第4話 過去

 過去が消えた。忌まわしい過去が丸ごと消え去った。

 友人も職も、信用も、すべて失った。


 そして残されたのは、この老いた体だけだ。


 これを死と言わずして何と言おう。これからは、些細な娯楽のために小銭を払う日々が待っている。街では疎外感に苛まれ、余所者としてあらゆる場で排斥されるのだ。


 気づけば、足は教会へと向かっていた。

 神に祈るためではない、恨み言を伝える必要があった。


 教会の前には、神前通りなどという大仰な名前の通りがある。街からの寄付で整備されたこの通りでは、炊き出しや賛歌合唱が盛んに行われていた。


 清潔さの行き届いた神前通りを急ぐ、すると独特の臭気が鼻を掠めた。



 清潔な神前通りを急ぎ足で進むと、独特の臭気が鼻をかすめた。

 炊き出しだ。俺も何度か世話になったことがある。

 神前通りの粥ほど不味い飯はこの世に存在しない。


 手に持ってみると、カビと埃に酢をぶちまけたような臭気が漂ってくるだろう。

 酸っぱい臭いを我慢して口に入れると、生ぬるい麦が喉を這う。粘度の高い餡のような汁は、少しずつ舌で喉に押し込まねばならない。ふやけた麦の食感は、虫を噛み潰したかのように不快だ。

 そして、最も恐ろしいのは、味がないことだ。

 泥や雑草にすらあるはずの味がない。それが、最悪な食感と臭いをさらに引き立て、奇跡的な不味さを演出する。


 

 吐いたものを、どうにか飲み込んだって、あれほど不味くはない。

 神がお与えになった罰の味だと、そういった風聞もあって広まった名は『神罰』。



 炊き出しの列に目を引く女がいた。


 美の化身と呼んで差しつかえのない見た目は、まさしく、神が凝り性を発揮したに違いなかった。肩まで伸びた金髪は、陽光を透き通らせ、それ自身が輝いているようであるし、身体を隠すように来ている丈長のローブの上でも、それと分かる豊満な肉体。

 男の夢に出る淫魔から、平均を取ったらちょうどあの女のようになるかもしれない。


 しかし、丁寧な所作や、生地の厚いローブを見るに、『神罰』を受けるような身分には見えない。


 女は粥を受け取ると、周囲を見回しながら走り去った。彼女に必要だったのは、粥ではなく人混みで、何かから身を隠しているようだった。


いや、考えすぎかもしれない。友人との賭けに負けて罰ゲームを受けているだけかもしれない。いずれにせよ、深く気にすることはない。

 いや、そこまでは考え過ぎだ。仲の良い友人との賭けに負け、絶賛罰ゲーム中って可能性もある。何にせよ、気にしないことだ。


 無知は力だ。知らないことは知られないことと同じで、知られなければ害意は寄ってこない。

 つまり、今の俺は誰にも知られていない。石ころ同然だ。一度知られた相手でも、もう一度死ねば、また知られなくなる。


 気づけば、神に文句を垂れるための口は、何か言い訳めいたものを話している。あの女を追いかけるための口実が欲しいようだ。

 論戦は後だ、追いかけてみて、どうなるか。



 神前通りを抜ける。鍵屋に服飾兼布店、閉業中の酒場を通り、右に曲がる。暗い路地の端には、痩せこけた野犬が座っていた。犬を何とか跨ぎ超え、頭上の蜘蛛の巣を引きはがす。ゴミゴミとした裏路地をしばらく歩き、そこに女がいた。


