第2話「わたしはわたしが嫌いだ」
人間の認識内の物事には、例外なく名詞があたえられる。わたしにあたえられた名詞は浅倉美春、意味は臆病で泣き虫な女の子だった。
子どものころの記憶は、大抵の人がそうであるようによくおぼえていないのだけれど、両親が言うには、幼稚園のときのわたしは周囲の輪になじめず、ひとりでほかの園児を見つめるだけの大人しやかな少女だったらしい。
陽気な性格の母親は、当時のわたしを不気味に思っていたそうだ(失礼な話だ)。ほかの園児同士が喧嘩をして涙を流せば、わたしも同じように痛みを感じた風に涙を流し、昆虫を捕まえてうれしそうな子がいれば、わたしも実際に昆虫を捕ってうれしくなったようにうれしくなっていたそう。
たとえるならそれは、演劇を観る観客や、スポーツ観戦をするサポーターのようなものだろう。行動をせずして認識を得る、だれにでも経験のある生きかただ。けれども、大人たちはそれを快く思わなかったようで、わたしは半ば強引に園児の輪のなかに入れられ、その作為的な集団の不気味な営みのおそろしさに、泣き叫んでいたことをおぼろにおぼえている。
それからのわたしがどうなったのかはわからないが、おそらくは大人たちの意図していたとおりにはならなかった。それはいまのわたしが証明している。
記憶が鮮明に残っている最初の出来事は、小学校低学年の運動会の日。それなりに足の速かったわたしは徒競走で先頭を走っていた。走っているときは不思議なもので、他人の目は気にならず、自分が目立っていることを認識できない。わたしは一所懸命に腕をふり、足を運び、息を吸ってははいた。
疲れ知らずの小学生は風を切り、我を忘れ、気持ちよく走る。けれど、レースの中盤、左のカーブに差しかかったときに、だれかに服の裾をつかまれたかなにかで転倒し、一転、大差をつけられて最下位になってしまった。
そのときのわたしは、冷たく乾いた風が手のひらと膝の傷を撫でるのを、他人事のように眺めていた。転んだまま立ちあがらないわたしを見た観衆は、共感のともなわない哀れみの目で見つめてきた。その無機質な、心のない、冷たい眼ざしは、かつて見るだけだったわたしを見られる側に引きこみ、ひどくおののかせた。
両親の声援が聞こえてきて、わたしは立ちあがろうとこころみたものの、釘を刺された藁人形のように身うごきがとれなかった。傍観する観衆の視線は次第に困惑をともなうものになって、わたしはその無数の視線の釘にさらされ、絶望した。
『ああ、わたしはなんてよわい人間なんだろう……』
助けてくれたのは両親でも先生でもなく、元気で溌溂な声をした、名も知らぬ女の子だった。私の目に映る彼女の瞳は空のように美しい。
その子はわたしにこう言った。
『もう大丈夫。わたしに任せてよ』
その子はわたしを背おってグラウンドを駆け出した。背中のわたしはひしとしがみついている。彼女の赤兎馬のごとき力強さ、全身をほとばしる血の脈動、そしてその勇気。いま思い出しても胸が高鳴る。
その子はゴール直前でこう叫ぶ。
『美春、つかんで!』
わたしのちいさな手が伸びてきて、お情けで用意されていた白いテープを掴んだ。その瞬間から、わたしの世界に対する認識はおおきく変化した。わたしもこのヒーローみたいになりたい、と思ったのだ。
しかし、結局その夢は失敗に終わった。それから先の人生をいくら振りかえっても、他人に風見鳥みたくニコニコと気味のわるい笑みを浮かべ、なにを言われても「はい」と答える自分がぼんやりと浮かぶだけ。具体的に思い出せるのは、受験に失敗して深々とため息をついている場面、大学に入学してからの出来事くらい。きっと、思い出すに足る記憶がないのだろう。わたしは彼女のようにはなれなかった。与えられた名の意味を上書きするように、明るく優しい女の子の仮面をかぶっただけで、本質的な部分はなにも変わらず、ただいたずらに、浅倉美春という物語を無下にしただけだったのだ。
わたしはいったいどうすればよかったのだろう?
目の前に広がる街はひどく無機質で、冷たい風がたえず吹き荒んでいる。街を行く人々は、さながら夜の砂漠を耐えしのぶ仙人掌のように、すくない水を逃すまいと背伸びをし、周囲に鋭い針を向けている。そんな街で、自分らしく生きるなんて、できっこない。
ときおり不思議に思う。どうして人間は乾いた土地に住むようになったのだろうと。愛や夢や幸で満たされた豊饒の海は、どこにもなかったのだろうか。
でも、わたしは同年代の若者のように、自分の人生がダメなのは大人たちのせいだとは思えない。歴史を紐とけば、どんな時代の若者も同じように言っていることが分かるからだ。大人たちもまた、上の世代の大人たちの犠牲者に過ぎないのなら、いったいだれがそれを責められるだろう?
人間はどこで道を間ちがえてしまったのか。あるいはこの街がわたしたちの真実なのだろうか。
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