05 口づけは桃よりも甘く

「つ、疲れた……」


 玉璽捜索のお役目から解放され、帰ることを許されたときには芙蓉は慣れない作業に疲弊しきっていた。


 最悪なことにすっかり顔と名前(偽名)を覚えられてしまったせいで、明日も必ず来いと言われてしまっている。吏部としても「玉璽紛失」などという大きな問題に発展しかねない事故の存在を知ってしまった者たちを逃す気はないらしい。他の臨時のお手伝いたちにも髭男は「覚えたからな」と脅すようなことを堂々と言っていた。


 皆が肩を叩き合いながら官舎に向かって歩を進めていくのを横目に、こそこそと建物の影に隠れながら壁伝いに百楽殿から北上し、後宮の方へと近づいていたときだった。


だぁれだ?」


 ひっと喉の奥が狭まる。


 なんていうことはない。背後から手を回されて目隠しをされるという、あの児戯である。

 だが答えを間違えれば死を賜ってもおかしくない、そう覚悟させるような凍てついた声音の持ち主を芙蓉はただひとりしか知らなかった。


「へ、陛下……お戯れがすぎます」

「残念。外れ」

「えっ……?」


(わ、わたしは間違えていないっ、のになんで!)


 意地悪な返事に芙蓉になけなしの反抗心が芽生えたが、あ、とあることに気付いて言い直すことにした。


「竜藍様、驚かせないでください……」


 すると、すっと手が離され、くるりと芙蓉の前に蛇蝎皇帝、竜藍が回り込んで来た。


「うん、正解。やっぱり君は敏いから好きだな」


 好きの言葉が異様に軽い。ドキリとする以前にぞくっと背筋が寒くなった。

 竜藍の「好き」は木の葉一枚よりも薄っぺらい。そんな気がするのだが、指摘すると恐ろしいことになりかねないので芙蓉は口を閉ざす。


「さて、帰ろうか」

「あ……迎えに来てくださったんですか?」

「奥さんの帰りを待つのも中々面白い経験だったよ」


 言いながらひょいと荷物のように芙蓉を抱き上げ、後宮へと続く門を竜藍はくぐっていった。


 ✣✣✣✣


 どうやら女官長や、芙蓉のそばで侍る宮女たちには芙蓉が宮城に出仕(強制)することが既に報告済だったらしい。竜藍と共に後宮に戻っても、特に驚かれることもなく迎え入れられた。

 まあ、驚いていたとしてもあの皇帝に意見できるはずもない。そもそも芙蓉が後宮を出て、宮城きゅうじょう南部の政務領域に侵入すること自体が問題なのであるのだとしても。


 異民族の娘、という立ち位置ながら芙蓉は流漣国については或る程度の知識がある。それは流漣国に立ち寄るたびに市場の噂話に耳を傾けたり、書店で小説などを立ち読んでいたりして文化に親しんでいたからだった。それに親しくなった宮女たちから後宮でのしきたりなどの説明を受けて知ったこともある。


 多少なりとも知識があるからこそ、この状況が理解しがたい。


 しかもいつまでも――芙蓉の居室にたどり着いて随分経つのに竜藍に抱えられている状態が続いていることも、である。


「竜藍様、あの……いい加減、膝の上から下ろしていただけると」

「え、どうして? まだ嫌だよ」


 嫌、とまるで子供みたいな言い分で却下されてしまう。いまの竜藍はといえば、人形を抱く子供そのものであった。先ほどの目隠しといい、どうも子供の悪戯のようなことが続いていることに芙蓉は戸惑っていた。

 抱き方こそただの荷物担ぎから、背中に左腕で支えるような――恋人同士がするような密着した恰好にはなっているが甘い雰囲気からは程遠かった。


「ねえ芙蓉、そろそろ私のことが好きになった?」

「えっ、あっ……?」


 一瞬、何を言われたのかわからず気が動転してしまった。


(もしかしてあれもこれも好かれようと思って……? いやまさか)


 相手は蛇蝎皇帝である。

 何か考えがあってのことに違いない。芙蓉はかすかにどぎまぎした自分を戒めるように衣の上から胸のあたりをぎゅっと掴んだ。


「陛下……じゃなくて、竜藍様」

「なあに」


 春の日差しのように柔らかな声音が返って来るものだから、芙蓉は若干この反動が恐ろしくなった。


「もしかして、なんですけど。わたしが吏部に連れて行かれることをわかっていたんですか?」

「ふふ、どうだろうね」


 で、芙蓉はどう感じた――? 竜藍が声を低めると、すっと鋭い刃を首元に押し当てられたような感覚がよみがえった。ぞく、と芙蓉に震えが走ったのを見てとると竜藍は嬉しそうに目を細めた。


「確かに……その『失せもの』をしたのは大問題なのかもですけど。それ以上に何か、別の問題を抱えているような気がして」


 よりによって玉璽を紛失した、ということもおそらく竜藍は勘づいている気がしたが芙蓉は「失せもの」と言葉を濁した。董良や髭面を始め、半泣きで室内を捜索していた吏部の役人たちの顔が頭に浮かんだからであった。


「……」


 ちら、と竜藍が芙蓉を見遣ったが、芙蓉は気づいたようすもなく思考の中へと沈んでいく。

 吏部は通常業務と並行して玉璽探しをするために臨時で増員しなければならないほど困窮しているらしい。しかもなりふり構わず、彼らが部屋中を引っ掻き回すのさえも許している。

 それがどうも、芙蓉は腑に落ちないのだった。


(何か、玉璽探しの他に別の意図がある……? いや、まだ「視えて」いないものが多すぎる)


 芙蓉が目を伏せて考え込んでいると、竜藍は盃にさざなみのようにまるく盛りつけられた桃の切片を手に取り、口元に差し出してきた。


「あーん」

「え、うぐっ」


 ひらきかけの唇にぐいと押し込まれた桃はやわらかく甘い。口の中いっぱいに瑞々しい果汁が広がる。美味しい、けれど何故。戸惑う芙蓉の一方で竜藍は満足げだ。


「竜藍さま、ひとつお伺いしても……?」

「どうぞ?」

「……あの課題、って」


 ――君の眼で盗人を探してきて。


 吏部は玉璽を失くしたのを内々に済ませて、竜藍には報告を上げないようにしているようだがおそらくこのひとは何もかも知っている。知っていて、芙蓉を吏部に潜入させたということは――つまり、


「っ」


 言いかけた芙蓉の口をふさぐように、唇が触れた。


「……甘いね」


 少し動いただけでふたたび唇が重なってしまいそうなほどの距離感で竜藍は言った。


「そ、それは陛下が桃をわたしに食べさせたからで、は」


 芙蓉が言いかけた言葉は再度口づけられたせいで呑み込まれてしまった。


「――芙蓉」


 唇に残る甘い痺れにぼうっとしていると、竜藍はにっこりと微笑んでいた。


「君の『眼』があれば、すべてが明らかになる――私はそれを期待しているんだ」


 どうか裏切らないでね、という穏やかなのに深い闇の底に突き落とすような声音に晒されて芙蓉はくらりとした。

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