「おい、どうして、まだ『神罰』をもっているんだ?」

「それは、神様からもらったものは捨てられないからだけど。え、あなたはだれ?」


「俺は元衛兵だ」

「どうして止めちゃったの?」

「俺が在籍しているってことを忘れられたんだよ」

「なにそれ」


 と、女はくすくすと笑う。手を口元に寄せる所作は、明らかな身分の隔たりを感じさせた。その上、自身をここまで追いてきた不審な男に対しての、警戒心も足りない。


「食べないのか?」

「一口、口には入れたんだけど………」

「神に感謝を告げたくなる味だろ」

「確かに」


 女は足を放り出して座っていた。締めつけの強い靴が不快だったのか、素足を晒し、足をプラプラと漂わせている。


「それで、どうして私を追いかけてきたんですか?」

「ナンパだよ」

「娘ほどの女の子に?」

「確かにおじさんだが、そこまでじゃない」


 女は、そうですねー、と小さく呟くと、形の良い睫毛を瞬かせ、決意じみたポーズを取った。抱っこをせがむ子供のようにも見えるその姿、俺が疑問を浮かべていると。


「私は『フォークナー家』の一人娘です、と言えば分かりますか?」


 その言葉は一種の禁句だった。この街で最も不吉な言葉であり、誰しもが口にするのを嫌がる。そんな名だ。

 フォークナー・ルイスは、区長であり、独裁者であり、疑い深い男なのだ。

 ありもしないクーデターの影を恐れ、ちょっとした手違いで潰された商会などごまんとある。最も厄介なのは、彼の振る舞いを全て、意味ある何かに換えてしまう程の神憑り的な頭脳だった。


 その娘?馬鹿げている。視界にも入れたくない、というのが一般論だ。

 ともすれば、この小さく細い路地裏には、ありとあらゆる監視者が潜んでいて、絶えず俺の行動の意義を問うているのだろう。その裏では、俺の所属や、身分、そして過去の調べがついている。

 婦女暴行罪をでっち上げる法的根拠の取得はすんでいて、審問官のデスクには、判の押された書類が山と届けられているのだ。


「私をここから連れ去って、誰の目にも届かない場所に連れ去ってくださるのであれば、私はオシドリにも、鶴にもなりましょう」



 実のところ、俺はもう既に詰んでいる。ここで、この女の誘いを断ったところで、俺が危険因子であることに変わりはない。この区では、もう真っ当な生き方はできないだろう。


 女がわざとらしく靴を履いて見せた。



 気づけば、女の手を取っていた。狭い路地を抜け、用水路を飛び越える。視界の端には、何人もの大男が、焦って走り出すのが見えていた。



 緊迫した静けさ、耳に空気が詰まったような、閉塞感を感じる。驚くべきことに、女は俺と同じ速度を維持してついてきていた。貴族の女など、シルクのクッションの上で、甘味を口に運び続けることに精一杯だと思ったが、そうでもないらしい。


 ゴミ束を蹴り飛ばし、人混みを縫っては、路地へと身体をねじ込んでいく。突き当りの壁を乗り越え、視界が開けば、急旋回、奴らの視界に入らぬように立ち回る。

 気づけばスラム、すなわち、俺の庭に来ていた。


 スラムは天然の迷路だ。入り組んだ狭い路地に、違法建築物が集積して、開けた場所など存在しない。おまけに、雑多な家々に鍵などあるはずもなく、勝手口を把握しておけば、道のりは数十通りも存在する。


 しかし、酒浸りの横っ腹が既に音を上げ始めている。全く、怠惰な奴だ。


 追手はすぐ後ろまで来ている。見れば、奴らも魔法といったインチキの類を使っているの見えた。



「この程度の速度じゃ、十分も持ちませんよ」

 女は余裕そうに言う。


「分かってる」

 俺は奥歯の裏に隠してあった魔法催眠薬を噛み砕いた。鉄を噛んだときのようなピリピリとした異物感が口中を駆け巡り、その直後に頭がようやく回り始める。

 この感覚を、俺は「脳の輪郭が分かる」と表現している。

脳という器官が、手や足のように思いのままになるのだ。


『過去への憧憬』

 魔法の再現鍵を叫ぶ。魔法名はすなわち銘である。優れた刀剣に鍛冶屋が名を遺すように、優れた魔術回路も魔術師が名をつける。

 『過去への憧憬』の効果は単純で、視界内の何か一つを不変にする。ただし、何を不変にするかは選べない。時間も場所も現象も物質も問わず、何かを現実に縛り付ける


 元は『長持ち』という、鍛冶で用いられた補助魔法であったそうで、元の魔法も火の温度を保つとか、そんなものだった気がする。しかし、優れた魔術師の力で、戦闘用に押し上げられたのだ。


 俺は魔法を使用して、用水路へと飛び込んだ。

 勢いよく付いてくる女を、何とか空中でキャッチし、水上に着地する。

 直後、追手が水中へ飛び込んで水飛沫が上がった。


「おい、ここの水の汚さは尋常じゃないぞ?あいつら、大丈夫か?」

「ええと、まぁ、我が家は何人もの治療師を抱えていますし大丈夫でしょう」


 と、俺たちは地下へと続く下水路へと走った。

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