない。
社会学科では政治、環境、教育、歴史など、いろいろな学問を学べる機会が設けられているのだけど、わたしの受講した科目ではどれも経済と同じように、正解とは言えない前提から論理が組みたてられているように思え、わたしはそんな欺瞞や誤謬を学ぶことに意義を見だせないでいるのだ。なぜそんなところに入ったのかと問われれば、受験に失敗したからと言うほかはない。本来はとある難関大学の哲学科を志望していたのだけれど、緊張したのかなんなのか、学んだことのほとんどを本番でドわすれしてしまったのだ。その大学の哲学科以外の哲学科には興味がなかったため、第二志望からは自分の人生に関わりの深そうな学科をえらんだというわけだ。
ただ、わたしは人間社会のすべてが失敗だとは思っていない。蜜蜂にも残酷に見える生態はあるし、人間社会にもまともな部分もある。だからこそ難しいのだ。
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