第5話 逃走劇
入り組んだ下水道は立体迷路のようだ。足元を流れる下水は、触れただけで未知の病気にかかりそうなほど不潔で、息をするのも困難だ。
酸素も薄く、子供なら卒倒しそうな悪臭の中、俺たちは水上を進んでいた。
「こんな魔法、初めて見ました」
「俺のこれは固有だからな」
「私、魔法に興味があります」
「やめとけ、魔法は下賤の牙だ。お前が使えば良くない噂が立つ」
魔法はスラムの土壌で育つ花だ。
薬に身体改造、病気と、肉体に作用するものを何でも使い、脳みそに爪痕を残す。そうして失った脳機能を補填する力、それが魔法の神髄であり、魔法の素である。
だからこそ、魔法を得るには、身を運否天賦へと任せる覚悟がいるし、失うだけの者も、得るだけの者もいる。信仰によって、安定した奇跡を起こせる貴族共の方がよっぽど道理に則っていて、まともだ。
「そうですか、では私も『破魔の奇跡』を捧げておきますね」
『破魔の奇跡』は信仰深い貴族に許される特権で、病魔を遠ざける力があると言われている。しかし、実態は名ばかりの奇跡で、貴族が金で力を買うようなものだ。
「助かる」
それでも、味方になってくれるなら心強い。実際、無菌室で育てられたような貴族の娘をこんな汚い場所に連れてきたことに多少の罪悪感があった。病魔の心配がなくなるなら、肩の荷も下りるというものだ。
俺たちは足場として固定した水場の上を、ペチャペチャと音を立てて進んでいく。
俺はどこか高揚感すら覚えている自分に気が付いた。
忘れもしない、ドブ浚いの日々。スラムから出るため、栄達を目指すため、冒険者見習いとして、俺はひん曲がりそうな鼻を押さえ、下水に降りていた。ガス事故を恐れ、明かりも持たず下水を歩く俺を出迎えたのは、鼠の大群だった。驚きのあまり、頭から下水を浴びることとなった俺は、水を手に入れるために、外の河川まで歩くこととなったのだ。
若き日の冒険を思い出し、心躍らせる俺がいる。他方、俺はもうこの冒険を過去を懐かしむことでしか楽しめないのだと気づいたとき、強く自分に降りかかる老いを自覚したものだった。
「あの、先ほどから、道を確認せずに進んでいますが。問題ないでしょうか?」
「安心しろ、危険なことにはならん」
もちろん、アンタだけは、という注釈は付くが。
とうとう出口が近づき、女の冒険の終わりも見えてきた頃、出口の蓋から男が降りてきた。
一人は鎖帷子を着た大男で、地下で振り回すには少し長すぎる直剣を持っている。もう一人は裾の長いローブを深く被った、見るからに魔法使いらしい風貌の男だ。
『風刃』
しわがれた声が響いた。俺は女を掴み、思い切り横に飛び避けた。
俺たちがいた場所には、一メートルほどの大きさの刃型が残っている。威力は申し分ない。
しかし、女ごと狙いを定めてくるのは想定外だった。いざとなれば、女を人質にしてやり過ごすつもりだったのだが。
体勢を崩した俺たちを好機と見たか、大男が手を下に構え、猛進してくる。目測二十メートル、猶予は充分にあった。
俺は『過去への憧憬』の発動をタイミングを図りつつ、小ぶりなナイフを抜いた。
魔法には相手の身体に直接効果を及ぼすことはできないという不文律がある。自分と相手の人間には本質的な隔たりがなく、扱いを誤れば自我が崩壊するというのだ。
しかし、それは裏を返せば、相手の所持品程度なら効果範囲に入れても問題ないということだ。
大男が間合いに入った直後、すぐさま手を入れ替え、袈裟斬りの構えに入った。
やはり、力で押してくるタイプは厄介だ。俺のナイフじゃ、受け止めることも能わず、叩き折られるのが見えている。躱そうにも、後ろには女がいる。
刃が迫る、その数舜、俺は『過去への憧憬』を発動させた。
剣の急停止に耐えられず、男の手から剣がすっぽ抜ける。剣が空中に浮いたのを確認した後、魔法を解除した。
体勢を崩し、反るように前へと押し進む男の首元を、撫でるように切り裂いた。
運がいい。魔法使いとの闘いを心得ていない剣士だ。ある程度力量のある魔法使いの戦いは、どれだけ理不尽な初見殺しを押し付けられるかにかかっている。だからこそ、剣士は常に味方の魔法使いのバックアップを取るべきだった。
しかし、ローブ姿の魔法使いは動揺する様子もない。虚ろな目、焦点の合わない瞳孔、これは『出来損ない』か。
魔法使いは魔術師によって作られる。魔法使いの力量の九割は魔術師の力量によって決まると言っても過言ではない。
出来損ないの魔術師が作るのは、出来損ないの魔法使いだ。
脳の損傷が激しい男は、泥人形のように誰かの命令を待つのみになる。
「おい、駄犬、餌の時間だ」
俺が徐に袋包みを取り出すと、男の眼に光が灯った。聴覚は塞がれていないな。包みをこれ見よがしに見せつけた後、俺はそれを下水へと叩き込む。
「ほれ、取ってこい」
男は足元の覚束ないなか、懸命に包みを探している。奴は、もうこちらを気取ることもないだろう。
――全く、人の命を何だと思っているのか。
前世の声は、珍しくまともなことを言った。そうだ、この人を見定めるような輩、自身は何の損をも嫌うこの考え、これはまさしくフォークナー・ルイス、その人だ。
男は足元も覚束ないまま、懸命に包みを探している。もうこちらを気取ることもないだろう。
「行くか」
「は、はい」
このふざけた逃走劇もようやく終わる。俺たちは錆びたはしごに手をかけ、一歩一歩、上へ進んでいく。
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